『失われた時を求めて』を読み始めた。
訳者の主張の中にプルーストのこの傑作をトロフィーにするべく読むのではなく、ただただ味わって読むべきだというものがあり、その感覚がしっくりきたので、時間もまだあることだし、いつかは読むのであれば今読んでもいいかもしれないと思った。
たとえて言えば、電車を使って簡単にアクセスできる以上いつか行こうと思ってきたショッピングモールに足を踏み入れたら、導線となる足場がクッションで柔らかかったので、しばらくその踏み心地を確認したいと思っているうちに1巻と2巻を読み終えて3巻に差し掛かったというようなものだ。
今というものが折りたたまれてちっぽけなものになってしまうこと。場合によっては、ちっぽけで、取るに足らないものになってしまうこと。そんなケースがこの世界にはある。場合によっては、と言うにしてはかなり多くある。その対応として振り返るということがあるが、明らかにそれでは不充分だ。振り返って確認する今というものは、今のこの状況の質感や印象をかなりの部分損なっている。それらはまったくの別物だと言い切ってもいいほど、決定的な違いが両者の合間に挟まれることになる。
全く別個のものを指しているのだからそのように感じるのは当然のことだと開き直ることもできる。そのような開き直りにももっともな部分があると思う。最初から今と過ぎ去った後に振り返る今がまったく別物だと考えるほうが今のこの状況の質感や印象に近いと感じられる。掌に捕まえた真っ黒クロスケがただの痕跡になってしまうのと同じことが、今を振り返り見る視点から見えるものにも起こっている。捕まえたという実感、振り返って思い出すという実感が嘘だと言いたいのではないが、それはやはり虚しいものにならざるを得ない。
そうならないために必要な働きかけが『失われた時を求めて』には見られるのではないかと予期してページを開いた。ページをめくれば新事実が浮かび上がってくる。これまで読んだ小説と同じように、ページのめくりと新事実が明らかになっていくこととがつながっている。その点は何も違っていない。先が長いのは間違いないが、終わりが見えないという感じでもない。しかし、今というものをこれまでとはまったく違った形で保存しようという意気が感じられている。どうしたって虚しいもので終わるしかないのだろうと予期しているが、今感じていることの全部がそれではないということは記録しておきたい。