20220415

正しさと優しさのどちらを選ぶべきか

幸福ではない人は幸福になろうとする。正しさを知らない人は正しさとはなにか知ろうとする。それはそうだろう。しかし、では、幸福な人はどうなればいいのか。正しさを知っているだけではなく心のうちに持っている人は一体何を目指せばいいのか。自分が本当には幸福ではないと知ることだろうか。自分が抱えている信念が間違ったものだという認識だろうか。

厳密な幸福でなくてもいい、恒久不変の正しさでなくてもかまわないと、われわれは自分の持ち物について誰かにそう言われたい。そうしてひとたびそれを言う側に回って考えてみると、それを言うために必要なのは正しさではないことがわかる。そのようなおためごかしは正しさとは対極にあるものだ。では、それを言うために必要なものは何だろうか。

それは優しさだろう。耳あたりの良い錯誤とも言い換えられる。錯誤が度を越したものでないかぎりは、その間違いに目をつぶってなあなあで済ませる。そういった対応は実際必要だ。ただしその適用範囲は個人にかぎる。社会的な決定事項に対しては、つまり他人の問題に関しては適用外であることをつねに自覚していなければならない。社会と個人(自分)の両者を軽々に同一視することは社会のためにも個人のためにもならない。

何が幸福で何がそうでないかということを社会から延々と聞かされる羽目に陥らないためにも、個人の領域から出ていくことには慎重でいなければならない。われわれはルールを守るためにゲームをするのではない。ゲームを楽しむためにゲームをするのだ。そのためには何はさておきゲームのルールを守ることだ。その先に必要なのはまた別の要素であって、ルールのことをつねに考えているべきではない。目一杯楽しもうとするかぎりそんな暇はないはずだ。


正しさの優しくなさと優しさの正しくなさのうちどちらを選ぶべきかは現在位置によって変化する。

私は私の現在位置から考えて、正しくなさを選ぶのがデフォルトになっている。とはいえ全部を正しくなさに振り切って逃げ切るのは無理だから、ここはというタイミングで正しさのほうへジャンプするようにしている。このへんはプレイスタイルが出るところだろう。私には考えづらいことだが、コントローラーを握らないという選択肢だってあるかもしれない。私だったらたとえコントローラーのボタンを押したとてプレイ画面に何の影響も与えられないことが明らかになったとしてもとにかくコントローラーを握らせてもらいたい。

私はこれまで優しさという性質にはとくに重きを置いてきた。とにかく優しくあることを何よりも優先させるべきだと考えてきた。今でもその傾向は強いと思うが、変わったのは優しさを立派なものだとは考えなくなったというところだ。水が低きに流れるように、優しさにも根本のところにだらしない性質がある。優しいではなく易しいと記述したいぐらいだ。意味が伝わりにくくなってはいけないと思うから、これからも優しさは優しさと記述するが、私にとってその内容は易しさ8:優しさ2ぐらいの配分にまで傾いている。それはシチュエーション次第で色々な意味を含む言葉なのには違いないが、何はともあれイージーなのだ。リスペクトするべきなのは正しさのほうである。つねにアップデートチェックが必要で、しかも適用範囲は限定されていて、かなり頑張らないといけない観念だと思うからだ。優しさに比べとてもハードそうだ。これから先も手に持ってその硬さを確かめるタイミングはなさそうだから、一見したところハードそうだ以上の感触を得ることはないので実際にどうかということは言えないと思っている。

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