20220526

日記23

 昨日

渋谷公園通りミュージアムに「線のしぐさ」を見に行く。描画における点と線の違いについて考えさせられた。線を引くと、その線に求められて新しい線を引く必要が出る。それを繰り返していくと何本もの線が引かれることになる。際限なく線が引かれていいわけだから何本だって線を引いていい。そうすると線が集中する場所、何本もの線が重なる場所が出てくる。そして、いつかは線の引き終わり、最後の一本を迎え、それによって作品が完成するということになる。それはもう線が引かれないでもいいという地点への到達と見なせるだろうか。そうだとするなら、もし引く線の本数に制限を設けて、ある本数になると一本書き足されたら一本消えるというふうにすれば、完成にいたらないということはあるのだろうか。

なんか言ってるが、線を引くじゃなくても点を打つだったとしても点同士の関係は生じそれによって新しい点を打つ必要が出そうなものだと思う。ただ、線のほうが点よりも粘っこいというか慣性の働きなどもより前面に表れるのだろうから線のほうをフォーカスしてこういうことを言っているんだろう。いずれにせよ実際に引かれた線ではなく概念上の線のことを見ているようだ。

ミュージアムを出てそのまま歩きで代々木公園に行く。バラを見たり本を読んだりドッグランで犬を見たりする。犬同士の交流は語彙数の豊富なボディランゲージという感じで見ていて飽きない。どの犬も自分の世界と自分の役割を持っていて、それは飼い主を強く意識したもののようだった。ある犬などは他の犬どもから飼い主を守らなければならないとずっと気を張っていて、見ていて頼もしいような気の毒なような気にさせられた。のどが渇いたらベンチ前の水道のところにきて「水を飲みたい」という主張をするのはどの犬にも共通していて、単純だけど賢いと思った。

自分の日記ながら、一年経ったちょうど今、書こうとしている小説が犬をモチーフにしたものでその符号に驚いた。まあ自分なのだから符号もなにもないといえばそうなのだけど、この日記のことは完全に忘れていたから角から飛び出した相手にちょっと驚かされてそれが自分だったという驚きにも似た奇妙さがちょっとあった。

飼い主の手を自分の手とごく自然に考える犬の賢さについては、なんとなく思い当たる節がある。

その後メトロで明治神宮前〜西新宿に移動する。さっと用事を済ませて帰る。ちょっと入った路地にゆっくり動く猫がいた。ゆっくり挨拶しようとしたけど駄目で、近づいたら素早く逃げていってしまった。

この頃は引っ越し候補に西新宿が入っていて、しかもそれなりに合う物件を見つけていて内見までして感触もよく、そのうえ猫にも会えたので縁起もよく、幸先がよいためにここに引っ越すかなと思っていたのでこうやってぼやかして書いているわけだが、結局のんびりしているうちに埋まってしまった。

帰り道に寄ったスーパーで玉ねぎの大小二個入りが500円で売られていることに驚いて思わず声を上げてしまう。安さを売りにしている系のスーパーマーケットでこんな非道がまかり通っていると思うと胸が痛くなった。

この頃の異常事態はとっくに収束しているがその代わり全体的に物の値段が上がっている。経済を勉強したこともあるのでそれがいいことだと理解しているつもりだが、たまごの値段など見るとつい悔しい気持ちも湧いて出る。

『失われた時を求めて』の3巻を読み終わる。全14巻とあまりにも先が長いため根を詰めずだらだら読もうと思ってその通りにしたが、密度はすごいし、同じところに長くいるかと思えば急に別の場面に移っているし、独特のリズムがある。2巻と3巻ですでに「反復」が見られる。話者の恋愛が他人事なのに他人事で済まないように思えるのは、話者のペースに沿って進むからなのか、それとも他の要素のせいもあるのか、ちょっと判断しかねる。あれだけ熱を帯びていたものが、今はまったく熱くないと感じる時の「分裂」の感じを、深い部分で自信を損なうことになってもおかしくないのにそうならず、自分事なのにたんに分裂しているとしか思えないというふうに観察できていて、そこにある変化のことも四季の移り変わりのように自然に捉えられているのがやっぱり不思議だと思う。悲しみの中にあって考えたとき、これがこのまま伸びていけばいつか悲しみの果てにたどり着くと思い込んでいても、それからしばらく時間が経てば実際にはそんな場所に立っておらず、いつの間にか第二幕へ移っているのを知って奇妙に思いながらも演じるのをやめない、そうしてべつの衝撃に備える……、ということを続けているのはスワンだったか「私」だったか、わからなくなった。

『失われた時を求めて』は途中で置いている。いつか読むことになるのは間違いないし、一気に通読するというのがこの作品に適した読み方というのでもないからそれでいいと思っている。充分な時間をかけてゆっくり読めば、この人生とはべつの人生をもうひとつ味わえると思っても決して無理ある考え方ではないと思う。あとは読むという感じをどこまで減らせるかにかかってくる。読破とか言っていてはまるで意味がないし、再読を前提にするのがいい。それでもかなり長い小説だから読み終えたときの読破感は避けられないだろうが。

20220525

『REFLECTION』を聞くとき

音楽について、座って何かするときのBGMはショパンと決まっている。それ以外の音楽は散歩しながら聴くことが多い。
ダンスナンバーならぬウォークナンバーとして最近よく聴いているのは『REFLECTION』、tofubeatsの最新アルバムだ。ついこのあいだリリースされたばかりだが、この一週間、散歩中にずっと聴いている。
だからといってtofubeatsのファンというわけではない。tofubeatsは距離を感じさせる音楽家で、スマホのプレーヤーへの登場回数は少なくないにもかかわらずファンになれない。音楽に求めるものがそこまで多くないから探索範囲がかなり限定されていることでいわば消去法で選ばれているにすぎない。これからもライブに行こうとは思わないだろうし、もしそれと知らずに入ったクラブでゲストDJをやっていたとしてもフロアを移動して聴きに行ったりしないだろう。
それでもしばらくは散歩時に聞くと思う。インタビュー記事も読んでみたら面白かった。
GooglePlayMusicでランダムに音楽を再生すると、スキップが必要になる曲に当たることがわりとある。散歩のとき音楽に気を取られたくない。いちいちスキップ動作をするためにポケットからスマホを取り出したくない。ただでさえ面倒なのに缶で片手が塞がっているのだから余計邪魔くさい。tofubeatsの『REFLECTION』を選んでおけばそういうことが起こらない。
ド頭の『Mirror』という曲で、「OKです」とアナウンスが入る。初めて聴いたとき、女声のそれが「大崎です」に聞こえた。大崎といえば山手線の駅で、たまに終着駅になることがある。渋谷から品川に行くとき、大崎止まりの電車に乗ってしまうと大崎駅で乗り換えなければならない。急いでいるときだと心のなかで舌打ちが出るほど辛く苦しく情けないが、とくに急いでいないときだと、日々繰り返すループの終端に思いがけなく触れたような気がして悪くない。なお、大崎駅前にはタワーマンションが林立している。ほかに何もないが綺麗に整備された区画だ。設備の規模に比して行き交う人が少ないため、すこし寂しいような気分が味わえる。エモーショナルな要素が何もないところにかえって、などと言うとたちまち「侘び・寂び」の圏域に入るようだが、あの垂直線についてはあれで十分エモーショナルだとする意見も当然あるだろう。その場合は順当にエモいことになる。だがいずれにしても限られた時間帯の話であって、いついかなる時でも、という話ではまったくない。
最近読んでいる小説で、これはと思って付箋を貼った箇所に「鏡」についての言及があった。

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天才的な作品を生み出す人びとがもっとも洗練された環境で暮らしているわけではないし、とくに際立つ会話能力を発揮したり、この上なく広い教養を備えたりしているわけでもない。彼らは突然のように自らのために生きることをやめ、自分の人格を鏡と似たものにする力を持った人びとである。
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プルースト『失われた時を求めて 第二篇「花咲く乙女たちのかげに」』

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鏡と云う道具はたいらに出来て、なだらかに人の顔を写さなくては義理が立たぬ。
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夏目漱石『草枕』


他にも「鏡」について何か面白いことが書いてあったのを見たような気がするが今は思い出せない。

20220523

日記22

昨日

六本木の公園までのんびりしに行く。天気が良くて過ごしやすい気候の公園でのんびりするのはもともと得意中の得意なので、存分に羽を伸ばす。

犬を散歩させていたり子どもを散歩させていたり、みな思い思いに憩っていて、それを眺めているだけでも楽しかった。男3人で歩いているご機嫌なやつらはさすがに見かけなかった。

座るのに適当な芝生があってそこに腰を下ろしながら、企画なのかタイル絵がいくつも展示されていたのでお気に入りを探しながらぼーっとしていた。

下北沢の不動産屋で良い物件がないか聞きに行く。ネットで見つけたのと同程度の良物件も見つからず。

不動産屋というのは色々な仕事があるのだろうが、そのなかでも賃貸窓口に関しては、我々にとって有益とは言えずしたがって優秀とは言いたくない人間が多い。しかし、実際には業界内部ではそういった輩が優秀だとされているのだろう。賃貸物件を見に行くとそういう人とばかり遭遇する。そして、そういう人との交渉に疲れた夕方頃、べつの店舗で人の良さそうな若い女性が担当になり、最近このあたりに配属になったんですなどと言い、あまりわかっていないながら一生懸命案内してくれるという罠もある。もちろん、案内してくれる物件は先程までのクオリティと何も変わらない。

騙されるんじゃないかという気持ちが強すぎるのかもしれないが、つまらない部屋から埋めていこうとする意図が向こうにあったとしても不思議ではないので注意するに越したことはない。ただ、もっと協力を仰ぐようにしながら、自分の条件をはっきり口にすれば変わるのかもしれない。そうは言っても相性はある。無理なときはどうやっても無理だ。

吉祥寺で鶏肉野菜炒めを作って食べる。

当時からこんな料理ができていたのかと思うと月日の流れの早さに唖然とする。今は昔より調理器具が充実しているができるとは思えない。やろうと思わない。

さらに一年経った今ではペペロンチーノチャレンジも成功させているし、やってみようと思ったときにやってみるというスタンスで必要十分だ。

鎌倉殿の13人を見る。最後の歴史案内のコーナーをしめた芭蕉の句が全体を昇華して良かった。ドラマを見ていても情緒面でどうしても血なまぐささについていけず。感情が揺さぶられない結果、道理にも無理に通そうとした形跡が目についた。情緒もなく、道理もないと感じられたらそのドラマ視聴は破綻していることになるのだが、不合理な世界観のなかでたまに気持ちのいい部分があり、その小さな断片を飛び石のようにして興味を繋がれている。今回でいうと前景にあるメインパートの脇にあってむしろ後景に控えているような出方をずっとしてきた武蔵坊弁慶から「やめてください」というセリフが飛び出たのがよかった。これは義経から最後に労いの言葉をかけられてそのあらたまった雰囲気に照れて思わず飛び出したセリフだったが、ふたりの関係を一言で表わす良いセリフだった。こういうシーンがあるから、義経にしろ頼朝にしろ筋の悪い劇に引っ張り出されてセリフを言わされている感が出て、舞台の上に立った以上は是非も無しと無理から芝居をさせられているように見える。歴史という筋書きのあるドラマの上演を嫌々させられている公の場での姿と楽屋でひとりごちる姿がまったく別のものになるのは当たり前のことで、頼朝はそれをやるプロとして子供の頃からキャリアを積んできている。鎌倉に来てから急速にその経験を積んでいったとはいえ義経がそれに敵うわけもなく、まさに役者が違うということになる。ただ観客が変われば何を良いとするかも変わる。ここでは役者の違いというより役の違いが、よくない筋書きが所与のものとなって歴史という名前が付くに及んでなぜか良い筋書きだと勘違いされるようになることで、捉え方の面で逆転をきたし、両者の印象の好悪が反転する。しかも物語によって固着された善悪は容易には再逆転できず、例外的にそれが可能になるとすればあらたに説得的な物語をぶつけることぐらいしかない。弁慶が歴史の表舞台へと躍り出ていくのを舞台袖からのぞき見る義経が痛快そうにしていたのは、向後何度も上演されることになる人気演目の初演を特等席で見られたこと、まさに歴史的な瞬間が現在進行系で刻まれていることを意識した興奮があったからだろう。舞台の上では残念な筋書きが展開されているというのを前提に、楽屋裏でのドタバタを見せるという趣向の喜劇の、必ずしもコメディではないバージョンが歴史劇「鎌倉殿の13人」だと現段階では認識している。

ようするに、歴史上の人物であれ、現代社会を生きるわれわれであれ、公的な人格と私的な人格が分かれていて、歴史上の人物は前者が前面に出た状態で記憶されることになるが、ドラマでは後者を使って物語を盛り上げることができるという話だ。歴史は、勝った側の視点で書かれた文書からなる。その性質から勝利の立役者の人格が偶像化するのは当然のことだが、そこから部分的に漏れ出る、人間味を感じさせるパーソナルな領域というのも垣間見られ、それが魅力となって語り継がれるということもある。反対にそれが原因となって人気がなくなる人物がいてもいいはずだが、彼らはもう死んでいるためその失点については免責されるのか、人格的な特徴のうち長所とは言えないものを備えている人物も、存在感を発揮することこそあれ失うことはない。

鎌倉殿の13人が面白かったのは、義経を優秀な人殺しという突き放した視点で描いていたことで、それは義経に代表されるが義経だけに及ぶものではなく、武士として優秀な人物はすべて人殺しであるとの前提に立っており、その突き放した見方、緊張感のある視点のなかでこそ、そんな彼らにも愛嬌のある一面があるというコメディリリーフが効果を発揮していたことだ。実朝にしても、彼の姿勢と彼の歌はやはり泥の中に咲く花としての美しさであり、血なまぐさいキャンバスの上に描かれる無垢の白百合という印象が、美しさを強調してしまうという業から逃れられずにある。

まずは有名であるということからすべてが始まっているということはいえる。知っている名前であるということが起点になるというのは当たり前のことなのだけどやっぱり重要な部分だ。彼らが生きた時代から見た遠い将来にもまだ名前があるということ。

面白みのない殺人者と面白みのある殺人者のどちらを選ぶかというのは問題にならない。しかし、面白みのない非・殺人者と面白みのある殺人者のどちらを選ぶかというのは、はたして先の問題のように一蹴できる選択だろうか。現実においてとフィクションにおいてとで回答が異なると考える、現実とフィクションを区別する人にとっては、問題はさらにややこしくなる。

そのような区別がどこまで有効なものなのか、だんだん雲行きが怪しくなるなかで、一旦仮でおこなった選択がうまく撤回できるものか自信が持てないということも十分考えられるだろう。

フィクションとして面白さを求めるなかで、たとえ殺人者であっても魅力的だと感じられるということは起こりうる。そうした場合、自分のなかでの倫理観に整合性を保つため、殺人にもそれに付随する固有の事情があり、十分認められる場合もあると考えるのは自然である。その際、フィクションだからという理由でその判断を甘くするようなことがあっては危険で有害でさえあるというのは、フィクションでもその登場人物の善悪の判断を行おうとするものにとっては自明である。

一方、フィクションである以上それを善悪の判断をする材料にしないという考え方がそれに対置される。登場人物が葛藤の挙げ句、正しい行いをするということが物語の良さであるとは考えないという捉え方だ。しかし彼は良さを得ないからといって無為にフィクションに接するわけではない。そこから面白さを取り出してそれを享受するのだ。面白さというのは、主要な登場人物が結果的に正しさに行き着くというところにあるのではなく、その道行きのなかに、そこに行き着くまでに生じる葛藤の中にあるとする姿勢である。もやもやしたものをスカッとさせるところにではなく、もやもやさせられることのなかに面白さがあるとする感性を涵養するために、そして涵養したその感性を使って、その感性でしか得られない特別の面白さを、べつのフィクションや、現実の中にある通り過ぎそうな一瞬間に感じるためにある。

ある物語における登場人物の思考や言動がセーフかアウトかを判断するためにフィクションがあるわけではないため、戦いの結果勝つことになるその主要人物が言っていたから正しい、そのように行動したから間違いないとすることはできない。そもそも倫理表面的には、そうすることができないということを知るためにフィクションがあると言ってもいい。それが自分たちの側にあるから正しいとすることはできないということは当たり前のことだが、おそらく、そう考えることを感じることのレベルで実践するのは簡単ではないはずだ。

優れた物語では例外なく、善を体現するキャラクターはひどい目に合う。善を体現するキャラクターが登場し、そのキャラクターがすべてを解決に導くという内容のものもあるが、それは聖書がやろうとしていることをスケールダウンさせたり、部分を特化させて、つまり「善」という全体ではなく、もっと具体的な「可愛さ」「可笑しさ」という部分において実現しようとしたものということになるだろう。

善を体現するキャラクターがひどい目に合わない物語を読みたくないと思うのは、善を体現するキャラクターはひどい目に合ってほしいと思って物語を読むということに近い。しかしそうは思えど、現実世界ではそのようなことは一度も起こってほしくない。そう思いながらフィクションではそれが起こらないでは満足できないのだから、フィクションでのことを現実に持ち込むのはいよいよご法度ということになる。

優れた物語を現実に役立てようとするのは、すべての場合において、油絵をよく燃える燃料として取り扱うことと同程度の考え方だ。ケーススタディをしたいのなら、適したケースは現実のなかにいくらでもある。

現実とフィクションをきっちり区別するというのは現実側の考え方、現実とフィクションが曖昧になるというのはフィクション側の考え方だ。フィクションにおいて現実側の考え方をあえて導入する意味はうすいが、現実においてフィクション側の考え方を導入する効果はそれなりにある。しかし、それをすると、たとえ面白くなったとしても現実ではなくなるということを明らかにしなければ済まない。いや、現実ではなくならない。そう考えることも可能だろうが、それ自体はやはりフィクションの考え方だ。何かを現実であるとすることにはかなり厳しい条件がある。


ゲームしようとしたところHIMARIのバイオリンでザッピングの手が止まり、気がつけば亀井聖矢のピアノまで夢中になって見てしまう。10歳のHIMARIのあと、20歳の亀井が「自分のやり方を見つける」をテーマに10歳からの10年間を過ごしてきたと言って、サン・サーンスの演奏を見せる構成に引き込まれた。その演奏には特別触れるものがあった。

本当に感動したのだったが、これを読み返す今までそのことをすっかり忘れていたし、どんな演奏だったか、どんなの曲を演奏したのか、まったく思い出せない。それでもこうやって日記に書かれてある以上、本当に感動したのにちがいない。やろうとしたゲームはたぶん時期から考えて「ドントスターブトゥギャザー」にちがいない。

全然ゲームをやらなくなってしまった。起動するのが億劫だというのもあるし、単純に毎日の生活に余分の時間が無くなっている感覚がある。小説を書くのはおろか構想することもしていないのに余分の時間がないというのはどういうことだ。


寝る前に坂本慎太郎のアルバム「物語のように」発売に関連するインタビュー記事を読む。

インタビュアーの質があまりよくないよう見受けられたけどよくない球でもいなさずに打ち返していて結果いいインタビューになっていた。

いなすというのは相撲用語だと今は相撲を見て知っているが、これを書いているときにはよく知らないまま雰囲気で使っている。そうやってなんとなく使いたいと思ってよく知りもせずに使う言葉が自分が書くものには多くある。使用語彙は多ければ多いほどいいと思っているから、書こうとする内容の的確さや正確さにそこまで興味がないから、いい加減な言葉遣いを恥ずかしいものだという意識に欠けるから、これらが綯い交ぜになって思い浮かんだ言葉をすぐタイプしている。これが手書きであれば、漢字を調べる過程で意味についてもより詳しく学習するか、調べるのが面倒だから知っている言葉でやり繰りするかのどちらかになるだろう。そういう意味で、自分が書くもののほとんどは半分以上ワープロソフトが書いているのだといえる。反対に喋るときには相手に合わせるつもりで語彙を絞ってしまう癖がある。語彙については書くと言うとのこの配分をそれぞれ逆方向にバランスしたい。

使用語彙についてのスタンスの話はこの時点では一応決着していて、むやみに広げないというところに落ち着いている。自分にとって馴染みの深いと感じられる語彙に絞って書くということをしようというのがここ三ヶ月程度の実践にも表れているはずの試みだ。わざわざ読み返したりしないけど大丈夫だよな……。


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▲:今回のアート・ワークは何かメッセージはあるんですか?


坂本:いや……とくにない、と言っちゃうと終わっちゃうか(笑)。


一同:(笑)。


坂本:まあこういう感じがいいかな、と思って。

「まあ、こういう感じがいいかな、と思って。」

これが台詞になっているのがすごい。


■坂本君にとって、いま希望を感じることってなんですか?


坂本:希望を感じること。うーん……(長い沈黙)。


■乱暴な質問で申し訳ないですけど。


坂本:うーん、なんですかね? なんかありますか?


■酒飲んで音楽聴いて、サッカー観たり……、これは希望じゃないか(笑)!


坂本:個人的なことで真面目に言うと、いい曲を作ることには制限がないじゃないですか? 何となくでも、こういう曲が作りたいというのがある限り、それに向かって何かやる、ということは制限ないから、それはいいな、と思う。あと、楽しみで言えば、酒飲んで……みたいな、それくらいしかない(笑)。でも作品作っておかないとね。良い作品作っておけば、しばらく酒飲んでてもいいかな、と。それなしだとちょっと飲みづらいというか。

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希望は何かと聞かれて「いい曲を作ることには制限がない」と答えるのは迫力があるし元気がもらえる。

とにかく俺は石を積むと決めている迫力。何かが楽しいと思っているうちは大丈夫だと励まされるようで元気がもらえる。

「いい曲を作ることには制限がない」何回でも繰り返したい言葉だ。

一年前はこのインタビュアーはいい加減で全然駄目だなと思ったけど、今読み直したら、ここに書いてあることを切らずにをそのまま出したことには意味があるし、そうやってインタビューを出してくれるということに関わる信頼を坂本が寄せているのだとしたら、肯けるところもあるなと思った。

いいわるいではなくて、希望は何かと訊かれて「酒飲んで音楽聴いて、サッカー観たり……」と応えられるのはすごい。相当肩の力が抜けていないとできる芸当ではない。自分がすでにその方向にむかって進んでいるという意識があるから、そこから何か有益なものを得られるとは思わなかったけどそれはそれとして、本当にそれが答えなのだとしたらいいわるいというのを超えて単純にすごい。

そして坂本は瞬時に勝手に「酒飲んで音楽聴いて、サッカー観たり……」というのを「(良い)酒飲んで(良い)音楽聴いて、サッカー(の良い試合)観たり……」と翻訳したうえで言葉をつないでいて、それはおそらくインタビュアーの側の回答意図にもそぐうのだろうから、だとしたら両者立派だし、インタビュアーの言葉自体も、いいわるいで言うところの「いい」ということになる。酒飲んでというのは”言うまでもなく”良い酒を飲んでということで、音楽を聴いてというのは”言うまでもなく”良い音楽を聴いてということなのだとしたら、いちいち良いという形容詞は付けないのは正しい。

良いということにはいくらでもこだわれる。「良い」ということにしても、良い「良い」というのがあると考えて研ぎ澄ましていくことができる。ただその進歩で固定させると「鋭い」ということの磨き方になるから、研ぎ澄ますというのはあくまでも例であって、広げていくという言葉でも言い換え可能なものでしかない。あらゆる形容詞を例にとって飾ることのできる良い部分のことを「良い」というのだとすれば、その在り様を千変万化させようとするのもこだわれる要素のひとつだ。たとえばその変化に「悪い」を含むものと含まないものがあり、それらがたまたま隣り合って並んでいたとしたら、意識できるかぎり「悪い」を含む方を選びたい。

20220517

日記21

3blue1brownの動画を見る。YouTubeにあるよくできた数学の動画のなかでも随一の出来だと思う。現在見れる動画は全部見てしまった。「最も難しいテストのもっとも難しい問題」にもっとも感心させられた。


1.まずは難しくて複雑な問題を簡単にして考えてみて、

2.そのときに使った補助線の引き方(=解決方法)を取り出し、

3.もとの問題の解決に使う


1でより簡単な問題を見つけるのがまず簡単ではない。簡単にするにしてももとの問題をある程度引き継いでいて類似の問題であると判断するのがすでに難しい。問題を解く前の「問題を把握する」ができていなければならない。

2で取り組む比較的簡単な問題に対する解法を、解法が出て解決できたと満足するのではなく、べつの表現に置き換えてみようとするのが問題全体を通してもっとも鮮やかな部分だといえる。問題の解決が目的ではなく手段になっていること、上位の問題を持っているからこそ解決で終わらすにエクストラステージになることができる。一度解決したからといって通り過ぎていてはたどり着けない。解決済みの問題でも「べつの問題」を持った状態で考え直せばそこに鍵があるというのは示唆に富む。答えではなくそこへ至るまでのプロセスを発見することが問題解決の役に立つということをきれいに証明していた。

3考え方の観点からすれば2ですでに華々しいパートが終わっていてあとはフォロースルーのようなものだが、数学の言語で記述するためには訓練が必要だという意味のことをさらっと言っていてかえって重みがあった。それにハイライトでスーパープレーを見ているからゴールが決まるのを知っていてそれであのプレーシーンがすごいとか言っているがゴールという事実がすごい(=難しい)のには違いない。

1,2,3がわかりやすく直感的に説明されているのを見るのにはかなりの価値があり、非常にお得だ。

それから新しい動画がいくつか発表されたが途中から見なくなってしまった。難しくて理解できないところだらけになってしまったからだ。それまでも難しいながら食らいついていこうとしていたが、上がっている動画の全編を見通して一個も理解できなかったときに、もう一度再生する気力がなくなってしまった。


以下のGCPクエストを完了

・Cloud Architecture

・Deploy and Manage Cloud Environments with Google Cloud

やりながらこのクエストをこなすことに意味があるのか疑問だったが、おかげさまで今はもうその疑問を持っていない。

20220515

日記20

 昨日

ウルトラマンの映画を見に行く。思い切った演出の思い切り具合と特撮を拓いていこうという意思を感じるシーンの連続にいつの間にか引き込まれていって結果すごくワクワクした。たしかにウルトラマンなのに、見たことないウルトラマンの姿が見られたのもよかった。各所での斎藤工と山本耕史の対話も戦っているかのようにスリリングだったこともあって、メフィラス星人とのバトルが一番熱かった。はざまにいるとつらいことが多いと知っていく子供の脳裏に斎藤工のあのセリフが刻み込まれたとしたらそれは正しくヒーローものの理念と意義の体現になる。荒唐無稽な世界のなかで破局を迎えようとするとき、技術者が一度はストロングゼロに逃避しながらもふたたび立ち上がって解決方法を模索するのにもメッセージがある。説教臭い、トリガーになっているのは結局ウルトラマンじゃないのか、という指摘もあってかまわないが、そうやって指摘できる指摘をいくら重ねていってもこれほどワクワクする映画にはならないにちがいない。

はじめてウルトラマンを見たのは幼稚園生の頃だったと記憶しているが、当時はウルトラマンのテレビを見られず、買ってもらったビデオを何度も何度も延々と見ていた。たしかウルトラマンストーリーという映画で、ウルトラマンの活躍がダイジェストでしか見られずに物足りない思いをしたが、飽きることなく何回も見た。あのときのワクワクには及ぶべくもないが、シン・ウルトラマンはあのときの興奮に連なる何かがあったと思う。しかし一方で無かったものもあり、それが怪獣勢力のバルタン星人だった。ウルトラマンをみるときにウルトラマンが見たくて見るのかバルタン星人が見たくて見るのかかなり微妙なぐらいバルタン星人が好きだった。あとは一瞬だけ映る怪獣のアントラーというクワガタのような怪獣が一番のお気に入りで、ほんの少しだけの登場シーンでいつも歓声をあげて喜んでいたのをなんとなく覚えている。それなりの長さがある映画のうち10秒も映る時間がなかった怪獣だったが、そのシーンが近づくにつれて緊張が高まり、登場すると飛び上がるほど嬉しくなって喜ぶというのを本当に飽きることなく繰り返した。


昼ごはんにタレカツ丼を食べる。井の頭公園を散歩する。ドントスターブトゥギャザーをプレイして最大15日間生き延びる。

ドントスターブはサバイバル要素のある牧場物語みたいなゲームですごく面白いのだが、攻略動画を見て情報を先取してしまったことで飽きがきてしまった。自分の力で発見しながら遊べばもっと長く遊べたはずなのでもったいないことをした。

20220513

日記19

早起きして9時に信濃町に着く。駅構内のBECK'Sコーヒーがスタバのようにせせこましくなくていい感じ。モーニングをいただく。

草枕の次に読むのは虞美人草に決める。虞美人草を書いた時の漱石はまだ心も三四郎も門もそれからも道草も行人も書いていない。作を並べるとどんどん書けるようになっていった軌跡がはっきりわかる。通常とちがうのは書けないところから書けるようになっていくのではなく、「書けすぎる」ところから「すぎる」部分が取れて「書ける」ようになっていくところだ。草枕は音読してみるとすごかった。虞美人草もすごいんだろうと思うのでたのしみ。

漱石の小説の軌跡についてあんまりこういうことを言っているのを見聞きしたことがない。ちゃんと検討して書いたら、少なくとも「ある視点」から論じられるのではないか。

GCPのCloud Engineeringを完了。クラウドのエンジニアリングは俺に任せろ。

テアトル新宿に『EUREKA』を見に行く。青山真治は多部未華子主演の『空に住む』しか見ていない。『空に住む』は地面の存在をまったく感じさせないような異色作で、美男子の人物造形に爆笑を喫してしまった以外に見るべきところもない完全な駄作だった。一方、傑作の呼び声が高い『EUREKA』がどうなるのか、期待と不安がちょうど半分ずつで、すごくたのしみ。


↑の草枕が「書けすぎる」というのは表現の幅に制約を設けないということで、漢文も使えば英文も使い、必要以上の装飾をもって遠慮なく文章を飾っていることをいう。これは簡潔に記述することよりもなお無遠慮で、ずんずん進んでいくその印象が書けるという可能態の可能性を強調している。

必要以上の装飾というときの「必要」というのは、ある語感に調律してそのチューニングで書きすすめるという意味で書き手側に必要があるということがいえるので、反対に必要がないということはいえないことになる。ただ調律の段階で読者を限定するようなやや高い場所を選んでいる。その高さを選ぶ必要はあっただろうか。無いような気がする。ただ前期の文章には後期の文章とはちがう読んで面白い語感がしっかりあるのでバリエーションという意味で両方あって良かったと思う。

書かれた文章が装飾を必要としないかといえばまったくそんなことはない。伝達上の必要はそのように記述しないでもかなうとして装飾部分をばっさり切ってしまえば、すべてが台無しになってしまう。

草枕は文章全体がレトリックや修辞であるとも捉えられる。草枕の文章がその意味を伝えるためにはどうしてもあの書き方しかない。それに、過度に装飾を用いない文体のほうに作者の衒いが感じられることもある。衒気があるとか無いとかそんなのには構わないでただ読みやすければそれでいいとする立場もあるかもしれない。その主張に対して言うべきことはない。もしその主張がだんだん幅を利かせて、装飾するのはすべて悪いということになるとすれば、そのときには言い返さなければならない。悪い装飾が悪いのであって、良い装飾は悪くない。むしろ良いのだと。いや、装飾されている時点で良くない、そこに良い悪いの区別はない――とあくまでも強弁されるのであれば、ものの見方がいささか貧相だと言わなければならない。それにそもそも読みやすければそれでいいというのも小説を読むのに適した態度だとは思われない。ほかに頭を働かせるべきことがあるわけでもないのにとにかく読みやすくしてほしいというのは少々吝嗇くさくないだろうか。財布の中身が雀の涙なのであれば話は別だが。(ケチとか財布の中身とか、言わなければならないことでは全然ないと言わなければならない)

『草枕』については、あの書き方が読む側にとってどう感じられるかとはべつの領域で、自然に書かれている作品だと感じられる。これを筆の進む方向に物語が進んでいるということかと言われると、そんな気もするし、旅における移動によってその場所の情景が一旦終わりになるというのをそのまま書いているだけにもみえる。ただその筆が進む速度については早くもなく遅くもなく自然のテンポで進んでいるというのが、自然に書かれているという感想の中身だ。

書くものから内的なリズムが感じられるとそれにはきちんとした理由があるように感じられる。きちんとした理由というのはいちいち理由としてそれを説明しないでもいいようにできているもので、説明を免除されているのがもっともきちんとした理由ということになると思う。すなわち自然だということ。とはいえ自然というのももう昔ほど万能ではないが。



さて、『EUREKA』を見た。東京こと秋彦がとにかく良い。あれこそが映画の良心というものだ。良心などどうだっていいというスタンスの人にとっても秋彦の重要性は説明抜きでわかる。役所広司はどちらかといえば役得のように思う。子供のふたりにセリフを喋らせないことが演出上絶対に必要だからその意味でも秋彦の貢献はでかい。狂言回し的役割とは別に、秋彦自身は揺れながらも世の中的な正しさの側にいてしかも暴力によって排除されるんだからあれで最後に笑うのには喝采をおくりたい。本当にジョーカーの笑い声なんか目じゃない。役所広司が悪いやつではないにせよ全然良い人なんかではないのが重要だからその意味でも秋彦はでかい。とにかく秋彦こと東京が素晴らしい。光石研のことを若松と呼んだのも素敵だった。

このタイミングでしか見られなかったと思うがもっと早く見られなかったものかとすこし残念に思うほど良かった。

『EUREKA』は上映時間の長い映画なのだがそのことに触れていないのはどういうことなのだろう。映画を見て感じたことを思い出そうとして慌てているようだ。第一感というのではな ないが、秋彦のことをまず書きたいと思ったというのは伝わってくる。『EUREKA』はある事件をきっかけにうまく立ち行かなくなった生活をなんとか立て直すための旅路を描いたロードムービーという側面もある映画だが、事件の外側から途中参加することになる秋彦の役割というのは小さくない。それは映画自体からも感じ取られることだし、関わり合いになるというのは秋彦のように最初ゲストとして参加してだんだん馴染みになっていくということからしかスタートしないという一般的な事情とも一致する。それでいながら、結局ゲストのままで退場していくというのも一般的によくあることだと思われる。ただ、最初はゲストとして椅子に座ることから始まったとしても、時間の経過や共有したものに唆されるようにして、いつまでもゲストのままではいたくないと感じるようになるものだし、実際にゲストではないかのような振る舞いをしたがるものだというのは理解できる。事と次第によってはそれが功を奏することもあるのだろうけれど、その試みのかなり手痛い失敗として秋彦の途中退場は描かれていて、バスから放り出されたときの笑うしかない悲痛さというのは充分に迫力あるものとして画面から直接語りかけてきた。ジョーカーはその笑いを記号として引き受けるキャラクターのことだから、内実はさておき、感じ方として力が逃げていく余地がある。秋彦の退場時の笑いにはその逃げ先がなく、悲痛なままそれを引きずって映画が終わりに向けて進んでいくので、切り替えができず、うまく処理できないことで印象深いシーンになっている。

ユリイカの役所広司のように、きちんと話し合わなければならないのに恐怖心からそれを回避して、ただそのとき進める方向へどんどん進んでいき、結局は悲惨な状況を作り出してしまうというのは誰にとっても教訓になることだ。いや、この書き方はごまかしだ。誰にとっても教訓になるのは間違いないが、自分の今の状況がまさにこれと同じであるように思える。一度止まってでもしっかり考えて行動するべきだ。まずは一度止まること。なんというかすごく流れているのを感じる。流れているのか流されているのかはわからないけど、すごく流れていっている。

20220512

日記18

 GCPの[Networking in the Google Cloud]を完了。

Googleの用意してくれた研修コースをたらたら進めるということは二年経った今でもやっている。それがどれだけ役に立つことなのかというのをあまり考えずにやっているような気がして、それに気がついたときというかそういう気がし始めたタイミングでいつも中断する。始めるときにあまりハードルを上げずに適当に始めることの弊害だといえるが、それを加味しても何かを始めるということのハードルは下げられるだけ下げて、とにかくやってみるということのメリットの大きさにはかなわないに決まっている。

ジムで1000メートル泳ぐ。腕を回すリズムをいつもより早めてみたらスピードがすこし上がって50メートルを泳ぐのがラクになった。

泳ぐのは面白い。スローペースで遠くまでという泳ぎ方とハイペースでスプリントのような泳ぎ方で全然ちがう体験になる。その差が陸上よりもはっきり現れるという気がする。

なんとなく毎日続けている草枕の音読、今日で〈三〉までの進捗(2周目)。文字を目で追いかけるのに必死で余裕が出ない。ただ、音読はまだ全然慣れていないのに読み終わった感がある。べつのを読みたい。

この頃はGCPの勉強だけをやっていた。でも結局、クラウド系の資格は取らなかった。

最初1000メートルを泳ぐというのは途方も無いことだった。でも泳いでいるうちに慣れてきて1000メートルは泳げるようになってきた。

草枕の音読は面白かったし、音読は引っ越ししてもしばらくやっていたのにいつの間にかやめてしまった。やっぱり働き始めると余計な時間がなくなっていくから良くない。余計なよしなしごとに手をつける機会はどうしても減ってしまう。

ただ当時は当時で、日記に書くようなこともとくになく、MACの前に座って何を書こうかとぼんやりする時間が多くなっていたのはたしかで、気持ちがだらだらして日記などを書く気がしないというのはあった。今は忙しいから忙しい気持ちでキーボードを打つし、そのついでに何ごとかを書きつけようとする気は起こる。

声を出すということを身に着けようとして、好きなテキストを声に出して読むということを始めたのだった。これは映画『ドライブ・マイ・カー』の影響で、ひとりで始められることについては悩むまでもなくひとりで始めればいいと思って始めたのだった。その延長線上に演劇祭への参加があったり、暇さえあれば面白いことはいくらでも始められる。そういう環境に自分を置いていることは明確に利点なので、これからもそれを十二分に活かしていきたい。

20220510

日記17

 スコット・フィッツジェラルドの『最後の大君』を読み終える。グレート・ギャツビーほどの大作ではなかった。訳者の村上春樹は読み返してみて評価をあらためたと言っていたが、あまりピンとこなかった。さすがにフィッツジェラルドだと思わせるような面白いところはあったけれど、世に言う「未完の大作」の中では惜しくない方に属する。巻末に附されている遺稿のノートの中にこういうふうに見せたいというフィッツジェラルド自身の覚え書きがあって、それによって結末はどうなったんだろうという疑問が解けたのも良くなかった。読者にこう印象されたいという作者自身のメモ書きと、何作か読んで作者のタッチが意識に浸透しているのとがあれば、そこから計算してなんとなくこんなふうだろうと脳内で再生できる。そのイメージがつまらないのは再生機器のせいかもしれないけど、そこからどれだけ磨きをかけて解像度を上げようとも想像以上のものにはならないのはほとんど確実。そのイメージがどこから来ているものかを思えばこれはむしろ賞賛と捉えられることかもしれないが、そもそもそれ以前の問題としてシンプルに続きが気にならなかった。

ただ、スコット・フィッツジェラルドがその磨き上げられた文体を通して時代精神を映しているのは確かで、『ラスト・タイクーン』がかなり綺麗で見目がいい形で1920年代のアメリカの空気感を今に伝えているのは間違いない。いずれにせよそれ以上のものを要求するのははっきり言って筋違い。『グレート・ギャツビー』では完成された寓話の強烈な印象がとにかく目を引くから、そういった限定的な空気感を味合わせるのはむしろラスト・タイクーンのほうだと言えるかもしれない。ただそれにしても一読したときの印象にすぎず、大は小を兼ねると言う言葉のとおり、時代精神を感じようとするにしてもグレート・ギャツビーを再読すればいいだけ。まあ二読した程度ではギャツビーの奥にある時代精神みたいなものに届くかは微妙で、「あれは固有の精神であって時代精神のようなふわふわしたものではない」と全然言いたくなるとも思う。ただその場合でも三度四度と読み直せばいいだけの話。そもそも私にとっては時代精神なんていうものが再生されたところで別段興味が湧くわけでもない。きちんと再生されることに驚き、すごいなと感心するけれど、それにしたって100年前のオルゴールが今も鳴る、すごい! というのと大して違わない。昔の小説を読む動機がそのあたりにあったり、アンティークに興味がある人にとっては良い小説なんだろうか。

未完の絶筆がとにかく惜しまれるといえば漱石の明暗、それとは反対に、絶筆でかえって良かったと思わされるのはカフカの城、どっちがよかったのか決めかねるのがドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟とそれぞれに代表があるとすれば、べつにどっちでもかまわない代表がラスト・タイクーンということになった。太宰のグッド・バイと横並び。

フィッツジェラルドが娘に宛てた手紙のなかに以下の文章があると訳者あとがきに書いてあった。


「人生とは本質的にいかさま勝負であり、最後にはこちらが負けるに決まっている。それを償ってくれるものといえば、『幸福や愉しみ』なんかではなく、苦闘からもたらされるより深い満足感なのです」


より深い満足感は措くとして、フィッツジェラルドは幸福や愉しみをあきらかに低く見積もっていて、そこにこそ彼の作品の面白さの秘密がある。そういう流行、それに乗ったのかそれとも作ったのかわからないが、そういう考え方の流行のようなもの、現在からみれば「時代精神」があって、スコット・フィッツジェラルドはかなり忠実にその流れを下っていった作家だ。

それがわるいと言いたいわけではないが、自分がどう考えるかということをかなり真剣に考えているようだ。他人からすれば大した違いとは思えないであろう内容のちがいや表現のちがいにいちいちむきになって、そのちがいについてどのようにちがうのかを明らかにしようとしている。たとえば行動にともなう動機があるとして、動機Aと動機Bとの組み合わせのうえに行動が成り立っているのをわかっていながら、動機Aが大々的に取り上げられているのに気を悪くして「動機Bこそ」と言いたいあまり、むしろ動機Bによって行動は成り立っているのだと強弁するきらいがある。正しいかどうかはべつとしてそれならまだましなほうで、ここに見られるのは、動機A:動機Bの割合が8:2と言われているがそれは間違っている、動機Bの割合は少なく見積もっても3はあるはずだと主張することだ。こんなふうに動機Aが主な動機だと認めていながら動機Bの割当がもうすこし増えてしかるべきだということを一生懸命主張するのは、無関係な他人からすればどうでもいいことのひとつに数えられることだろう。

正しくありたい。が、自分が感じるままに感じるということから手を離したくない。どっちつかずの態度がこのような書き方になって表れる。それがわるいと言いたいわけではないが、すこし時間が経ってから振り返ればその意図が浮き彫りになる。とても狭い範囲で、そのうえ曖昧な模様として。だからそこに嘘はないのだが、もっと大胆に嘘をついてみてもいいんだよと言ってあげたくもなる。


久しぶりにジムに行って泳ぐ。来月から月額料金を1100円値上げするという案内が届いたので5月いっぱいで解約することにして、その手続きを済ませる。これからは泳ぎたくなったときには市民プールに行く。歩けないぐらいの距離なのですこし遠いが仕方ない。その後、井の頭公園を散歩する。

このジムのプールは部屋を出てから5分経たないうちに水のなかに浮かんでいられるぐらい近い距離にあってとても良かった。水に浮かんで手足を動かし、水をつかむ感覚で推進力を得るのは特有の楽しさがあってよかった。視界一面が青色で統一されているのも異界という感じが手軽に得られてよかった。泳いだあとに暗い公園を散歩しながら音楽を聴いて、缶チューハイを飲むのも楽しかった。当時は毎日に浮遊感があってバカンスの時期として思い出せる。まあ一年しか経っていないんだけど。

20220508

日記16

 午後から千駄木・根津エリアの内見に行く。都合3件回って食指が動く部屋は見つからず。道中たまたま見つけた不動産屋に掲示されている部屋情報にも良いものは見つからず。ネットで見つけた物件程度のものさえなかった。

上野公園を散歩してから銀座線で渋谷へ。嵯峨谷で刻みタマネギそばを食べてからシネクイントで『死刑にいたる病』を見る。劇場は満員で、大学生とおぼしき若人が多かった。

映画の内容は連続殺人犯のインタビューもので、最初の殺人犯の紹介にあたるシーンがこの映画の白眉。序盤、大目に見て前半までは最初のペースを保てていたが、後半には失速して、最初が良かっただけに余計残念な気がした。ただ殺すのではなく苦痛を与えて殺すというコミュニケーションのとり方を簡潔に「それが必要だから」とだけ言わせるのには嘘がなくて感心した。

最後のシーンは女の子にきつめのブラックジョークを言わせてそれが冗談なのかまじなのかわからなくて混乱する主人公・・・、みたいな見せ方のほうが好みに合う。原作がどうなっているのかは気になるけどたぶん読まない。

吉祥寺に戻り、井の頭公園を散歩する。23時過ぎという時間帯でも、昨日一昨日との人の量の差があからさまで、月曜日の威力を知る。井の頭公園にしてはスカスカだった。

20220504

日記15

 昨日

謎の早起きをし、しかも二度寝に失敗したので仕方なく起きてNHKスペシャルの再放送を見る。

昼前から千駄木に行く。一軒家の内見をしてからカレーうどんを食べる。久しぶりのカレーうどんは美味しかったうえに、紙エプロンの二枚使いで白いTシャツを駄目にしないで済む。団子坂を上って観潮楼をひと目見てから、谷中銀座を抜けて猫二匹とすれ違い、夕焼けだんだんを上って西日暮里駅に着くつもりが日暮里駅に着く。

4時間弱の睡眠時間では気持ちが弱るので帰って夕寝する。

日が落ちてから渋谷に行って代々木公園の手前まで歩き、若い人が集まる何かの集会の隣に座って酒を飲む。十数本の蝋燭の火に囲まれた一人を取り囲むような布陣で何の集会なのか見当もつかず。


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