20220510

日記17

 スコット・フィッツジェラルドの『最後の大君』を読み終える。グレート・ギャツビーほどの大作ではなかった。訳者の村上春樹は読み返してみて評価をあらためたと言っていたが、あまりピンとこなかった。さすがにフィッツジェラルドだと思わせるような面白いところはあったけれど、世に言う「未完の大作」の中では惜しくない方に属する。巻末に附されている遺稿のノートの中にこういうふうに見せたいというフィッツジェラルド自身の覚え書きがあって、それによって結末はどうなったんだろうという疑問が解けたのも良くなかった。読者にこう印象されたいという作者自身のメモ書きと、何作か読んで作者のタッチが意識に浸透しているのとがあれば、そこから計算してなんとなくこんなふうだろうと脳内で再生できる。そのイメージがつまらないのは再生機器のせいかもしれないけど、そこからどれだけ磨きをかけて解像度を上げようとも想像以上のものにはならないのはほとんど確実。そのイメージがどこから来ているものかを思えばこれはむしろ賞賛と捉えられることかもしれないが、そもそもそれ以前の問題としてシンプルに続きが気にならなかった。

ただ、スコット・フィッツジェラルドがその磨き上げられた文体を通して時代精神を映しているのは確かで、『ラスト・タイクーン』がかなり綺麗で見目がいい形で1920年代のアメリカの空気感を今に伝えているのは間違いない。いずれにせよそれ以上のものを要求するのははっきり言って筋違い。『グレート・ギャツビー』では完成された寓話の強烈な印象がとにかく目を引くから、そういった限定的な空気感を味合わせるのはむしろラスト・タイクーンのほうだと言えるかもしれない。ただそれにしても一読したときの印象にすぎず、大は小を兼ねると言う言葉のとおり、時代精神を感じようとするにしてもグレート・ギャツビーを再読すればいいだけ。まあ二読した程度ではギャツビーの奥にある時代精神みたいなものに届くかは微妙で、「あれは固有の精神であって時代精神のようなふわふわしたものではない」と全然言いたくなるとも思う。ただその場合でも三度四度と読み直せばいいだけの話。そもそも私にとっては時代精神なんていうものが再生されたところで別段興味が湧くわけでもない。きちんと再生されることに驚き、すごいなと感心するけれど、それにしたって100年前のオルゴールが今も鳴る、すごい! というのと大して違わない。昔の小説を読む動機がそのあたりにあったり、アンティークに興味がある人にとっては良い小説なんだろうか。

未完の絶筆がとにかく惜しまれるといえば漱石の明暗、それとは反対に、絶筆でかえって良かったと思わされるのはカフカの城、どっちがよかったのか決めかねるのがドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟とそれぞれに代表があるとすれば、べつにどっちでもかまわない代表がラスト・タイクーンということになった。太宰のグッド・バイと横並び。

フィッツジェラルドが娘に宛てた手紙のなかに以下の文章があると訳者あとがきに書いてあった。


「人生とは本質的にいかさま勝負であり、最後にはこちらが負けるに決まっている。それを償ってくれるものといえば、『幸福や愉しみ』なんかではなく、苦闘からもたらされるより深い満足感なのです」


より深い満足感は措くとして、フィッツジェラルドは幸福や愉しみをあきらかに低く見積もっていて、そこにこそ彼の作品の面白さの秘密がある。そういう流行、それに乗ったのかそれとも作ったのかわからないが、そういう考え方の流行のようなもの、現在からみれば「時代精神」があって、スコット・フィッツジェラルドはかなり忠実にその流れを下っていった作家だ。

それがわるいと言いたいわけではないが、自分がどう考えるかということをかなり真剣に考えているようだ。他人からすれば大した違いとは思えないであろう内容のちがいや表現のちがいにいちいちむきになって、そのちがいについてどのようにちがうのかを明らかにしようとしている。たとえば行動にともなう動機があるとして、動機Aと動機Bとの組み合わせのうえに行動が成り立っているのをわかっていながら、動機Aが大々的に取り上げられているのに気を悪くして「動機Bこそ」と言いたいあまり、むしろ動機Bによって行動は成り立っているのだと強弁するきらいがある。正しいかどうかはべつとしてそれならまだましなほうで、ここに見られるのは、動機A:動機Bの割合が8:2と言われているがそれは間違っている、動機Bの割合は少なく見積もっても3はあるはずだと主張することだ。こんなふうに動機Aが主な動機だと認めていながら動機Bの割当がもうすこし増えてしかるべきだということを一生懸命主張するのは、無関係な他人からすればどうでもいいことのひとつに数えられることだろう。

正しくありたい。が、自分が感じるままに感じるということから手を離したくない。どっちつかずの態度がこのような書き方になって表れる。それがわるいと言いたいわけではないが、すこし時間が経ってから振り返ればその意図が浮き彫りになる。とても狭い範囲で、そのうえ曖昧な模様として。だからそこに嘘はないのだが、もっと大胆に嘘をついてみてもいいんだよと言ってあげたくもなる。


久しぶりにジムに行って泳ぐ。来月から月額料金を1100円値上げするという案内が届いたので5月いっぱいで解約することにして、その手続きを済ませる。これからは泳ぎたくなったときには市民プールに行く。歩けないぐらいの距離なのですこし遠いが仕方ない。その後、井の頭公園を散歩する。

このジムのプールは部屋を出てから5分経たないうちに水のなかに浮かんでいられるぐらい近い距離にあってとても良かった。水に浮かんで手足を動かし、水をつかむ感覚で推進力を得るのは特有の楽しさがあってよかった。視界一面が青色で統一されているのも異界という感じが手軽に得られてよかった。泳いだあとに暗い公園を散歩しながら音楽を聴いて、缶チューハイを飲むのも楽しかった。当時は毎日に浮遊感があってバカンスの時期として思い出せる。まあ一年しか経っていないんだけど。

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