20220430

気分良いか

何事にも限界はあり、人のことについて考えるのにも限界がある。人というのは他人なだけあって自分で自分のことを考える限界よりも低いところに閾値がある。だからその限界を意識したときに人にかけることのできる質問には自問自答するときよりもかなり厳しい条件、はるかに低い天井(上限)がある。人にできるのはただ、気分良い?という質問だ。

気分が良ければそれでいい。自分のことならいざ知らず、他人のことについてそれ以上を求めるのは求めすぎだという気がする。人間関係がややこしいのはそれだけでは満足できない他人というのができることもあるからで、たとえば我が子というのは厳密には他人でありながら、なんとなく他人と言い切れないところがある。それは子供側にはどうしても弱い時期があり、その時期を超すために親側に依存せざるを得ないからだ。放っておいては大変な時期があることで、この人のことは放っておいてはいけないといつまでも考えてしまうのはどちらかといえば自然で、この習慣化された考え方を切り替える方が、ある時期を堺に放っておくことに決める方が、そうするという意思が必要になる。

親子関係というのは例外的な関係にすぎないから、人間同士は基本的には干渉しあわず個人主義を貫くべきであるというのはもっともらしく聞こえる意見だが、親子関係が他の人間関係の雛形になるということは十分考えられる。個人主義によって個人にフォーカスすればなおさら、弱い関係はいつでもいつまでも弱く、子供時代の強い人間関係をどうしても更新できない。結局、子供を持つこと、抜き差しならないそれなりに強い紐帯を持つことで更新するほかないとすれば、雛形化は強化されることはあれど弱化することはない。そうなる契機が構造的に存在しないからだ。

結び付きがあると感じる他人に対して気分が良いかという以上のことを聞けないとすればそれはいかにもわびしい。しかし、他人を他人として尊重する以上、その質問以上のことは聞けないはずだ。もっとも、他人を他人として尊重するというのも何を誠実とするかのいちスタンスにすぎず、特定の他人を自分とみなすような考え方もありうるだろう。その場合は、自分に対して聞くようなこと、自答を前提とする自問が問うような問いを他人に向けることも可能だ。自答を前提とするような自問の問いとしての不完全さを向けられるほど、私にとってあなたは特別なのですよというサインにもそれはなるだろう。客観的な誠実さを捨てて何かを得ようとするところに誠実さを感じられると思うのはすでに自答の重力圏にある感性だろうか。感性だろう。

しかし、社会的な人間関係のなかでも権威や権力をその仲立ちにするような関係は上の感性にはそぐわない。事実においてはそれと受け取られるケースもあるのだろうが、私自身の回答としてそれは認めない。そうは言っても、文化的洗練はそのパワーを隠微な形で発揮させるものだったりして、安易にしりぞけられるものでもないことも確かだ。それでも関係の条件からそこにある誠実さを疑うことはできる。このレベルでは疑わしきは疑わしい。このレベルというのは観察したものをどう取り扱うか以前のレベルのことで、疑わしいからただちにどうするというものではない。ただ疑わしいと思っているだけである。完璧にとっての瑕疵はすなわち深手である。誠がおのれの完璧さを証したいという意図からくるものであったとすれば、これで充分な対策となるだろう。

20220428

日記14

 昨日

GCPのバッジを3つ取得する。

Create and Manage Cloud Resources

Baseline: Infrastructure

Perform Foundational Infrastructure Tasks in Google Cloud


草枕の音読をする。画工が寝ている間に那古井のお嬢さんが夜中の俳句に応答する俳句を書き付けていったり、朝にやり取り(「蚊や蚤のいない国がいい」「それじゃ描いてやる」「平べったくて無理。蟹じゃないんだから」「わははは」)をするのが、〈超現実的な自然〉という感じで良い。

ジムで背中・脚・肩のトレーニング。

公園を散歩する。若者が集まって騒いでいるのとは対照的に静かな池が静かながら延々と均一のリズムで水面をゆらゆら光らせるのを見る。長時間座っても平気なほど、寒くもなければ暑くもなく、虫もあまり出ない良いベンチに座って水面を眺めながら文学について考える。

文学の耐用年数について心配したり、漱石が古典になっていくのを危ぶんだりしてもしょうがない。いらない心配をしてその反動で開き直ったりするのも渦中にいればブランコみたいで面白いけどそればかりでは飽きるし、この言葉遣いで人に通じるかということを心配するのもやめよう。平易に書くことを心掛けても面白くない。わざと歪にしたいのか、わかりにくいように書いて何がしたいのだ、と言われても真っ向からは答えようがないが、言葉に対する感性を優先する。これはしばらく以前からそうだが、それを優先しないでその他に優先することがあるわけでもない。性格ではなく人となりと言いたいときにはその理由を考える手間を省いてただ人となりと言っていい。言葉遣いを放擲する。

文学に対する信頼は深い。なぜなら漱石が評価されているから。他人の評価を鵜呑みにしないのは習い性になったが、それでも自分が評価するものを他人も評価していると安心する。

再読していると、初読時よりも頷くところが明らかに多い。原因と考えられるものはふたつある。どちらか一方が原因ということはなく、おそらく両方の影響を受けているのだろう。それらをまとめて時間経過と言い表すこともできる。漱石を読んでいなければ当然だが、漱石だけを読んできてもここまでの変化はなかっただろうから、再読することで頷きの量が増え、変化の大きさを確認できるのはそれ自体とても快いことだ。

ひょっとすると特定の文学以外にその用を足すものはないのではないか。経年変化を味わうというときに、セピア色とは言わないまでもどこか褪色の響きが感じ取られるのは、なにもファッションに特有の感性ではないはずだ。初めて触れたときよりも新しくなって心に迫ってくる二度目三度目があることはそれだけで珍しいし、懐かしさと新しさが手を携えてこちらに向かってくるようなとき、それが十数年単位での長いスパンであればなおさら、時間の量が懐かしさからくる安心を、新しさからくる思いがけなさをそれぞれに後押しすることになる。過ごした時間の量がすべてを嵩増しするという事実は、わざわざ証明などされずとも当人に実感としてあればそれで良く、その傍証は本来必要のないことだが、それでもこうした傍証があるというのは、ブランドのタグが付いていたりショッパーが付いていることで購入したメルカリの商品が偽物ではないと感じられることと同じような安心をもたらしてくれる。

20220426

日記13

渋谷に行く。近頃はレンタルドレス店というものがあるらしい。店内は無人、店に入るためのカギ番号をラインで教えてもらって、それで勝手に入店し、試着して気に入ったものをそのまま借りられるシステムになっているようだ。値段は一週間借りられて一着3000円。ドレスなんて普段着ないのにいざ着るとなったらそれなりの質が求められて、真面目に取り合えば取り合うだけ出費がかさむと思うので、そのレンタルはかなりいいサービスだと思った。店の人と一切顔を合わせないで完結できるところも秀逸だ。

二年前なのでこのように字が青くなる。赤い字がないのは一年前にこの日記を振り返らなかったからだ。その場合ラベルをどうしようか。いろいろやり方がある。考えよう。

ラケルでデミソースのオムライスを食べてすぐに吉祥寺に戻る。自宅でゴジラSPを見る。こんなシーンあったかなというシーンが各話にあった。

最近ゴジラSPをちょろっと見返し始めている。一番良いゴジラはまぎれもなくゴジラSPだ。−1.0とかあんまり馬鹿みたいじゃないか?

草枕を音読する。声に出して読むと画工のいう詩趣が直接耳に伝わってなお良い。語彙も豊かで使ったことのない言葉も多いので呼吸を合わせるのは難しいが、それがうまくいく行がたまにあると気持ちいい。なかなかすらすらとはいかないが、口にしたことのない言葉を口にするだけでも嬉しい。

今はぜんぜんやっていない。音読。

ジムで背中と脚のトレーニング。プールで750メートル泳ぐ。風呂でのストレッチがよく効いた。首周りが少し硬くなっていたのがうまくほぐれたと思う。

今はぜんぜんやっていない。ジムでのトレーニング。でも新しい仕事を機にスクワットは再開した。プールもたまに行ってる。

日記12

 昨日

信濃町にある病院での検査に付いていく。システマチックな処理に力を入れている印象の病院だったがそれでも待ち時間が2時間近く発生する。そのあいだにCCNAの試験勉強。

その後総武線で新宿駅に行く。構内の「わおん。」という店で牛すじ煮込み丼を食べる。想像した通りの味でとても美味しかった。

異常に天気が良かったので中野で散歩することになる。昔友人が住んでいた場所をひととおり三駅分くらい歩き回って、日差しによる暑さもありへとへとになる。なんとかセントラルパークにたどり着きビールで乾杯をする。最高の気候で気持ちよく飲む。日が落ちてしばらくするとTシャツ一枚では若干肌寒くなったのと少し飲みすぎて頭が痛くなりかけたので、帰ってすぐに寝る。

20220422

通りすがりの人

”通常、他人など私たちにはまったくどうでもよい存在である。”

    『失われた時を求めて』プルースト

 

どこか駅の中にある適当なカフェに入って、窓の外から行き交う人々を眺めていれば、それらの人々がただの模様のように、視覚にちょっとしたバリエーションを添えるスクリーンセイバー中の曲線のひとつにすぎないように思われる。

それは私たちの認識能力の限界からくるものであって、他人への冷淡さからくるものではない。たとえばその中でとくに目を引くような事態が突然出来した場合、私たちの注意力はその出来事を即座に発見し、必要と思われる処置をそれぞれが内々で実行することになる。たとえば走っていた小学生が転んだとき、近くの大人たちは(その事態が目の前に展開する1秒前には小学生に対して何らの注意を払わなかったであろうとも)必要であれば手を差し伸べるような姿勢を取るものだし、出来事に気がついたカフェの人たちは、それがガラス一枚を隔てた先の出来事で、しかも恥の概念がさほど発達していない小学生相手であってさえ、その顛末をまじまじと見つめないよう努めている。

こういったことは私の頭の中だけで起きていることではなく、こうしてカフェに小一時間いるうちにも実際に起こったことである。そしてたまたまこの日この時この場所で起こっているということは、世界中のいたるところ・あらゆる時間に起こることであるといえる。この駅だけに限定しても、誰かが転んだことは何度だってあっただろうし、これから先何度だって転ぶだろう。そして、転んだ人の目撃者たちは、不躾にならない範囲で手を差し伸べたり、反対に、転んだ人があまり恥ずかしく思わないようにあえて手を差し伸べず、大したことは起こっていないというフリをして内心の動揺を押し隠しながら、いくぶん早歩き気味に駅をあとにしたりするだろう。

私にしたところで、もしカフェに座って道行く人を流れる川が形作る渦巻模様を眺めるように眺めているのではなく次の目的地にむかって足早に階段を降りようとしているタイミングで転んだ小学生に出くわしたなら、このように観察することも記述しようとすることもなく、しかるべき対応をとって、しかも電車に乗り込むまでにそれを憶えていることもないはずだ。だから、送信元から宛先まで送られるパケットのように、ただ通り過ぎる影として人々を眺めることは必ずしも冷淡なことだとは思われない。彼らの一人ひとりが家に帰ったり、どこかへ遊びに出かけたりするのだと想像することは、夜景のなかに浮かぶ光のひとつひとつに対して、それが単なる信号のひとつでありながら、じつは単なる信号のひとつではないと感じることと同じで、そこを起点に始まる他人の物語を一時的に、無責任に想像することだ。

自分というものに対しての責任をいっとき軽くする息抜きの役に立つ。私自身が絶対に手放せないものを手放すところを想像するのは面白い。全体を通して投げやりな態度をとらないためにも、たまにそういう気晴らしをしようとして駅中にあるカフェに入ったりする。


20220421

日記10,11

 大阪から友人が遊びに来る。2日間にわたって遊ぶ。東京を案内したり案内されたりする。


初日

午前から合流し吉祥寺の映画館で名探偵のアニメ映画を見る。スパイダーマンにおける第二の主人公がNYであるように、シャーロックホームズにおける第二の主人公がロンドンであるように、『名探偵コナン ハロウィンの花嫁』の第二の主人公は渋谷だったことでかなりの部分が楽しめた。今作もそうだが、渋谷が出てくるとそれだけで大幅加点になる。たとえば呪術廻戦などはその典型。

関西には無いからという理由で昼食はすた丼に入る。そのすぐ後渋谷に移動して即・聖地巡礼を実行する。宮下パークの1Fで女の子が派手にコケる場面に遭遇する。4,5人のグループだったから恥ずかしかったはずなのだけど、両膝を強打したようでしばらくは痛くてそれどころではなさそうだった。なんとか自分の足で歩けるまでに痛みが収まってから、友人たちと渋谷のどこかへ向かっていった。エスカレータで屋上に行きコーヒーを飲む。ナショナル・ジオグラフィックのイベントがやっていた。その映像インスタレーションでドードー鳥との邂逅を果たす。絶滅の理由として、食用のため、あるいは単なるゲームとして殴り殺されたため絶滅したと書かれてあって、それを読んだはじめてドードー鳥を知る人はどんなことを思うのか興味が湧いた。友人はマジですか?と言っていたのでマジみたいよと言っておいた。昔の人間は野蛮だ。

帰りに下北沢の定食屋で晩飯を食べる。友人は酒を飲まないのでそのまま帰宅し一日目終了。


二日目

朝から公園口のパン屋でパンを買い、井の頭公園でカモ・散歩する犬・子供を見ながらパンを食べる。友人が東京時代に住んでいたという南大沢〜橋本のエリアに行くことにする。歩き回って、好きで何回か行った公園、団地や公園のあるエリアなどを歩いているうちに友人の次の約束の時間が迫ってきたので橋本まで行く予定が途中の多摩境で引き返すことになる。友人とは明大前駅で別れる。

帰宅してGCPのラボをやる。サブスクリプションに登録したのにもかかわらず、原因不明のエラーのせいで前回から2週間ちかく空いたせいで、操作方法を忘れてクリアできず。

ジムに行って足と背中のトレーニング、水泳600メートル。雨が降っているけれど酒を飲まないで寝てしまうことにする。

ついこのあいだ同じ友人が東京に遊びにきていた。一年前も同じぐらいの時期に遊びに来ていてめぼしいコースはあらかた回ったせいか、このあいだうろちょろしたのは下北沢だけだった。もっとちがうエリアも攻めればよかった。一年前はGoogleCloudの勉強をしていてえらい。家の間近にジムがあったので手軽にスイミングできていたのもたのしかった。近頃は運動といっても3分間スクワットしかしていないのとは大違いだ。

20220418

日記9

所用のため三鷹に行く。行きは雨が降っていなかったので歩いて三鷹まで行くが、帰りは雨が降り始めていたので電車で帰ることにして三鷹駅に行く。そのまま帰ってもよかったが折角なので普段行かないスタバに入る。改札内の人通りが見られる席に座って本を読んだり何だりしていると、19時前ぐらいから改札内に人が充満し始める。Twitterで「三鷹駅」と検索し、信号トラブルで電車が止まった影響と知る。窓ガラスを隔ててこちら側と向こう側で流れている時間が目に見えて違うのが面白かった。向こう側にいてそう呑気に構えていられるかはわからないが、多少気の毒とはいえ経験が無いわけでもなし、久しぶりに電車の運行不良による混雑を見られて満足だった。自分に差し障りがない状態で観察できるというのがなおのこと満足感を煽った。しかし、このまま電車に乗って帰るのでは混雑が避けられず、運良く得られた優越感がもったいないので雨に濡れながら歩いて帰ることにする。われながらばかばかしいところで頑張りを見せるものだと思うが、今のこの自分の立場に立てばほとんどの人がその選択をするとも思う。

20時半現在。ここから見えるかぎりでは改札内にある惣菜屋の棚から商品が消えている。この時間帯はいつもそうなのか、今日のこの混雑に乗じた売れ行きなのかわからないが、後者だとしたら店側からしたら予想外の幸運ということになるだろうか。

一年前は井の頭公園の近くに住んでいたので井の頭公園を歩くのが日常と化していた。あと吉祥寺にはスタバが6つあり、どのスタバに入って本を読んだりするか選び放題だったのだが、それでも隣の三鷹駅に行くことがあるとそれなりの確率でスタバに入っていた。

雨の中傘をささずに歩くことにハマっていた時期だった。今の家ではやろうと思わないので井の頭公園の存在が大きかったのだと思われる。

家から井の頭公園は歩いて5分とかからない距離だったので缶チューハイを持って池のぐるりを一周するという夜遊びを週5ペースでやっていた。自然や緑に比較的冷淡な自分でも井の頭公園は歩き良かった。一周あたりの距離も絶妙だった。

失われた時を求めて1

『失われた時を求めて』を読み始めた。

訳者の主張の中にプルーストのこの傑作をトロフィーにするべく読むのではなく、ただただ味わって読むべきだというものがあり、その感覚がしっくりきたので、時間もまだあることだし、いつかは読むのであれば今読んでもいいかもしれないと思った。

たとえて言えば、電車を使って簡単にアクセスできる以上いつか行こうと思ってきたショッピングモールに足を踏み入れたら、導線となる足場がクッションで柔らかかったので、しばらくその踏み心地を確認したいと思っているうちに1巻と2巻を読み終えて3巻に差し掛かったというようなものだ。

今というものが折りたたまれてちっぽけなものになってしまうこと。場合によっては、ちっぽけで、取るに足らないものになってしまうこと。そんなケースがこの世界にはある。場合によっては、と言うにしてはかなり多くある。その対応として振り返るということがあるが、明らかにそれでは不充分だ。振り返って確認する今というものは、今のこの状況の質感や印象をかなりの部分損なっている。それらはまったくの別物だと言い切ってもいいほど、決定的な違いが両者の合間に挟まれることになる。

全く別個のものを指しているのだからそのように感じるのは当然のことだと開き直ることもできる。そのような開き直りにももっともな部分があると思う。最初から今と過ぎ去った後に振り返る今がまったく別物だと考えるほうが今のこの状況の質感や印象に近いと感じられる。掌に捕まえた真っ黒クロスケがただの痕跡になってしまうのと同じことが、今を振り返り見る視点から見えるものにも起こっている。捕まえたという実感、振り返って思い出すという実感が嘘だと言いたいのではないが、それはやはり虚しいものにならざるを得ない。

そうならないために必要な働きかけが『失われた時を求めて』には見られるのではないかと予期してページを開いた。ページをめくれば新事実が浮かび上がってくる。これまで読んだ小説と同じように、ページのめくりと新事実が明らかになっていくこととがつながっている。その点は何も違っていない。先が長いのは間違いないが、終わりが見えないという感じでもない。しかし、今というものをこれまでとはまったく違った形で保存しようという意気が感じられている。どうしたって虚しいもので終わるしかないのだろうと予期しているが、今感じていることの全部がそれではないということは記録しておきたい。

20220415

正しさと優しさのどちらを選ぶべきか

幸福ではない人は幸福になろうとする。正しさを知らない人は正しさとはなにか知ろうとする。それはそうだろう。しかし、では、幸福な人はどうなればいいのか。正しさを知っているだけではなく心のうちに持っている人は一体何を目指せばいいのか。自分が本当には幸福ではないと知ることだろうか。自分が抱えている信念が間違ったものだという認識だろうか。

厳密な幸福でなくてもいい、恒久不変の正しさでなくてもかまわないと、われわれは自分の持ち物について誰かにそう言われたい。そうしてひとたびそれを言う側に回って考えてみると、それを言うために必要なのは正しさではないことがわかる。そのようなおためごかしは正しさとは対極にあるものだ。では、それを言うために必要なものは何だろうか。

それは優しさだろう。耳あたりの良い錯誤とも言い換えられる。錯誤が度を越したものでないかぎりは、その間違いに目をつぶってなあなあで済ませる。そういった対応は実際必要だ。ただしその適用範囲は個人にかぎる。社会的な決定事項に対しては、つまり他人の問題に関しては適用外であることをつねに自覚していなければならない。社会と個人(自分)の両者を軽々に同一視することは社会のためにも個人のためにもならない。

何が幸福で何がそうでないかということを社会から延々と聞かされる羽目に陥らないためにも、個人の領域から出ていくことには慎重でいなければならない。われわれはルールを守るためにゲームをするのではない。ゲームを楽しむためにゲームをするのだ。そのためには何はさておきゲームのルールを守ることだ。その先に必要なのはまた別の要素であって、ルールのことをつねに考えているべきではない。目一杯楽しもうとするかぎりそんな暇はないはずだ。


正しさの優しくなさと優しさの正しくなさのうちどちらを選ぶべきかは現在位置によって変化する。

私は私の現在位置から考えて、正しくなさを選ぶのがデフォルトになっている。とはいえ全部を正しくなさに振り切って逃げ切るのは無理だから、ここはというタイミングで正しさのほうへジャンプするようにしている。このへんはプレイスタイルが出るところだろう。私には考えづらいことだが、コントローラーを握らないという選択肢だってあるかもしれない。私だったらたとえコントローラーのボタンを押したとてプレイ画面に何の影響も与えられないことが明らかになったとしてもとにかくコントローラーを握らせてもらいたい。

私はこれまで優しさという性質にはとくに重きを置いてきた。とにかく優しくあることを何よりも優先させるべきだと考えてきた。今でもその傾向は強いと思うが、変わったのは優しさを立派なものだとは考えなくなったというところだ。水が低きに流れるように、優しさにも根本のところにだらしない性質がある。優しいではなく易しいと記述したいぐらいだ。意味が伝わりにくくなってはいけないと思うから、これからも優しさは優しさと記述するが、私にとってその内容は易しさ8:優しさ2ぐらいの配分にまで傾いている。それはシチュエーション次第で色々な意味を含む言葉なのには違いないが、何はともあれイージーなのだ。リスペクトするべきなのは正しさのほうである。つねにアップデートチェックが必要で、しかも適用範囲は限定されていて、かなり頑張らないといけない観念だと思うからだ。優しさに比べとてもハードそうだ。これから先も手に持ってその硬さを確かめるタイミングはなさそうだから、一見したところハードそうだ以上の感触を得ることはないので実際にどうかということは言えないと思っている。

日記8

昨日行ったChim↑Pom展の別会場での展示を見に行った。昨日に引き続いての雨が若干鬱陶しいもののとにかく過ごしやすい気温なのでそこまで苦にならない。
展示内容の写真撮影が禁止されているなど、シークレットな演出がなされており、どんな展示が見られるのかと楽しみにしていたので内容には拍子抜けした。スーパーラットのピカチュウバージョンの剥製が飾られていただけ。どう見てもピカチュウをモチーフにしたスーパーラットなので著作権者と揉めることを美術館側が恐れての措置にすぎないようだった。美術館側の大人の対応(?)が展示に含まれることになるというのはChim↑Pomのやり方として正しいとは思うけど、雨の中わざわざ虎ノ門に行ってまで見るものではなかった。スーパーラットも展示内での位置づけによって面白いものになっていただけで、それを考えると「道」も六本木ヒルズの53Fにあるから面白いだけで同じことだと気づいた。全体を通して一回で満足というか二度見て面白いものではない。驚き以外とくに滋味がない。それで充分だとも言えるのだろうが、それで充分だとは思わない。
帰りに渋谷に寄る。これだけのアトラクションに対して入園料がかからないのはすごいことだ。与えられないでも自分自身で見立てを架構できるものにとってこんなにいい場所はない。

20220414

日記7

Chim↑Pom展を見に行った。会場は六本木の森美術館。エレベータで50階相当を一気に上ったあとさらにエスカレータを上った先で始まる展示は、Chim↑Pomが自らの肖像とするネズミの剥製およびそれを剥製にするための捕物の映像から始まる。天井が低く、配管や支柱がむき出しで息が詰まるが、階段あるいはスロープあるいは梯子で上の階層へ行くと、一転してアスファルトの「道」に出る。一瞬ここがどこかという見当識を失うほど、普通に街にある道の空気感が出せていて、一気に引き込まれる。私を含め美術館に行くような連中はなんだかんだストリートに弱い。道に至るまでに通ってきた経路は地下であり、ネズミの気分を強制的に味合わされることになる。地下にいるときにはわからなかったが、ひとたび道の上に立つと排気口から地下の人たちが目に入る。そうするとそれがネズミのように見え、そのことによって先程の自分自身もネズミのように見えただろうということが事後的に了解されるのだ。われわれが普段踏んでいる道の下にあるものを考えさせるよう考えられている。単純に目線が違えば、街はまるでべつの様相を呈する。街を全力で遊ぶためには各自この見立てを通らなければならないのは確かにそのとおりだ。目を背けたくなるような汚泥が溜まっていかないようにするシステムは今この瞬間も休みなく稼働しているのだが、それも完全ではない。われわれ一人ひとりから排泄される汚泥の一滴はできるかぎり滞留しないようにと流され続けている。流され続けてはいるが、その掃き残しはつねに存在する。そしてその掃き残しが生み出すものはたしかに存在している。そこから目を背けるか、目を背けずに直視しようとするかというのは見解の分かれるところだろう。私はそれは趣味の問題だと考えている。一方、システムの安定と向上は街には欠かせないもので、それはどのスタンスを取るにしても変わらない。衛生観念の向上なくして生活はない。生活があってはじめて道の上で酒を飲んだりパフォーマンスをしたりして楽しめる。しかし、そこに問題があるとすればそれは洗練されたシステムはその洗練ゆえにシステムの稼働実績さえ隠蔽するところにある。優れたテクノロジーがその利用者にそれをテクノロジーだとは感じさせないのにも似て、街の衛生システムは通常目に見えない。誰かがそれを指ささないかぎり。そして誰かがそれを指さすようなことでもないかぎり、目に見えないものはいとも簡単に無いものとされてしまう。街を遊ぶものにそれでも構わないと言うことは難しい。一時的にノリで誤魔化せたとしても、はっきりとべつにいいよと言い切ることや、べつにいいじゃないのと言い続けることはなおのこと難しい。無きものとすることに罪悪感があるからだ。そこにネズミの生きる道がある。

カラスを使った展示もあった。悪の人間に捕獲された仲間のカラスを奪還しようとしてカラスの群れが色々な建物にけしかけられる映像作品から、カラスが思いのほか仲間思いだということが見て取れて感動した。

その他に目を引く展示はとくになかった。ただ、Chim↑Pomのメンバーが関心を持った出来事に対する首の突っ込み方には彼ら特有のスタイルが感じられてよかった。友だちが少ない人の友達の作り方を見せられているような感じがあった。友達の作り方にも良し悪しはあるんだろうが、それ以前に友達を作ろうとすることは良いことだと思う。あと新宿の結婚式もよかった。実質的にはシステムの強制力に過ぎないものをLOVEの強制力と見立てるのはそれをパフォーマンスと心得てはじめて成立することだから、いささかシニカルが過ぎるようにロマンチスト的見地からは見なされるところだろうが、主役がいい笑顔だったらそんなのも関係ないと言えるとも思う。

一年経って思い返しても大体同じようなことを考えている。「道」がやはり一番面白い。「道」が道であることを利用して一円玉を落としてみて遊んだりした。落とす小銭を一円玉にしたのにはいろいろ理由があるのだが単純にお金がもったいないというのが大きい。賽銭などもMOTTAINAIと思っている。マンホールから出てくるかのようなアトラクション的な仕掛けが面白く、這い出てくる様をスタッフの人に撮影してもらおうと依頼したが、できるかぎり接触をしないよう決められているから不可と断られる一幕があった。やわらかくしかしきっぱりと断られて、そのナイスアンドフレンドリーな拒否のされ方と、その瞬間半分地面の下に埋まっていて低くなっているところからの目線が何事かを表象していた。

いま「上から目線ストリート」というインスタグラムアカウントを運営しているのも、この時の経験や、ストリートが面白いと思ってきたことの延長線上にある。いつから興味がはっきりして趣味化されたかといえば『V.』を読んでからだが、その前にもファッションの関連でうっすらとストリートに興味があった。結局、文化的交通を繁くすること自体がストリートへの傾斜を強めることにつながっているというだけの話で、あとはそれをどのレベルで面白がるかということでしかない。ストリートなんて面白いと思えば面白いし面白くないといえば面白くないという程度のものにすぎない。そしてそういう押し付けないあり方が現代美術の好ましいところでもあるんだろう。考えた気になれるところも。この手のものに対してはこういう書き方をしたくなるからこういう書き方をしているだけで、全然わるくないと思う。とにかく気分が上がるのは大事なことだ。

清濁併せのむような大きな流れとしてストリートは措定されているし、その悠長な雰囲気が好きだが、実際に汚れている箇所を許容しているわけではない。実際のストリートでは目を逸らせるということが簡単にできて、現代美術が突きつける余地が十分あるほど、いろんな景観が概念化されている。そのイメージが好きだということにすぎない。たとえばお花畑が好きなのも、そこにいるいろいろな虫込みで好きというのではまったくない。花火が好きなのも、光った後の、燃え尽きた灰の様子に趣をおぼえているわけではない。とくに最後の花火なんかは例として適当ではないかもしれないけど、ここで言いたいのは「好きなものではあるけれど、好きすぎてその対象が全的に好きですべてが許容対象になる」というような狂熱の対象ではないということだ。真剣にストリートが好きだという奴はストリートではなくてそれが内包する特定の何かが好きだというのにすぎない。何かの花をまじめに好きな人は、お花畑が好きとは言わず、花の名前を言ってそれが好きだというはずだ。自分が求めているのはそういうのではない。指差してこれが大好きだという可能性を秘めているところを込みで好きだから全然違うというのでもないが、何よりもまず、種々様々な何かをうっすらと感じながら歩き過ぎていくことができる場所として、目を楽しませる景観としてのストリートが好きだ。質を持った量が重ね合わさっていることの贅沢を味わうためには、そういったものを横目に見ながらほとんど素通りのようにして歩くことが肝心だ。ストリートにおいて真剣に遊ぶためには上のような心がけがまず欠かせない。そこにネズミやらカラスやらが載ってくる。その逆ではない。




20220412

日記6

昨日

暖かく天気が良かったので渋谷に行く。PARCO屋上で本を読んだりMACを開いたりして遊ぶ。もっといるつもりが風が強かったため肌寒くなってしまい1時間弱で引き上げる。

前よく行っていたドトールで続きをする。コロナなのか以前はぎゅうぎゅうだった時間帯に空席が目立ち、店内が広く感じられた。あれがキープされるようならスタバより快適かもしれない。

原宿まで歩きながら酒を飲んで、渋谷まで酒を飲みながら取って返し、電車に乗って帰宅する。

20220411

日記3〜5

自分が書いた一年前の日記にコメントするときに赤を使うのはセオリーだと思われる。どこで見つけたセオリーなのか来歴不明でありながら内的にセオリーとしての存在感をもつセオリーがあり、そのセオリーの根拠はそれがセオリーだということのみにある、そんな種類のセオリーがある。これもそれに類するようなセオリーなのだが、来歴はついさっき述べた通り不明である。ただただセオリー然としたセオリー。それを擬・セオリーと呼ぶようなことを自分はやらない。

自分が書いた二年前の日記および一年前のコメントにたいしてコメントするときには青を使うのがセオリーだ。


4月4日〜4月6日

三日間、青春18切符を使って東北に行くことだけを決めたアバウトな旅をした。

たしか前夜に飲んでいて、その場の勢いだけで決まった旅行だった。

前夜には吉祥寺で飲んでいた。当時私は華の無職でこのときにはまだ吉祥寺に住んでいた。


初日の4日は雨で、しかも肝心の青春18切符を入手するところから始めなくてはならず、吉祥寺・新宿の金券ショップそれぞれでチャレンジするも素気なく「ありません」と言われる始末。前夜に酔いにまかせて「行こう/そうしよう」で決めた旅が早速頓挫とあってはせっかくの早起きも無駄になりかねないと不安に思っていたのだが、旅の相方がもう一軒べつの新宿金券ショップで5回綴りと1回残しを入手したとのことでめでたく出発となる。

交通手段の切符が手に入るかどうか不明で、出発できるかどうか不明確だったし、いろんな可能性がこの時点ではあったと思うが、出発できるのに出発しないという選択肢だけは気分的にあり得なかった。

やっぱやめておこうと言わなかったのはえらかった。いま同じ条件に置かれたとしたら、やめておくという賢明な判断をすることだろう。そもそも旅をしようという発案もなければ、そうしようという同意もないことだろう。時間は一方向にすすんでいく。


ラッキーだったと我々自身が持つ幸運のパワーを頼もしく思い、湘南新宿ラインが都心から結構なスピードで離れていくうちにも雨は止む気配すら見せず、どうもテンションが上り切らない旅路となる。もともとのコンセプトは「一人旅をふたりでする」だったので、はしゃがない旅は想定していたとおりなのだが、行けるか行けないかという緊張を強いる問いから良い目が出たものだからついはしゃいでしまい、はしゃいだものだからその後のテンションの低下を意識してしまうことになった。降り続く雨にズボンの裾を濡らされながら宇都宮駅前をうろちょろし、なんとなく決めた店で餃子を食べる。餃子には店独自の工夫があったものの味自体はまあこんなもんかという味。

これから旅行するんだという気負いがあったものと思われる。無聊をかこつようなスタンスを取ることにかまけて、空元気ならぬ空アンニュイを各々発揮したということか。まあ前日の酒と無理な早起きによる寝不足が原因とみて間違いない。橋のところまで歩くも雨のため渡るのは断念し、駅前の餃子店で妥協した。

だらだら進んでいく感じはなかなかよかった。


宇都宮を出てからの旅路は電車の本数が激減することで乗車時間をつよく意識した緊張感あるものになった。途中の乗換駅にもパッとする駅はなかった。唯一黒磯の駅前には若干目を瞠る図書館があったのにもかかわらず月曜休館で内部を確認することができなかった。

図書館前駅という駅名ではなかったが、そう名付けるのが妥当な駅だった。雨がなければもうすこし歩いて何かを探そうという気にもなっただろうので、やはり天気が残念だった。

雨の旅行は記憶のなかで美化されるということがない代わりに、いつまでも薄暗い景色の記憶として残っていくような気がする。まあまだ二年目なのでそう思うだけかもしれない。


出発時間からすると妥当ではあるのだが、仙台につく頃にはすっかり暗くなっていた。雨はやっぱり降り続けていたので、仙台駅から公園近くのホテルまで不承不承歩く。ホテルに着くまでの途中に良さそうな雰囲気の居酒屋があったのでそこで飲むことに決める。本当は行きたかったおすすめの店があったのだがこれも月曜定休で断念。そこそこ良い店だったが最近東京にできたチェーン展開の店だということに気がついてしまい、残念な思いをする。リベンジにとこれは東京にはないという安い店を見つけたので飛び込んだところ、ひどい目に会う。看板に偽りがない料金だったのにもかかわらずぼったくられたような気分になる。知らない安い店でしかも地階にあるようなところには足を踏み入れてはいけないという教訓を得た。

なぜこれを書いていないのか謎なのだが、仙台駅のPARCO的な建物で連れがパンチラを目撃したことを報告してきた。パンチラごときではしゃぐような旅でもなし、それを見ようと意識したわけでもなかろうから余計にそのちょっとした幸運が引き立ち、むやみに羨ましがったのも我ながら浅ましかった。何も得ず羨望するだけ羨望して結果情けない気持ちになるという、ちょっとしたこと史上でもかなり上位に食い込む最低な出来事だった。当時は悔しすぎて書けなかったのかもしれない。見れてみっともないならまだしも見れてないのにみっともないし。

パンチラを無邪気に喜ぶなんて、そういう時代だったんだねと振り返る時代がくるのだろうか。なんとなくもうすぐ来そうだ。


2日目は仙台スタートで気仙沼に向かう。気仙沼線が途中からバスになっているのだが、もともとは電車だったことからこのバスは専用線を持つなど電車扱いされており、青春18切符でも乗車可能だった。南気仙沼で降車し市場まで歩く。市場で海鮮丼とシャークナゲットの昼食。その後港湾沿いを浮見堂まで歩く。おしゃれなカフェでのコーヒーブレイク。私はハンドドリップのコーヒーだけの注文だったのだが、道連れが注文したチーズケーキにはふんだんにいちごソースがかかっておりとても美味しそうだった。

NHKの朝ドラの撮影風景などの展示があって写真を撮ったりした。ふたりともその朝ドラを見ていないにもかかわらず撮影にはノリノリで、誰がどう見ても聖地巡礼のようだった。空いていたけど人がいないというわけではなく、ガチのファンだったのかわからないがまばらに人がいた。

気仙沼に来たのはたぶん初めてだったが、何度か来たような錯覚をおぼえた。東北のことをかなり広域にぼんやり捉えているフシがある。


さらに気仙沼駅まで街歩き気分で歩いて、行きとは別経路の一ノ関経由で仙台に帰る。この日も仙台泊にしたのは昨日行けなかったおすすめの店に行くため。これが大当たりで、この旅の一番のハイライトはこの店での料理が美味しかったことだった。美味しい魚が美味しく料理されればその美味しさは足し算では間に合わないということを知った。

仙台の居酒屋は思い出しても感動できるくらいとても美味しかったのだが、みちのくをもっと奥へと進んでいかないという決断をしたのもあってやや過剰に大当たりと書いているようにもみえる。東北への旅ははじめてではなかったので余裕を持って構えすぎたようにも感じられる。もっと無軌道な、あるいは中途半端な東北行にしてもよかったかもしれない。

残念と思いつつ無理はしたくないという気持ちもあって仙台に留まった。仙台に厚く滞在できたので無しではなかったものの、猪突猛進しなかったことが印象に残った。べつに普段からそんなタイプではないので、ただ旅に浮かれていて、しかも浮かれきっていないってだけの話だ。


二軒目の焼き鳥屋ではオールドスクールな人々が飲んでいた。それなりに美味しかったものの、特筆すべき味ではなく、いかにも昔気質っぽい雰囲気でごまかしているように感じられた。お腹いっぱいの状態で入ったのもよくなかったのかもしれない。

よそ者に対して閉鎖的な田舎者丸出しのお婆さんが焼き鳥を焼いていて仙台でなければ田舎風景として処理できたのになまじ仙台だったから辟易した。クレジットカード会社の飲み会の二次会だかに出くわし、週3でジムに通っていそうな活動的なおじさんが励ますような握手をしてくれたりして全体的にげんなりする酒だった。

仙台のイメージがこういうところから染み付いていくと思うとそれなりに罪作りな焼き鳥屋だ。思い出すだに鬱陶しい。若い女の子は愛想が良くて、すこし話しただけで楽しい気持ちになれていたはずなのにそこに言及がないのはちょっと残念だ。


最後に夜の仙台を徘徊した。真っ暗な公園で魯迅先生の銅像にご挨拶される。橋を渡り、花見会場設営を横目に国分町のホテルに戻った。

この夜はこれがいちばん良かった。帰り際に週末開催の花見のイベント設営をしているのを眺めたりして春らしさを一番感じた。

暗くて何がでてくるのかわからない怖さが公園付近にはあり、駅に近づいていく大通りの明るさが心強かった。何を話したのかおぼえていないが、どうせろくでもないことかしょうもないことだろう。たしか安くて普通の味の、ちょっと臭い地下の飲み屋に立ち寄った気がする。ちまきを食ったあとホテルにまっすぐ帰るのが正解だった。


3日目は午前中の日がある状態の仙台を歩いてから駅前で買ったずんだシェイクを片手に乗車。郡山駅と宇都宮駅、それから大宮駅で飯のため途中下車した以外はとくになにもせず、感触としてはあっという間に東京に戻ってきた。東北に行くことだけが決まっていた旅だったので松尾にならって俳句でも作ろうかと思ったが、2日目と3日目にはメモを開くことすらしない体たらくで結局よっつしかできなかった。写真も俳句もとにかく数撮ったり作ったりしてその中からいくつか拾うのがいいと思っているのだが、全部でよっつだったら拾うもなにもない。

体力的にも余力を残し、帰りの電車移動はただの移動という感じだったのは良くなかった。大宮で電車一駅分だけ参道を歩いたのは春らしさがあって良かった。公園では夜桜を楽しむグループがちらほら見受けられた。

大宮駅はこの後二回ほど行った。


北へ行く電車にあたる春の雨

曇り空に指折り数える桜の木

二本松安達松川金谷川

桜散る前へ返らじみちのく路

旅を振り返る肩越しにみえる春

春ときて桜と咲いて朝となる


20220401

日記2

 昨日のこと

Google Cloud Essentialsを取得した。GCPの一番最初のクエストで基本中の基本だと思うのだが、最後のロードバランサーのラボでは何をやっているのかわからないまま手順の支持に従っていて、内容理解と作業の割合が2:8ぐらいにまで傾いた。

夕方から雨予報だったので昼頃に外出し買い物を済ませた。夜はプールで1000メートル泳ぐ。この頃500メートル以上ぶっ続けで泳げるようになってきた。

昨日のことは思い出せているが、昨日の気分が思い出せない。ことを手がかりにして気分に到達しないといけないと思うけど、たまたま今がそういう気分じゃない。これという気分のときにそれを保存する方法を見つけないといけないなとも思う。悠長なことを言っているようだが、そういうようなことは繰り返し思っている覚えがあり、いつか実現に向けて動きだすに違いない。


今日はこれから四ツ谷あたりを花見散歩の予定。

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