Chim↑Pom展を見に行った。会場は六本木の森美術館。エレベータで50階相当を一気に上ったあとさらにエスカレータを上った先で始まる展示は、Chim↑Pomが自らの肖像とするネズミの剥製およびそれを剥製にするための捕物の映像から始まる。天井が低く、配管や支柱がむき出しで息が詰まるが、階段あるいはスロープあるいは梯子で上の階層へ行くと、一転してアスファルトの「道」に出る。一瞬ここがどこかという見当識を失うほど、普通に街にある道の空気感が出せていて、一気に引き込まれる。私を含め美術館に行くような連中はなんだかんだストリートに弱い。道に至るまでに通ってきた経路は地下であり、ネズミの気分を強制的に味合わされることになる。地下にいるときにはわからなかったが、ひとたび道の上に立つと排気口から地下の人たちが目に入る。そうするとそれがネズミのように見え、そのことによって先程の自分自身もネズミのように見えただろうということが事後的に了解されるのだ。われわれが普段踏んでいる道の下にあるものを考えさせるよう考えられている。単純に目線が違えば、街はまるでべつの様相を呈する。街を全力で遊ぶためには各自この見立てを通らなければならないのは確かにそのとおりだ。目を背けたくなるような汚泥が溜まっていかないようにするシステムは今この瞬間も休みなく稼働しているのだが、それも完全ではない。われわれ一人ひとりから排泄される汚泥の一滴はできるかぎり滞留しないようにと流され続けている。流され続けてはいるが、その掃き残しはつねに存在する。そしてその掃き残しが生み出すものはたしかに存在している。そこから目を背けるか、目を背けずに直視しようとするかというのは見解の分かれるところだろう。私はそれは趣味の問題だと考えている。一方、システムの安定と向上は街には欠かせないもので、それはどのスタンスを取るにしても変わらない。衛生観念の向上なくして生活はない。生活があってはじめて道の上で酒を飲んだりパフォーマンスをしたりして楽しめる。しかし、そこに問題があるとすればそれは洗練されたシステムはその洗練ゆえにシステムの稼働実績さえ隠蔽するところにある。優れたテクノロジーがその利用者にそれをテクノロジーだとは感じさせないのにも似て、街の衛生システムは通常目に見えない。誰かがそれを指ささないかぎり。そして誰かがそれを指さすようなことでもないかぎり、目に見えないものはいとも簡単に無いものとされてしまう。街を遊ぶものにそれでも構わないと言うことは難しい。一時的にノリで誤魔化せたとしても、はっきりとべつにいいよと言い切ることや、べつにいいじゃないのと言い続けることはなおのこと難しい。無きものとすることに罪悪感があるからだ。そこにネズミの生きる道がある。
カラスを使った展示もあった。悪の人間に捕獲された仲間のカラスを奪還しようとしてカラスの群れが色々な建物にけしかけられる映像作品から、カラスが思いのほか仲間思いだということが見て取れて感動した。
その他に目を引く展示はとくになかった。ただ、Chim↑Pomのメンバーが関心を持った出来事に対する首の突っ込み方には彼ら特有のスタイルが感じられてよかった。友だちが少ない人の友達の作り方を見せられているような感じがあった。友達の作り方にも良し悪しはあるんだろうが、それ以前に友達を作ろうとすることは良いことだと思う。あと新宿の結婚式もよかった。実質的にはシステムの強制力に過ぎないものをLOVEの強制力と見立てるのはそれをパフォーマンスと心得てはじめて成立することだから、いささかシニカルが過ぎるようにロマンチスト的見地からは見なされるところだろうが、主役がいい笑顔だったらそんなのも関係ないと言えるとも思う。
一年経って思い返しても大体同じようなことを考えている。「道」がやはり一番面白い。「道」が道であることを利用して一円玉を落としてみて遊んだりした。落とす小銭を一円玉にしたのにはいろいろ理由があるのだが単純にお金がもったいないというのが大きい。賽銭などもMOTTAINAIと思っている。マンホールから出てくるかのようなアトラクション的な仕掛けが面白く、這い出てくる様をスタッフの人に撮影してもらおうと依頼したが、できるかぎり接触をしないよう決められているから不可と断られる一幕があった。やわらかくしかしきっぱりと断られて、そのナイスアンドフレンドリーな拒否のされ方と、その瞬間半分地面の下に埋まっていて低くなっているところからの目線が何事かを表象していた。
いま「上から目線ストリート」というインスタグラムアカウントを運営しているのも、この時の経験や、ストリートが面白いと思ってきたことの延長線上にある。いつから興味がはっきりして趣味化されたかといえば『V.』を読んでからだが、その前にもファッションの関連でうっすらとストリートに興味があった。結局、文化的交通を繁くすること自体がストリートへの傾斜を強めることにつながっているというだけの話で、あとはそれをどのレベルで面白がるかということでしかない。ストリートなんて面白いと思えば面白いし面白くないといえば面白くないという程度のものにすぎない。そしてそういう押し付けないあり方が現代美術の好ましいところでもあるんだろう。考えた気になれるところも。この手のものに対してはこういう書き方をしたくなるからこういう書き方をしているだけで、全然わるくないと思う。とにかく気分が上がるのは大事なことだ。
清濁併せのむような大きな流れとしてストリートは措定されているし、その悠長な雰囲気が好きだが、実際に汚れている箇所を許容しているわけではない。実際のストリートでは目を逸らせるということが簡単にできて、現代美術が突きつける余地が十分あるほど、いろんな景観が概念化されている。そのイメージが好きだということにすぎない。たとえばお花畑が好きなのも、そこにいるいろいろな虫込みで好きというのではまったくない。花火が好きなのも、光った後の、燃え尽きた灰の様子に趣をおぼえているわけではない。とくに最後の花火なんかは例として適当ではないかもしれないけど、ここで言いたいのは「好きなものではあるけれど、好きすぎてその対象が全的に好きですべてが許容対象になる」というような狂熱の対象ではないということだ。真剣にストリートが好きだという奴はストリートではなくてそれが内包する特定の何かが好きだというのにすぎない。何かの花をまじめに好きな人は、お花畑が好きとは言わず、花の名前を言ってそれが好きだというはずだ。自分が求めているのはそういうのではない。指差してこれが大好きだという可能性を秘めているところを込みで好きだから全然違うというのでもないが、何よりもまず、種々様々な何かをうっすらと感じながら歩き過ぎていくことができる場所として、目を楽しませる景観としてのストリートが好きだ。質を持った量が重ね合わさっていることの贅沢を味わうためには、そういったものを横目に見ながらほとんど素通りのようにして歩くことが肝心だ。ストリートにおいて真剣に遊ぶためには上のような心がけがまず欠かせない。そこにネズミやらカラスやらが載ってくる。その逆ではない。