昨日
六本木の公園までのんびりしに行く。天気が良くて過ごしやすい気候の公園でのんびりするのはもともと得意中の得意なので、存分に羽を伸ばす。
犬を散歩させていたり子どもを散歩させていたり、みな思い思いに憩っていて、それを眺めているだけでも楽しかった。男3人で歩いているご機嫌なやつらはさすがに見かけなかった。
座るのに適当な芝生があってそこに腰を下ろしながら、企画なのかタイル絵がいくつも展示されていたのでお気に入りを探しながらぼーっとしていた。
下北沢の不動産屋で良い物件がないか聞きに行く。ネットで見つけたのと同程度の良物件も見つからず。
不動産屋というのは色々な仕事があるのだろうが、そのなかでも賃貸窓口に関しては、我々にとって有益とは言えずしたがって優秀とは言いたくない人間が多い。しかし、実際には業界内部ではそういった輩が優秀だとされているのだろう。賃貸物件を見に行くとそういう人とばかり遭遇する。そして、そういう人との交渉に疲れた夕方頃、べつの店舗で人の良さそうな若い女性が担当になり、最近このあたりに配属になったんですなどと言い、あまりわかっていないながら一生懸命案内してくれるという罠もある。もちろん、案内してくれる物件は先程までのクオリティと何も変わらない。
騙されるんじゃないかという気持ちが強すぎるのかもしれないが、つまらない部屋から埋めていこうとする意図が向こうにあったとしても不思議ではないので注意するに越したことはない。ただ、もっと協力を仰ぐようにしながら、自分の条件をはっきり口にすれば変わるのかもしれない。そうは言っても相性はある。無理なときはどうやっても無理だ。
吉祥寺で鶏肉野菜炒めを作って食べる。
当時からこんな料理ができていたのかと思うと月日の流れの早さに唖然とする。今は昔より調理器具が充実しているができるとは思えない。やろうと思わない。
さらに一年経った今ではペペロンチーノチャレンジも成功させているし、やってみようと思ったときにやってみるというスタンスで必要十分だ。
鎌倉殿の13人を見る。最後の歴史案内のコーナーをしめた芭蕉の句が全体を昇華して良かった。ドラマを見ていても情緒面でどうしても血なまぐささについていけず。感情が揺さぶられない結果、道理にも無理に通そうとした形跡が目についた。情緒もなく、道理もないと感じられたらそのドラマ視聴は破綻していることになるのだが、不合理な世界観のなかでたまに気持ちのいい部分があり、その小さな断片を飛び石のようにして興味を繋がれている。今回でいうと前景にあるメインパートの脇にあってむしろ後景に控えているような出方をずっとしてきた武蔵坊弁慶から「やめてください」というセリフが飛び出たのがよかった。これは義経から最後に労いの言葉をかけられてそのあらたまった雰囲気に照れて思わず飛び出したセリフだったが、ふたりの関係を一言で表わす良いセリフだった。こういうシーンがあるから、義経にしろ頼朝にしろ筋の悪い劇に引っ張り出されてセリフを言わされている感が出て、舞台の上に立った以上は是非も無しと無理から芝居をさせられているように見える。歴史という筋書きのあるドラマの上演を嫌々させられている公の場での姿と楽屋でひとりごちる姿がまったく別のものになるのは当たり前のことで、頼朝はそれをやるプロとして子供の頃からキャリアを積んできている。鎌倉に来てから急速にその経験を積んでいったとはいえ義経がそれに敵うわけもなく、まさに役者が違うということになる。ただ観客が変われば何を良いとするかも変わる。ここでは役者の違いというより役の違いが、よくない筋書きが所与のものとなって歴史という名前が付くに及んでなぜか良い筋書きだと勘違いされるようになることで、捉え方の面で逆転をきたし、両者の印象の好悪が反転する。しかも物語によって固着された善悪は容易には再逆転できず、例外的にそれが可能になるとすればあらたに説得的な物語をぶつけることぐらいしかない。弁慶が歴史の表舞台へと躍り出ていくのを舞台袖からのぞき見る義経が痛快そうにしていたのは、向後何度も上演されることになる人気演目の初演を特等席で見られたこと、まさに歴史的な瞬間が現在進行系で刻まれていることを意識した興奮があったからだろう。舞台の上では残念な筋書きが展開されているというのを前提に、楽屋裏でのドタバタを見せるという趣向の喜劇の、必ずしもコメディではないバージョンが歴史劇「鎌倉殿の13人」だと現段階では認識している。
ようするに、歴史上の人物であれ、現代社会を生きるわれわれであれ、公的な人格と私的な人格が分かれていて、歴史上の人物は前者が前面に出た状態で記憶されることになるが、ドラマでは後者を使って物語を盛り上げることができるという話だ。歴史は、勝った側の視点で書かれた文書からなる。その性質から勝利の立役者の人格が偶像化するのは当然のことだが、そこから部分的に漏れ出る、人間味を感じさせるパーソナルな領域というのも垣間見られ、それが魅力となって語り継がれるということもある。反対にそれが原因となって人気がなくなる人物がいてもいいはずだが、彼らはもう死んでいるためその失点については免責されるのか、人格的な特徴のうち長所とは言えないものを備えている人物も、存在感を発揮することこそあれ失うことはない。
鎌倉殿の13人が面白かったのは、義経を優秀な人殺しという突き放した視点で描いていたことで、それは義経に代表されるが義経だけに及ぶものではなく、武士として優秀な人物はすべて人殺しであるとの前提に立っており、その突き放した見方、緊張感のある視点のなかでこそ、そんな彼らにも愛嬌のある一面があるというコメディリリーフが効果を発揮していたことだ。実朝にしても、彼の姿勢と彼の歌はやはり泥の中に咲く花としての美しさであり、血なまぐさいキャンバスの上に描かれる無垢の白百合という印象が、美しさを強調してしまうという業から逃れられずにある。
まずは有名であるということからすべてが始まっているということはいえる。知っている名前であるということが起点になるというのは当たり前のことなのだけどやっぱり重要な部分だ。彼らが生きた時代から見た遠い将来にもまだ名前があるということ。
面白みのない殺人者と面白みのある殺人者のどちらを選ぶかというのは問題にならない。しかし、面白みのない非・殺人者と面白みのある殺人者のどちらを選ぶかというのは、はたして先の問題のように一蹴できる選択だろうか。現実においてとフィクションにおいてとで回答が異なると考える、現実とフィクションを区別する人にとっては、問題はさらにややこしくなる。
そのような区別がどこまで有効なものなのか、だんだん雲行きが怪しくなるなかで、一旦仮でおこなった選択がうまく撤回できるものか自信が持てないということも十分考えられるだろう。
フィクションとして面白さを求めるなかで、たとえ殺人者であっても魅力的だと感じられるということは起こりうる。そうした場合、自分のなかでの倫理観に整合性を保つため、殺人にもそれに付随する固有の事情があり、十分認められる場合もあると考えるのは自然である。その際、フィクションだからという理由でその判断を甘くするようなことがあっては危険で有害でさえあるというのは、フィクションでもその登場人物の善悪の判断を行おうとするものにとっては自明である。
一方、フィクションである以上それを善悪の判断をする材料にしないという考え方がそれに対置される。登場人物が葛藤の挙げ句、正しい行いをするということが物語の良さであるとは考えないという捉え方だ。しかし彼は良さを得ないからといって無為にフィクションに接するわけではない。そこから面白さを取り出してそれを享受するのだ。面白さというのは、主要な登場人物が結果的に正しさに行き着くというところにあるのではなく、その道行きのなかに、そこに行き着くまでに生じる葛藤の中にあるとする姿勢である。もやもやしたものをスカッとさせるところにではなく、もやもやさせられることのなかに面白さがあるとする感性を涵養するために、そして涵養したその感性を使って、その感性でしか得られない特別の面白さを、べつのフィクションや、現実の中にある通り過ぎそうな一瞬間に感じるためにある。
ある物語における登場人物の思考や言動がセーフかアウトかを判断するためにフィクションがあるわけではないため、戦いの結果勝つことになるその主要人物が言っていたから正しい、そのように行動したから間違いないとすることはできない。そもそも倫理表面的には、そうすることができないということを知るためにフィクションがあると言ってもいい。それが自分たちの側にあるから正しいとすることはできないということは当たり前のことだが、おそらく、そう考えることを感じることのレベルで実践するのは簡単ではないはずだ。
優れた物語では例外なく、善を体現するキャラクターはひどい目に合う。善を体現するキャラクターが登場し、そのキャラクターがすべてを解決に導くという内容のものもあるが、それは聖書がやろうとしていることをスケールダウンさせたり、部分を特化させて、つまり「善」という全体ではなく、もっと具体的な「可愛さ」「可笑しさ」という部分において実現しようとしたものということになるだろう。
善を体現するキャラクターがひどい目に合わない物語を読みたくないと思うのは、善を体現するキャラクターはひどい目に合ってほしいと思って物語を読むということに近い。しかしそうは思えど、現実世界ではそのようなことは一度も起こってほしくない。そう思いながらフィクションではそれが起こらないでは満足できないのだから、フィクションでのことを現実に持ち込むのはいよいよご法度ということになる。
優れた物語を現実に役立てようとするのは、すべての場合において、油絵をよく燃える燃料として取り扱うことと同程度の考え方だ。ケーススタディをしたいのなら、適したケースは現実のなかにいくらでもある。
現実とフィクションをきっちり区別するというのは現実側の考え方、現実とフィクションが曖昧になるというのはフィクション側の考え方だ。フィクションにおいて現実側の考え方をあえて導入する意味はうすいが、現実においてフィクション側の考え方を導入する効果はそれなりにある。しかし、それをすると、たとえ面白くなったとしても現実ではなくなるということを明らかにしなければ済まない。いや、現実ではなくならない。そう考えることも可能だろうが、それ自体はやはりフィクションの考え方だ。何かを現実であるとすることにはかなり厳しい条件がある。
ゲームしようとしたところHIMARIのバイオリンでザッピングの手が止まり、気がつけば亀井聖矢のピアノまで夢中になって見てしまう。10歳のHIMARIのあと、20歳の亀井が「自分のやり方を見つける」をテーマに10歳からの10年間を過ごしてきたと言って、サン・サーンスの演奏を見せる構成に引き込まれた。その演奏には特別触れるものがあった。
本当に感動したのだったが、これを読み返す今までそのことをすっかり忘れていたし、どんな演奏だったか、どんなの曲を演奏したのか、まったく思い出せない。それでもこうやって日記に書かれてある以上、本当に感動したのにちがいない。やろうとしたゲームはたぶん時期から考えて「ドントスターブトゥギャザー」にちがいない。
全然ゲームをやらなくなってしまった。起動するのが億劫だというのもあるし、単純に毎日の生活に余分の時間が無くなっている感覚がある。小説を書くのはおろか構想することもしていないのに余分の時間がないというのはどういうことだ。
寝る前に坂本慎太郎のアルバム「物語のように」発売に関連するインタビュー記事を読む。
インタビュアーの質があまりよくないよう見受けられたけどよくない球でもいなさずに打ち返していて結果いいインタビューになっていた。
いなすというのは相撲用語だと今は相撲を見て知っているが、これを書いているときにはよく知らないまま雰囲気で使っている。そうやってなんとなく使いたいと思ってよく知りもせずに使う言葉が自分が書くものには多くある。使用語彙は多ければ多いほどいいと思っているから、書こうとする内容の的確さや正確さにそこまで興味がないから、いい加減な言葉遣いを恥ずかしいものだという意識に欠けるから、これらが綯い交ぜになって思い浮かんだ言葉をすぐタイプしている。これが手書きであれば、漢字を調べる過程で意味についてもより詳しく学習するか、調べるのが面倒だから知っている言葉でやり繰りするかのどちらかになるだろう。そういう意味で、自分が書くもののほとんどは半分以上ワープロソフトが書いているのだといえる。反対に喋るときには相手に合わせるつもりで語彙を絞ってしまう癖がある。語彙については書くと言うとのこの配分をそれぞれ逆方向にバランスしたい。
使用語彙についてのスタンスの話はこの時点では一応決着していて、むやみに広げないというところに落ち着いている。自分にとって馴染みの深いと感じられる語彙に絞って書くということをしようというのがここ三ヶ月程度の実践にも表れているはずの試みだ。わざわざ読み返したりしないけど大丈夫だよな……。
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▲:今回のアート・ワークは何かメッセージはあるんですか?
坂本:いや……とくにない、と言っちゃうと終わっちゃうか(笑)。
一同:(笑)。
坂本:まあこういう感じがいいかな、と思って。
「まあ、こういう感じがいいかな、と思って。」
これが台詞になっているのがすごい。
■坂本君にとって、いま希望を感じることってなんですか?
坂本:希望を感じること。うーん……(長い沈黙)。
■乱暴な質問で申し訳ないですけど。
坂本:うーん、なんですかね? なんかありますか?
■酒飲んで音楽聴いて、サッカー観たり……、これは希望じゃないか(笑)!
坂本:個人的なことで真面目に言うと、いい曲を作ることには制限がないじゃないですか? 何となくでも、こういう曲が作りたいというのがある限り、それに向かって何かやる、ということは制限ないから、それはいいな、と思う。あと、楽しみで言えば、酒飲んで……みたいな、それくらいしかない(笑)。でも作品作っておかないとね。良い作品作っておけば、しばらく酒飲んでてもいいかな、と。それなしだとちょっと飲みづらいというか。
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希望は何かと聞かれて「いい曲を作ることには制限がない」と答えるのは迫力があるし元気がもらえる。
とにかく俺は石を積むと決めている迫力。何かが楽しいと思っているうちは大丈夫だと励まされるようで元気がもらえる。
「いい曲を作ることには制限がない」何回でも繰り返したい言葉だ。
一年前はこのインタビュアーはいい加減で全然駄目だなと思ったけど、今読み直したら、ここに書いてあることを切らずにをそのまま出したことには意味があるし、そうやってインタビューを出してくれるということに関わる信頼を坂本が寄せているのだとしたら、肯けるところもあるなと思った。
いいわるいではなくて、希望は何かと訊かれて「酒飲んで音楽聴いて、サッカー観たり……」と応えられるのはすごい。相当肩の力が抜けていないとできる芸当ではない。自分がすでにその方向にむかって進んでいるという意識があるから、そこから何か有益なものを得られるとは思わなかったけどそれはそれとして、本当にそれが答えなのだとしたらいいわるいというのを超えて単純にすごい。
そして坂本は瞬時に勝手に「酒飲んで音楽聴いて、サッカー観たり……」というのを「(良い)酒飲んで(良い)音楽聴いて、サッカー(の良い試合)観たり……」と翻訳したうえで言葉をつないでいて、それはおそらくインタビュアーの側の回答意図にもそぐうのだろうから、だとしたら両者立派だし、インタビュアーの言葉自体も、いいわるいで言うところの「いい」ということになる。酒飲んでというのは”言うまでもなく”良い酒を飲んでということで、音楽を聴いてというのは”言うまでもなく”良い音楽を聴いてということなのだとしたら、いちいち良いという形容詞は付けないのは正しい。
良いということにはいくらでもこだわれる。「良い」ということにしても、良い「良い」というのがあると考えて研ぎ澄ましていくことができる。ただその進歩で固定させると「鋭い」ということの磨き方になるから、研ぎ澄ますというのはあくまでも例であって、広げていくという言葉でも言い換え可能なものでしかない。あらゆる形容詞を例にとって飾ることのできる良い部分のことを「良い」というのだとすれば、その在り様を千変万化させようとするのもこだわれる要素のひとつだ。たとえばその変化に「悪い」を含むものと含まないものがあり、それらがたまたま隣り合って並んでいたとしたら、意識できるかぎり「悪い」を含む方を選びたい。