20220526

日記23

 昨日

渋谷公園通りミュージアムに「線のしぐさ」を見に行く。描画における点と線の違いについて考えさせられた。線を引くと、その線に求められて新しい線を引く必要が出る。それを繰り返していくと何本もの線が引かれることになる。際限なく線が引かれていいわけだから何本だって線を引いていい。そうすると線が集中する場所、何本もの線が重なる場所が出てくる。そして、いつかは線の引き終わり、最後の一本を迎え、それによって作品が完成するということになる。それはもう線が引かれないでもいいという地点への到達と見なせるだろうか。そうだとするなら、もし引く線の本数に制限を設けて、ある本数になると一本書き足されたら一本消えるというふうにすれば、完成にいたらないということはあるのだろうか。

なんか言ってるが、線を引くじゃなくても点を打つだったとしても点同士の関係は生じそれによって新しい点を打つ必要が出そうなものだと思う。ただ、線のほうが点よりも粘っこいというか慣性の働きなどもより前面に表れるのだろうから線のほうをフォーカスしてこういうことを言っているんだろう。いずれにせよ実際に引かれた線ではなく概念上の線のことを見ているようだ。

ミュージアムを出てそのまま歩きで代々木公園に行く。バラを見たり本を読んだりドッグランで犬を見たりする。犬同士の交流は語彙数の豊富なボディランゲージという感じで見ていて飽きない。どの犬も自分の世界と自分の役割を持っていて、それは飼い主を強く意識したもののようだった。ある犬などは他の犬どもから飼い主を守らなければならないとずっと気を張っていて、見ていて頼もしいような気の毒なような気にさせられた。のどが渇いたらベンチ前の水道のところにきて「水を飲みたい」という主張をするのはどの犬にも共通していて、単純だけど賢いと思った。

自分の日記ながら、一年経ったちょうど今、書こうとしている小説が犬をモチーフにしたものでその符号に驚いた。まあ自分なのだから符号もなにもないといえばそうなのだけど、この日記のことは完全に忘れていたから角から飛び出した相手にちょっと驚かされてそれが自分だったという驚きにも似た奇妙さがちょっとあった。

飼い主の手を自分の手とごく自然に考える犬の賢さについては、なんとなく思い当たる節がある。

その後メトロで明治神宮前〜西新宿に移動する。さっと用事を済ませて帰る。ちょっと入った路地にゆっくり動く猫がいた。ゆっくり挨拶しようとしたけど駄目で、近づいたら素早く逃げていってしまった。

この頃は引っ越し候補に西新宿が入っていて、しかもそれなりに合う物件を見つけていて内見までして感触もよく、そのうえ猫にも会えたので縁起もよく、幸先がよいためにここに引っ越すかなと思っていたのでこうやってぼやかして書いているわけだが、結局のんびりしているうちに埋まってしまった。

帰り道に寄ったスーパーで玉ねぎの大小二個入りが500円で売られていることに驚いて思わず声を上げてしまう。安さを売りにしている系のスーパーマーケットでこんな非道がまかり通っていると思うと胸が痛くなった。

この頃の異常事態はとっくに収束しているがその代わり全体的に物の値段が上がっている。経済を勉強したこともあるのでそれがいいことだと理解しているつもりだが、たまごの値段など見るとつい悔しい気持ちも湧いて出る。

『失われた時を求めて』の3巻を読み終わる。全14巻とあまりにも先が長いため根を詰めずだらだら読もうと思ってその通りにしたが、密度はすごいし、同じところに長くいるかと思えば急に別の場面に移っているし、独特のリズムがある。2巻と3巻ですでに「反復」が見られる。話者の恋愛が他人事なのに他人事で済まないように思えるのは、話者のペースに沿って進むからなのか、それとも他の要素のせいもあるのか、ちょっと判断しかねる。あれだけ熱を帯びていたものが、今はまったく熱くないと感じる時の「分裂」の感じを、深い部分で自信を損なうことになってもおかしくないのにそうならず、自分事なのにたんに分裂しているとしか思えないというふうに観察できていて、そこにある変化のことも四季の移り変わりのように自然に捉えられているのがやっぱり不思議だと思う。悲しみの中にあって考えたとき、これがこのまま伸びていけばいつか悲しみの果てにたどり着くと思い込んでいても、それからしばらく時間が経てば実際にはそんな場所に立っておらず、いつの間にか第二幕へ移っているのを知って奇妙に思いながらも演じるのをやめない、そうしてべつの衝撃に備える……、ということを続けているのはスワンだったか「私」だったか、わからなくなった。

『失われた時を求めて』は途中で置いている。いつか読むことになるのは間違いないし、一気に通読するというのがこの作品に適した読み方というのでもないからそれでいいと思っている。充分な時間をかけてゆっくり読めば、この人生とはべつの人生をもうひとつ味わえると思っても決して無理ある考え方ではないと思う。あとは読むという感じをどこまで減らせるかにかかってくる。読破とか言っていてはまるで意味がないし、再読を前提にするのがいい。それでもかなり長い小説だから読み終えたときの読破感は避けられないだろうが。

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