20220430

気分良いか

何事にも限界はあり、人のことについて考えるのにも限界がある。人というのは他人なだけあって自分で自分のことを考える限界よりも低いところに閾値がある。だからその限界を意識したときに人にかけることのできる質問には自問自答するときよりもかなり厳しい条件、はるかに低い天井(上限)がある。人にできるのはただ、気分良い?という質問だ。

気分が良ければそれでいい。自分のことならいざ知らず、他人のことについてそれ以上を求めるのは求めすぎだという気がする。人間関係がややこしいのはそれだけでは満足できない他人というのができることもあるからで、たとえば我が子というのは厳密には他人でありながら、なんとなく他人と言い切れないところがある。それは子供側にはどうしても弱い時期があり、その時期を超すために親側に依存せざるを得ないからだ。放っておいては大変な時期があることで、この人のことは放っておいてはいけないといつまでも考えてしまうのはどちらかといえば自然で、この習慣化された考え方を切り替える方が、ある時期を堺に放っておくことに決める方が、そうするという意思が必要になる。

親子関係というのは例外的な関係にすぎないから、人間同士は基本的には干渉しあわず個人主義を貫くべきであるというのはもっともらしく聞こえる意見だが、親子関係が他の人間関係の雛形になるということは十分考えられる。個人主義によって個人にフォーカスすればなおさら、弱い関係はいつでもいつまでも弱く、子供時代の強い人間関係をどうしても更新できない。結局、子供を持つこと、抜き差しならないそれなりに強い紐帯を持つことで更新するほかないとすれば、雛形化は強化されることはあれど弱化することはない。そうなる契機が構造的に存在しないからだ。

結び付きがあると感じる他人に対して気分が良いかという以上のことを聞けないとすればそれはいかにもわびしい。しかし、他人を他人として尊重する以上、その質問以上のことは聞けないはずだ。もっとも、他人を他人として尊重するというのも何を誠実とするかのいちスタンスにすぎず、特定の他人を自分とみなすような考え方もありうるだろう。その場合は、自分に対して聞くようなこと、自答を前提とする自問が問うような問いを他人に向けることも可能だ。自答を前提とするような自問の問いとしての不完全さを向けられるほど、私にとってあなたは特別なのですよというサインにもそれはなるだろう。客観的な誠実さを捨てて何かを得ようとするところに誠実さを感じられると思うのはすでに自答の重力圏にある感性だろうか。感性だろう。

しかし、社会的な人間関係のなかでも権威や権力をその仲立ちにするような関係は上の感性にはそぐわない。事実においてはそれと受け取られるケースもあるのだろうが、私自身の回答としてそれは認めない。そうは言っても、文化的洗練はそのパワーを隠微な形で発揮させるものだったりして、安易にしりぞけられるものでもないことも確かだ。それでも関係の条件からそこにある誠実さを疑うことはできる。このレベルでは疑わしきは疑わしい。このレベルというのは観察したものをどう取り扱うか以前のレベルのことで、疑わしいからただちにどうするというものではない。ただ疑わしいと思っているだけである。完璧にとっての瑕疵はすなわち深手である。誠がおのれの完璧さを証したいという意図からくるものであったとすれば、これで充分な対策となるだろう。

ブログ移行のお知らせ

当ブログ だから結局 は、Wordpressに高い月額利用料を払い、以下のURLに移行することになった。 だから結局 ぜひブックマークして、日に何度もチェックをお願いしたい。