20220422

通りすがりの人

”通常、他人など私たちにはまったくどうでもよい存在である。”

    『失われた時を求めて』プルースト

 

どこか駅の中にある適当なカフェに入って、窓の外から行き交う人々を眺めていれば、それらの人々がただの模様のように、視覚にちょっとしたバリエーションを添えるスクリーンセイバー中の曲線のひとつにすぎないように思われる。

それは私たちの認識能力の限界からくるものであって、他人への冷淡さからくるものではない。たとえばその中でとくに目を引くような事態が突然出来した場合、私たちの注意力はその出来事を即座に発見し、必要と思われる処置をそれぞれが内々で実行することになる。たとえば走っていた小学生が転んだとき、近くの大人たちは(その事態が目の前に展開する1秒前には小学生に対して何らの注意を払わなかったであろうとも)必要であれば手を差し伸べるような姿勢を取るものだし、出来事に気がついたカフェの人たちは、それがガラス一枚を隔てた先の出来事で、しかも恥の概念がさほど発達していない小学生相手であってさえ、その顛末をまじまじと見つめないよう努めている。

こういったことは私の頭の中だけで起きていることではなく、こうしてカフェに小一時間いるうちにも実際に起こったことである。そしてたまたまこの日この時この場所で起こっているということは、世界中のいたるところ・あらゆる時間に起こることであるといえる。この駅だけに限定しても、誰かが転んだことは何度だってあっただろうし、これから先何度だって転ぶだろう。そして、転んだ人の目撃者たちは、不躾にならない範囲で手を差し伸べたり、反対に、転んだ人があまり恥ずかしく思わないようにあえて手を差し伸べず、大したことは起こっていないというフリをして内心の動揺を押し隠しながら、いくぶん早歩き気味に駅をあとにしたりするだろう。

私にしたところで、もしカフェに座って道行く人を流れる川が形作る渦巻模様を眺めるように眺めているのではなく次の目的地にむかって足早に階段を降りようとしているタイミングで転んだ小学生に出くわしたなら、このように観察することも記述しようとすることもなく、しかるべき対応をとって、しかも電車に乗り込むまでにそれを憶えていることもないはずだ。だから、送信元から宛先まで送られるパケットのように、ただ通り過ぎる影として人々を眺めることは必ずしも冷淡なことだとは思われない。彼らの一人ひとりが家に帰ったり、どこかへ遊びに出かけたりするのだと想像することは、夜景のなかに浮かぶ光のひとつひとつに対して、それが単なる信号のひとつでありながら、じつは単なる信号のひとつではないと感じることと同じで、そこを起点に始まる他人の物語を一時的に、無責任に想像することだ。

自分というものに対しての責任をいっとき軽くする息抜きの役に立つ。私自身が絶対に手放せないものを手放すところを想像するのは面白い。全体を通して投げやりな態度をとらないためにも、たまにそういう気晴らしをしようとして駅中にあるカフェに入ったりする。


ブログ移行のお知らせ

当ブログ だから結局 は、Wordpressに高い月額利用料を払い、以下のURLに移行することになった。 だから結局 ぜひブックマークして、日に何度もチェックをお願いしたい。