20220513

日記19

早起きして9時に信濃町に着く。駅構内のBECK'Sコーヒーがスタバのようにせせこましくなくていい感じ。モーニングをいただく。

草枕の次に読むのは虞美人草に決める。虞美人草を書いた時の漱石はまだ心も三四郎も門もそれからも道草も行人も書いていない。作を並べるとどんどん書けるようになっていった軌跡がはっきりわかる。通常とちがうのは書けないところから書けるようになっていくのではなく、「書けすぎる」ところから「すぎる」部分が取れて「書ける」ようになっていくところだ。草枕は音読してみるとすごかった。虞美人草もすごいんだろうと思うのでたのしみ。

漱石の小説の軌跡についてあんまりこういうことを言っているのを見聞きしたことがない。ちゃんと検討して書いたら、少なくとも「ある視点」から論じられるのではないか。

GCPのCloud Engineeringを完了。クラウドのエンジニアリングは俺に任せろ。

テアトル新宿に『EUREKA』を見に行く。青山真治は多部未華子主演の『空に住む』しか見ていない。『空に住む』は地面の存在をまったく感じさせないような異色作で、美男子の人物造形に爆笑を喫してしまった以外に見るべきところもない完全な駄作だった。一方、傑作の呼び声が高い『EUREKA』がどうなるのか、期待と不安がちょうど半分ずつで、すごくたのしみ。


↑の草枕が「書けすぎる」というのは表現の幅に制約を設けないということで、漢文も使えば英文も使い、必要以上の装飾をもって遠慮なく文章を飾っていることをいう。これは簡潔に記述することよりもなお無遠慮で、ずんずん進んでいくその印象が書けるという可能態の可能性を強調している。

必要以上の装飾というときの「必要」というのは、ある語感に調律してそのチューニングで書きすすめるという意味で書き手側に必要があるということがいえるので、反対に必要がないということはいえないことになる。ただ調律の段階で読者を限定するようなやや高い場所を選んでいる。その高さを選ぶ必要はあっただろうか。無いような気がする。ただ前期の文章には後期の文章とはちがう読んで面白い語感がしっかりあるのでバリエーションという意味で両方あって良かったと思う。

書かれた文章が装飾を必要としないかといえばまったくそんなことはない。伝達上の必要はそのように記述しないでもかなうとして装飾部分をばっさり切ってしまえば、すべてが台無しになってしまう。

草枕は文章全体がレトリックや修辞であるとも捉えられる。草枕の文章がその意味を伝えるためにはどうしてもあの書き方しかない。それに、過度に装飾を用いない文体のほうに作者の衒いが感じられることもある。衒気があるとか無いとかそんなのには構わないでただ読みやすければそれでいいとする立場もあるかもしれない。その主張に対して言うべきことはない。もしその主張がだんだん幅を利かせて、装飾するのはすべて悪いということになるとすれば、そのときには言い返さなければならない。悪い装飾が悪いのであって、良い装飾は悪くない。むしろ良いのだと。いや、装飾されている時点で良くない、そこに良い悪いの区別はない――とあくまでも強弁されるのであれば、ものの見方がいささか貧相だと言わなければならない。それにそもそも読みやすければそれでいいというのも小説を読むのに適した態度だとは思われない。ほかに頭を働かせるべきことがあるわけでもないのにとにかく読みやすくしてほしいというのは少々吝嗇くさくないだろうか。財布の中身が雀の涙なのであれば話は別だが。(ケチとか財布の中身とか、言わなければならないことでは全然ないと言わなければならない)

『草枕』については、あの書き方が読む側にとってどう感じられるかとはべつの領域で、自然に書かれている作品だと感じられる。これを筆の進む方向に物語が進んでいるということかと言われると、そんな気もするし、旅における移動によってその場所の情景が一旦終わりになるというのをそのまま書いているだけにもみえる。ただその筆が進む速度については早くもなく遅くもなく自然のテンポで進んでいるというのが、自然に書かれているという感想の中身だ。

書くものから内的なリズムが感じられるとそれにはきちんとした理由があるように感じられる。きちんとした理由というのはいちいち理由としてそれを説明しないでもいいようにできているもので、説明を免除されているのがもっともきちんとした理由ということになると思う。すなわち自然だということ。とはいえ自然というのももう昔ほど万能ではないが。



さて、『EUREKA』を見た。東京こと秋彦がとにかく良い。あれこそが映画の良心というものだ。良心などどうだっていいというスタンスの人にとっても秋彦の重要性は説明抜きでわかる。役所広司はどちらかといえば役得のように思う。子供のふたりにセリフを喋らせないことが演出上絶対に必要だからその意味でも秋彦の貢献はでかい。狂言回し的役割とは別に、秋彦自身は揺れながらも世の中的な正しさの側にいてしかも暴力によって排除されるんだからあれで最後に笑うのには喝采をおくりたい。本当にジョーカーの笑い声なんか目じゃない。役所広司が悪いやつではないにせよ全然良い人なんかではないのが重要だからその意味でも秋彦はでかい。とにかく秋彦こと東京が素晴らしい。光石研のことを若松と呼んだのも素敵だった。

このタイミングでしか見られなかったと思うがもっと早く見られなかったものかとすこし残念に思うほど良かった。

『EUREKA』は上映時間の長い映画なのだがそのことに触れていないのはどういうことなのだろう。映画を見て感じたことを思い出そうとして慌てているようだ。第一感というのではな ないが、秋彦のことをまず書きたいと思ったというのは伝わってくる。『EUREKA』はある事件をきっかけにうまく立ち行かなくなった生活をなんとか立て直すための旅路を描いたロードムービーという側面もある映画だが、事件の外側から途中参加することになる秋彦の役割というのは小さくない。それは映画自体からも感じ取られることだし、関わり合いになるというのは秋彦のように最初ゲストとして参加してだんだん馴染みになっていくということからしかスタートしないという一般的な事情とも一致する。それでいながら、結局ゲストのままで退場していくというのも一般的によくあることだと思われる。ただ、最初はゲストとして椅子に座ることから始まったとしても、時間の経過や共有したものに唆されるようにして、いつまでもゲストのままではいたくないと感じるようになるものだし、実際にゲストではないかのような振る舞いをしたがるものだというのは理解できる。事と次第によってはそれが功を奏することもあるのだろうけれど、その試みのかなり手痛い失敗として秋彦の途中退場は描かれていて、バスから放り出されたときの笑うしかない悲痛さというのは充分に迫力あるものとして画面から直接語りかけてきた。ジョーカーはその笑いを記号として引き受けるキャラクターのことだから、内実はさておき、感じ方として力が逃げていく余地がある。秋彦の退場時の笑いにはその逃げ先がなく、悲痛なままそれを引きずって映画が終わりに向けて進んでいくので、切り替えができず、うまく処理できないことで印象深いシーンになっている。

ユリイカの役所広司のように、きちんと話し合わなければならないのに恐怖心からそれを回避して、ただそのとき進める方向へどんどん進んでいき、結局は悲惨な状況を作り出してしまうというのは誰にとっても教訓になることだ。いや、この書き方はごまかしだ。誰にとっても教訓になるのは間違いないが、自分の今の状況がまさにこれと同じであるように思える。一度止まってでもしっかり考えて行動するべきだ。まずは一度止まること。なんというかすごく流れているのを感じる。流れているのか流されているのかはわからないけど、すごく流れていっている。

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