20220428

日記14

 昨日

GCPのバッジを3つ取得する。

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Baseline: Infrastructure

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草枕の音読をする。画工が寝ている間に那古井のお嬢さんが夜中の俳句に応答する俳句を書き付けていったり、朝にやり取り(「蚊や蚤のいない国がいい」「それじゃ描いてやる」「平べったくて無理。蟹じゃないんだから」「わははは」)をするのが、〈超現実的な自然〉という感じで良い。

ジムで背中・脚・肩のトレーニング。

公園を散歩する。若者が集まって騒いでいるのとは対照的に静かな池が静かながら延々と均一のリズムで水面をゆらゆら光らせるのを見る。長時間座っても平気なほど、寒くもなければ暑くもなく、虫もあまり出ない良いベンチに座って水面を眺めながら文学について考える。

文学の耐用年数について心配したり、漱石が古典になっていくのを危ぶんだりしてもしょうがない。いらない心配をしてその反動で開き直ったりするのも渦中にいればブランコみたいで面白いけどそればかりでは飽きるし、この言葉遣いで人に通じるかということを心配するのもやめよう。平易に書くことを心掛けても面白くない。わざと歪にしたいのか、わかりにくいように書いて何がしたいのだ、と言われても真っ向からは答えようがないが、言葉に対する感性を優先する。これはしばらく以前からそうだが、それを優先しないでその他に優先することがあるわけでもない。性格ではなく人となりと言いたいときにはその理由を考える手間を省いてただ人となりと言っていい。言葉遣いを放擲する。

文学に対する信頼は深い。なぜなら漱石が評価されているから。他人の評価を鵜呑みにしないのは習い性になったが、それでも自分が評価するものを他人も評価していると安心する。

再読していると、初読時よりも頷くところが明らかに多い。原因と考えられるものはふたつある。どちらか一方が原因ということはなく、おそらく両方の影響を受けているのだろう。それらをまとめて時間経過と言い表すこともできる。漱石を読んでいなければ当然だが、漱石だけを読んできてもここまでの変化はなかっただろうから、再読することで頷きの量が増え、変化の大きさを確認できるのはそれ自体とても快いことだ。

ひょっとすると特定の文学以外にその用を足すものはないのではないか。経年変化を味わうというときに、セピア色とは言わないまでもどこか褪色の響きが感じ取られるのは、なにもファッションに特有の感性ではないはずだ。初めて触れたときよりも新しくなって心に迫ってくる二度目三度目があることはそれだけで珍しいし、懐かしさと新しさが手を携えてこちらに向かってくるようなとき、それが十数年単位での長いスパンであればなおさら、時間の量が懐かしさからくる安心を、新しさからくる思いがけなさをそれぞれに後押しすることになる。過ごした時間の量がすべてを嵩増しするという事実は、わざわざ証明などされずとも当人に実感としてあればそれで良く、その傍証は本来必要のないことだが、それでもこうした傍証があるというのは、ブランドのタグが付いていたりショッパーが付いていることで購入したメルカリの商品が偽物ではないと感じられることと同じような安心をもたらしてくれる。

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