20221226

日記56

昨日

彼女の友人の新居で催されるクリスマスパーティにお呼ばれし、光が丘まで出かける。そこで結婚の報告があり、引越し祝い兼クリスマスパーティだと思っていたので予想外の報告に驚いた。こういう半分アウェイの会でも変に遠慮したりせず、のびのび楽しもうというのが最近出した結論だったので、目一杯楽しもうとしていったが、初対面の人と話すべき話題を用意するなどといった基本的な準備さえしていないで、いつものとおり出たとこ勝負で気持ちだけは楽しむつもりで臨んだところ、大体いつもどおりの感じに落ち着いた。穏やかで楽しい会という感じで、個人的にはとくに反省点も見つからない代わりに特筆すべきところもないといった無難なパフォーマンスだった。瞬間思ったことをポロッと言うというのが自分にできる唯一のことなのでそれだけをしていた。具体的には「美味しい」「たのしい」「おもしろい」というポジティブな形容詞を出し惜しみすることなく出すという簡単なタスクをこなした。その場にいてたのしいと思っていたら、大体皆それで満足してくれる。

場に対して自分は何ができるかという考え方に立った書きぶりなのだが、書かれてある内容自体はとくに何ができたというものでもないので、わざわざ自分用にひとつの枠組みを作ってその枠できちんとした働きができませんでしたという報告になっている。そんなことをしていないで何が楽しかったのか何が美味しかったのかを書けと思う。本棚に『独学大全』があったのが印象的だった。生活の中で何かを学ぶ時間を作ろうとしているのがわかりやすくて好ましく感じた。あと、作っておいてくれて振る舞ってくれたロールキャベツが美味しかった。

彼女の友達は何回か会ったことがあったけどいつもどおり和やかだった。その夫ははきはきと喋り、相槌などもしっかりとってくれ、そのリズム感も話し手が話しやすいようなちょうどいいもので、場に盤石な安心感を提供してくれていた。そもそもいろんな料理を作ってくれていて、もてなす側として100点の出来だったと思う。

ここなんかはえらそうに評価するという面白をやりたいのだと思うが半端なコメントなのでえらそうな感じも弱いし全然駄目だ。まあ日記を書いていて調子が悪い日もあるから仕方ないといえば仕方ない。

プレゼント交換のあとケーキ前のタイミングで次の予定に行かなければならない時間になったので、ひとりお先に失礼する。副都心線の快速は地下鉄なのにたくさんの駅を通過するのでいつも乗る千代田線とか銀座線よりもスピード感を感じられて良い。

同い年の大人たちと喋る機会があると彼らの安定ぶりにいつも面食らう。しかも、その安定ぶりにやけに馴染んでいる自分も発見して余計に驚かされる。

演劇の稽古は今年最後だった。あっという間に今年最後の稽古になってしまい、このまますぐ実際に板の上に立つことになるのだと思うとゾッとする。頭が回っていないまま始まるいつもの感じっぽい。一応回ってはいるが必要な回転数に達していないという感じ。

日記の不調の原因は明らかにこの演劇の稽古で、演る側(見られる側)に立つ自分になる過程で、その反動として日記を書くときには必要以上に見る側に立ちたいという気持ちの現われだったんだと思う。

自分のペースだとだいぶ遅いのだということがようやくわかってきたのだが、だからといって急ぐ気にもなれないから、適切に諦めてこれだけは忘れずやるという割り切りが大事かもしれない。ゆっくりなうえ割り切りもあまりしたくないという「マイペースわがまま」が私の性質らしい。

この日はみんなでお父さんになってひとりの女の子に語りかけるシーンを作った。自分の子供に語りかける語彙やらスタンスやら態度、距離感がつかめず、はじめて演じるのが難しいと感じた。それまではできることだけをやらせてくれるというやり方ですすんできていたので、いきなり壁があらわれた感じで、びたーんとぶつかって面食らったのと同時にそれがちょっと楽しくもあった。幼い娘に話しかけようとして普通に関西弁が出た。それまでもべつに関西弁を隠してはいなかったのだけど、人前で関西弁が全開になるのは切羽詰まっているときだから、まあそういうことなんだと思うが、お父さんとして話すときの距離感というものを自分なりに表現しようとして全開の関西弁になったということもほんの少しはあるかもしれない。

あとは長方形の箱を触る動作、マッチ箱からマッチを取り出して擦るという動作をエアで演じるということもおこなった。そこに実際に箱がみえるように、マッチ箱とマッチがみえるように動くというのは難しいんだけど、具現化系の念能力者はこれが得意なんだろうなというようなことを思いながらやってみたりして楽しかった。

三人一組になってひとりをマッチ棒に見立て、残りのふたりでマッチをするという動きを作ったりもした。これはちょっと安全が確保されていないのでは?と思ったので、自分はひとりを持ち上げての動きをやりたくなかった。他の2組は持ち上げてやっていたので「安全に関して不安だ」と大きな声でいうこともできず、中途半端に、自分は非力なので持ち上げる自信がありませんととぽそぽそ言ってお茶を濁した。やるならやる、やらないなら安全じゃないと思うのでやらないと主張する、どちらかはっきりするというのが良いんだろうなと思う。そう思いながら結局日和見をしてしまうのが良くないとは思いつつ、不安を抱えたままやることを選んで危険なことになるよりはましだと思って自分を納得させた。まあ、それが自分の性質なんだと思うし。

変身願望というか何か自分とはべつのものになりたいというのが演じるということの動機として大きいのだが、こういうのに直面すると、やはりそんな簡単に、その場所にいるからという理由だけで変われるということはなく、むしろ自分というものが浮き彫りになるという経験だった。負け惜しみのように自分の性質なんだと思っているようだし。

自分はこういう性格だからとか、自分にはこういう性質があるからとか、ちょっと前まではそういうことを言いたくないと思っていた。自分で自分の性質を見つけるというか、ある性質が自分に当てはまるなと感じることがあればその逆方向に動きたくなったものだったのに、だんだんそれが減ってきて、すくなくとも原則ではなくなった。

今でも意識すると反動的に動いたりすると思うし、ここというときには跳ねっかえるぞというつもりはまだまだあるんだけど、どんと構えるとまでいかないけど一時的にじっとするということを覚えたような気がする。

それに関係あるのか不明だが似たようなところでは、写真を撮られるときとか、動作をくわえるときとかに、1〜2秒止まろう、予備動作としてちょっと止まってからやろうとかいう意識が生まれている。頭の回転が遅く、さらに遅くなっていく代わりに、ストップモーションが適宜挟めるようになったんだと思うと、ペースやリズムはむしろ良くなっている途中という気もする。自分は早く動けるんだという錯覚を手放せるほど老熟してはいないけれど、そういうのが錯覚なんだろう、錯覚の可能性もあるなと、自分自身の内心では低く、客観的には適正に(?)見積もってみることができるようにはなった。

つねに物事の良い側面を見るようにしなさいと父親にアドバイスされた男が自分自身の変化について語るようなことを語っている。


一昨日

スタバで読書。演劇の稽古。帰宅してからNewYork styleのピザを食べる。先週M-1録画により録画できなかったため、再放送を録画しておいた『鎌倉殿の13人』の最終回を見る。大河ドラマというフォーマットを活かした見事な最終回だったと言うしかない。見る側も自然1年を締めくくることになるし、歴史のうねりの中でたくさんの死を描きながら、そのどれもが客体的な死でしかなく、本人の死として物語を閉じることになったというのが大河ドラマという形式を逆手にとって見事だった。途中退場したすべての登場人物は、まさに”途中で”退場したのだったということを主人公が代表して示したといえる。たとえば『デスノート』なども夜神月が絶命するコマでプツッと<完>だったなら、その異様な終わり方によってもっと異なった印象を作品全体にもたらしたはずだと思うが、それを実地で、考えられる限りでもっとも大きなスケールでやってみたのが今回の大河だった。小栗旬と小池栄子は、とくに小栗旬は、今後これ以上の役を演じることはできないだろう。実際、ここで役者人生が終わりだとしても文句はないと思って演じていたように見えた。臨死の演技としてこれ以上のものは思い浮かばない。規模もセッティングも才能も集中力も全部ある。普通はこんなきれいに一列に並ばないものだと思う。2時間の映画ではできないし、配信系のドラマでもできない。まさにNHKの大河でしかできない振り切った作品だった。

『鎌倉殿の13人』は今思い出しても面白い大河ドラマ、面白い結末だった。一年休んで来年の『光る君へ』も毎週見るのが楽しみになるドラマになればいいな。

20221224

日記55

昨日
下高井戸シネマで前回満席のため見逃したカサヴェテスの『ハズバンズ』を見るため、開場の2時間前にチケットを買いに行った。今どきチケット予約のシステムを持っていないのは観客に相応の不便を強いることになるということを劇場側はどう考えているのだろうと思う。整理券とか配っていて、そのためにスタッフの稼働が発生しているので単純に予算云々という話ではないと思うがはたして。
下高井戸にはスタバはおろかチェーンのコーヒーショップすらなく、世田谷区のど真ん中にある片田舎という感じで、人はいるのに駅前の雰囲気や歩いている人たちが若干古臭く、過去にタイムスリップしたかのようなめずらしい感覚を味わえる。全然雰囲気は違うが若干大阪の十三のよう。全然雰囲気はちがうが。
それにしても、なんとか見つけた珈琲館が17時閉店と書いているのには驚いた。入ろうとするも16時前だったのになぜか閉店しますと言われてしまった。仕方がないのでカフェ使いするためにガストに入る。同じ用途で入ったとおぼしき人たちが結構多くて下高井戸のカフェ難民ぶりはなかなかのものだと感心した。
しかしそれより何より驚いたのは、噂では聞いていた猫型配膳ロボットが配備されていたことで、元気に料理を配膳していたことだった。片田舎感という苦杯を嘗めさせられてきた挙げ句の入店だったので、その最新鋭のロボットが突如現れたことに動揺し、まんまとディストピア感を感じさせられてしまった。普段であればそうそうのことでディストピア感なんぞ感じるわたしではないのに。しかし猫型ロボットは面白い動きをするでもなく、ちょっと見たら見慣れてしまった。むしろ面白いのはややたじろぎながら、しかしたじろいでいる様子を見せまいとつとめて冷静かつスムーズに配膳された料理を自身のテーブルに引き取ろうとする客たちのほうで、彼らの判で押したような、マスクの下で苦笑いしているんだろうなという動作にわかると思って共感できたことだった。ドリンクバーとソフトクリームしかたのまなかったわたしの席には男性店員が手ずからソフトクリームを持ってきたので自身でその威力を味わうことはできなかったが、どうせ同じ判で押したような反応しかできなかったろうから、とくに強がりではなく、べつに惜しいとも思わない。会計はセルフでできるマシンが置いてあったのでいつものようにクイックペイで支払った。もし猫型ロボットが配膳してくれていたならば、人とのコミュニケーション抜きでファミレスのサービスを受けられたことになる。そう考えると少し惜しいような気もするが、しかしいずれにせよ遠くない将来その体験はできることだろう。というかガストで食事をしたいと思った日に叶うことだ。
ただ注文用のタブレットが注文後に広告を流しはじめるのが鬱陶しくて、今回の滞在ではそれだけがマイナス点だった。
映画は前回同様やはり満員で、10分前に開場しての自由席。最後尾のさらにうしろに補助席もいくつかできていた。わたしにとってはかなり面白い映画だったけど、こんなに人が押し寄せるような映画かと言われると疑問だ。たぶん上映回数が3回しかないから行列ができているだけだろう。
主人公の男三人組が女性に対してかなりひどい態度をとるシーンが延々続いたりもするので、人によってはそこで気分を害したまま映画に復帰できないかもしれない。時代が下ったときの表現についてはそういうものとして受け止めることが比較的容易にできて確実に鈍感なほうであるわたしでさえちょっと厳しいものを感じた。
大目にみるということは難しいかもしれないが、一旦ひどい奴らだと見下げ果ててしまえば、そこから先は笑ってみれる回路がつながることもあるかもしれない。一番ひどいときでも露悪的なわざとらしさは感じなかったが、こういう感じ方というのはひとによるし、露悪的でなく自然な分、よりたちが悪いということはいえるので、いずれにせよアウトはアウトだ。しかもぎりぎりとかではなく検証が必要ないほど余裕でアウトと思う。
わたしは時代のせいにできるような明らかな瑕疵はそれが明らかであればあるだけそれを瑕疵だと認識したあと無視しやすいというあまり公言するべきではない能力をもっているので、映画のそれ以外の部分に集中することができた。というよりもそのひどいシーンがあらわれるより前のシーン、地下鉄の会話と道端でのエアバスケ、それから体育館を借りてのバスケのシーンでだいぶ魂のほうを持っていかれたので、きびしいシーンをきびしく感じながらも彼らから離脱しようという気がしなかった。タイトルコールの際にみられた文字、A comedy about life, death and freedomによってある一面ではかなり抽象度の高いものの見方をするようになったからというのもある。2022年現在を生きるわたしにとっては、70年代のコメディもギリシャ喜劇も今から切断されたかのような地点として受容する対象になるということだ。
1秒たりとも退屈したくないというのは映画に対して求めるところではないので、いくら退屈なシーンがあってもあまり気にならないというのも良い方向に作用した。むしろ退屈と感じられるシーンがあるぐらいのほうが、作品に対して前のめりになれるという点で好みとするぐらいである。
件のきびしいシーンというのは酒屋で車座になって順番に歌を歌う場面だ。しかし、それが始まるまえに、この映画で一番光るシーンがある。それぞれのグラスと、それだけではなくピッチャーになみなみと注がれているビールの金色がとにかく輝いてみえるのだ。あのテーブルには生きていることの輝きが充溢している。最高である一瞬は明らかにそこにあって、しかもあっという間に正反対の最悪へと突入していく。一瞬がほんの一瞬であるだけに直前の輝きは幻のように感じられ、できるかぎりそれを引き延ばそうとする無益であるばかりか逆効果でしかない愚かな行為には歯止めが効かない。そればかりか男たちは3人集まって悪ノリの相乗効果を最大限突き詰めて、まるで競い合うかのように、トイレへと真っ逆さまに落ちていくようだ。彼ら本人たちだけが本人たちにだけわかるチキンレースを人を巻き込んで開催しているのだから、彼ら以外にはたまったものではない。
そして、このシーン全体で明らかになるのは、やむにやまれぬ狂騒の最悪な部分が最高の部分であるところの輝ける一瞬とつながっているということである。
さらにいえば、輝ける一瞬というのは何によってもたらされたものであるのかということにもなってくる。そしてそうであるならばもちろん、さらにその前からもつながっているということであって、ようするに彼らは、最悪と最高を行ったり来たりしながら道行く人の迷惑をかえりみることなく肩にぶつかったり悪態をついたり、ひどいときにはしなだれかかったりしながら進んでいくということだ。そしてひとり欠け、ふたり欠けというふうに、だんだんひとりぼっちになっていく過程をだらだらと進んでいくしかないのだ。明らかにピークを過ぎた見知らぬ人の飲み会に居残る男のように、直接的にお前なんて嫌いだと喚かれながらもほかにどこに行く宛もないあの男のように、遠くない将来に待つあんなふうな孤独にむかっていくことともつながっている。だからこそわれわれはあの男の歌が一番だと思ったりもするのだし、あんなやつは嫌いだと面と向かって悪しざまに罵りたくもなるのだ。
そのように考えると、つまり大いに悲観すべき結果のほうから作中の現在を振り返ってみると、142分ある作品全編を通してすべての時間が輝かしいものであると思えてくる。そして実際にそうなのだ。一番ろくでもないハリーでさえ最低の目に遭っているわけでは全然ない。ハリーにはガスがいる。しかもそれだけではなくアーチーがいる。彼らがいっしょにいるのを見ていると、何をさておいてもそれだけで、ここで起こっていることは、理解に苦しむようなよくわからないことがあっても、基本的にはなにか素敵なことなんだと思わせられる。
映画を見終わってから世田谷線で山下まで。招き猫の車両に乗ることができた。デニーズに行こうとするも店内入り口にゲロが落ちていたせいで入店できず。掃除させられる店員が気の毒だった。デニーズでご飯を食べる食欲がゼロになったのでべつの洋食屋に入る。ナポリタンは量が多くてよかった。デミソースのメンチカツが揚げハンバーグという感じでうまかった。
家に帰って録画していたかりそめ天国と100分で名著の中井久夫回を見る。寝不足にならないようにエルピスは見ないで寝る。

20221223

日記54

昨日
冨樫義博展にいってきた。漫画家の展に行くのは利口なことではないと思うから自分は行かないようにしようと思ってきたのだが、漫画家の展に一度も行かないままそう言うのも、ないとは思うがこっちが間違っているかもしれないと思うから一度だけ実際に行ってみて確認しようということにして自分のスタンスを崩して漫画家展に行ってみた。
行ってみて思ったのは富樫はやっぱり特別だということで、ジョジョの岸辺露伴回で見た生原稿の威力というものがたんなるフィクションではなく本当にあるのだということを知った。
とはいえ展示自体はかなり制限が多く、これは客層(というか客量)を考えると仕方ないのかもしれないがところどころ設置されている逆流禁止の看板と再入場禁止には閉口した。やはり漫画家展は普通の美術展に比べるといちいち足を運ぶようなものではないというのが結論になった。
それにしても原稿の威力はすごい。展示だけあってそれが描かれたものであるということにきっちりライトがあたっているので、よくもまあこんなページを作ったなという慄きがうまれる。個人的には、展示最後の原稿が半月ほどまえに全巻読み直してそのなかで一番笑い、あらためて好きになったページのものだったこともよかった。「コムギ……?」のウェルフィン。
とにかく見て思ったのは、冨樫義博は抜群に絵がうまいということで、それをふまえて先ほど出た結論に補足すると、抜群に絵がうまい漫画家の展示以外は見に行く必要がないということになる。冨樫義博展は見に行くべきとは言わないまでも見に行くことを勧めたい。表現のバリエーションもとくに多い作家なので見ごたえがあった。
行きは乃木坂まで電車でヒルズまで徒歩。帰りはバスで渋谷まで。渋谷のロフトでプレゼント交換用のプレゼントを物色して帰った。コートを着て行ったのだけど途中歩いていると暑くなってコートを脱ぎたくなるぐらいの天気だった。

20221221

日記53

ここ一週間ぐらいのあいだにやったことを列挙する。

・寝台列車に乗って関西へ行く
はじめて寝台列車に乗る。青春18切符で乗車券代わりになるという誤解のため、新幹線よりも高い料金をはらうことになって一時テンション下がるが、いつか乗ってみたいと思っていた寝台列車に乗れたからよかったと考え直し事なきを得る。早朝に姫路で降りて、新快速で大阪まで戻り、そのまま奈良まで帰る。無駄に青春18切符を使ったが、大阪までの車内できれいな日の出を見られた。たしか須磨あたりで太陽が見えたと思う。源氏物語で光君が飛ばされたのが須磨だったが、大阪まででも、しかも電車でもなかなかの遠さだったからわりと心細かっただろうなとちょっと思ったりした。
寝台列車はフラット席で毛布がついていて、浪漫的な気分は夜行バス以上だが、結構振動が強く、慣れるまでに時間がかかり寝付けなかった。やっと慣れてうとうとしかけた頃に姫路に到着した。

・フロントというカフェでお茶をする
奈良に到着してから、元ビブレがあった建物の一階でモーニング。昔書いた小説がカバンに入っていたので読んでみたら面白かった。書いてから2年経つが作者の言いたいことがわかった。お昼になったので知らないラーメン屋に入ってみようとするとちょっと待たされて、そのあいだに後ろに行列ができた。自家製麺というのが売りで950円もするラーメンだったわりに普通でとくに感動しなかった。器にはこだわっているようだった。
自分がもっと自作の小説を読めるように書いていかないといけない。
友人がちょうど仕事休みだということでドライブがてら「フロント」というおしゃれな田舎カフェに行く。ティラミスが推しだということでビールといっしょに注文する。こっちは感動するほどおいしかった。店内の広い窓から見える景色もよかった。

・東大寺の三月堂を拝観する
両親、祖母といっしょにバスで東大寺までいって三月堂の特別拝観を見る。秘仏・執金剛神像が見られる特別な日だったらしい。秘仏は小さいものと相場が決まっている。秘仏ではない方の四天王像が大きく迫力があって見ものだった。5分間だけと時間を切って拝観する仕組みが作られていて、そのせいで寒い中並ばせることになって高齢の祖母に申し訳なかった。それにしてもひとりあたり600円も拝観料を取るのには驚いた。べつのお堂でも特別拝観をやっていてそれも個別でお金を取るというのでボロいなとちょっと思ったが、スタッフを充実させていたので仕方ないのかもしれない。もっと工夫の余地はありそうだけどまあ奈良だからしょうがない。
こういうのも思い出になるのでやっぱり行かないより行くほうが良い。

・奈良駅前のバーでニューヨークというカクテルを飲む
マンハッタンとニューヨークは全然ちがうカクテルらしい。いい雰囲気と内装の店だったが、常連っぽい下品な高齢者の客がいて田舎を感じた。奈良は都会と言い張ってきたが、帰るたびそのイメージを維持するのが難しくなる。奈良は盛りを過ぎている。昔はジョーシンもダイエーも長崎屋もそごうもビブレもヤマダ電機も映画館もあったがすべて潰れてしまった。地方あるあるなのかもしれないが、衰退の傾斜が予想よりも急で、そのぶん寂しくなる。ただ小規模の商店には入れ替わりがそれなりにあって、しかも目を引くようなのが出来ていたりもするので、そういうところに希望を見るしかない。
べつに無理して希望など見ないでもいい。都会にも田舎者はいるし、そういう残念な場面に出くわしても気にしないことが重要だ。

・源氏物語を読みながら鈍行で東京へ戻る
寝台列車に乗った頃には帰るまでには源氏物語の中巻を読み終えたいと思っていたが読み終わらず。年明けからたくさんの暇があるという時期が終わるので最後の鈍行列車移動だと思ってのぞんだ。今回は京都・米原で乗り換えがうまくいかないという今までにないパターンだった。あと毎回思うことだが静岡はむだに長い。
たしかこの読書はあまりはかが行かず居眠りの時間が多かったと記憶している。格好ばっかつけてないでそういうことを書け。

・下高井戸シネマで映画を見ようとするも満席で入れず
19時45分からの回を見たいがために早起きして鈍行列車移動をしたのにもかかわらず満席だったので膝から崩れ落ちた。予約システムぐらい作ってくれ。奈良じゃないんだから。
うまく事が運ばないことがあると結構本気になって腹を立てることがある。中年のわるいところだがあまり出さないようにしたい。

・豪徳寺でフランス田舎料理を食べる
腹の虫がおさまらないと思ったけど、お腹に手を当てて考えてみたところ、たんに腹が鳴っているだけだと気づいたので世田谷線で山下まで引き返し、大量チーズのラザニアがうまいお店でご飯を食べようと思ってテーブルにつくも、売り切れだと告げられる。代替として注文した品もおいしかったけど、おいしかったけど、食べたいのはどうしてもラザニアだった。この日のみずがめ座は12位だったにちがいない。
このときの彼女は映画も見そびれ、ラザニアも食べそびれたにも関わらず文句も言わず上機嫌で食事に付き合ってくれてありがたかった。

・演劇の稽古でオンタイムで見れなかったM-1グランプリを追っかけ再生で見る
週に2回の稽古もそれなりの回数をこなしている。ワークショップをやってくれる演出の人がうまく慣れられるように心遣いをしてくれたおかげで早々に慣れてやれているのだが、慣れてしまうのも良し悪しで、自分の課題は自分で考えないと、ただ回数こなしているだけですぐ本番になって終わってしまうから気をつけないといけないなと思う。思うだけで具体的にどう気をつければいいのか自分だけでは見えないからどうしようかと悩みつつある。とりあえず舞台の上でも自分でいることを心がけようとはするけど、それはかなり難しいことなのではないか。だって客が入ってくるんだから。PKの練習はできてもPK戦の練習はできないということを思ったり。
M-1グランプリは面白かった。ここ2年にあった異常な熱はなかったけど。敗者復活戦はお客さんも演者も寒そうであまり良くなかった。場所がよくないんだと思う。
M-1グランプリをリアルタイムで見ていないことに驚いた。記憶の中ではリアルタイムで見ていたが、あれは追っかけ再生だったのか。

・ワールドカップの決勝戦を見る
メッシが伝説になった。エムバペは決勝でハットトリックをかましたうえで準優勝という例のない選手になった。そういう悲しい化け物を作ったという意味でもメッシはすごい。
漫画やん、を地で行かれるとそれ以上はないわけで、すごいなと圧倒されつつちょっとだけ鼻が白くなる。

・ジョジョリオンを読む
いつの間にか完結していたということを知り読み始める。その省略は省略し過ぎで成立していないのではと思わせるほど大胆な省略が見られて、しかもそれが全然苦にならないので、一種の伝統芸能感があると思った。
一年しか経っていないのにどんなふうに終わったのか全然覚えていない。やばい。記憶力もやばい。

・東京に遊びにきた友人と有楽町で飲む
話したいことを話していると本当に一瞬だった。たまたまエルピスを見ているといっていた。前田がタクシー降りるシーンがつき刺さったらしい。そのときには気がつかなかったが飲みすぎていて、翌日二日酔いで胃がきつかった。太田胃散をはじめて飲んでその効き目に驚いた。
もっとめちゃくちゃな飲み方をしたかった。もっと話すべきことがあった。遠慮したらあかん。


もっと日記を書きたいのに、Macの前にちゃんと座る日が少なすぎる。もっとスタバに行かなければ。
まあこのときは演劇の稽古をやっていたからね。仕方ないね。
あと久しぶりに関西にもどって思ったことだが、
東京のスタバは関西のドトール、
東京のタリーズは関西のベローチェぐらいの感じだと思う。客層というか居心地というか。

20221213

映画ベストテン【2022年】

今年もあっという間に映画ベストテンの時期になった。今年は例年以上にのんびりできた一年だったのだが、若干のんびりしすぎの気味があり、映画も本も目標本数・冊数に未達で終わった。とくに本が壊滅的で、具体的な数をあげるのが嫌になる。トピックだけをいくつか書くと、

2021年の下期に発見した永井均を読み進めた

『失われた時を求めて』を読み始めた

『源氏物語』を読み始めた

という感じになる。いつかは着手しなければならない名作二本を読み始めることでバランスをとろうとしているのは明白だが、さすが古典名作だけあって、量はまったく読めていないのにもかかわらずリストにするとそれなりにみえる。『失われた時を求めて』についてはたぶん来年中に読み終わることはないだろうから引き続きのんびり読み進めていきたい。今年の新年時期にとうとうトマス・ピンチョンの全著作を読み終えたことで、「長い小説が良い、長ければ長いほど良い」という価値観が一時的に発生し、それに後押しされるかたちでもっとも長大で有名な同作に挑戦する気運が高まった。のんびりできる時期だったというのも大きい。

上記のほか初読の作者は以下

蒲松齢(聊斎志異)

濱口竜介(カメラの前で演じること)

アナトール・フランス(少年少女)

ゲルハルト・リヒター(写真論・絵画論)

カルロ・ロヴェッリ(時間は存在しない)

エイモス・チュツオーラ(やし酒飲み)

トーマス・ベルンハルト(破滅者)

セス・フリード(大いなる不満)

アンソニー・ドーア(メモリーウォール)

数冊続けて読んだのはカルロロヴェッリとゲルハルトリヒター、トーマスベルンハルトぐらいのもので、あとは一冊だけでやめてしまった。いつか二冊目を読むものもあるだろうがとりあえず次、と。円城塔は安定で追いかけている。ゴジラSPもそうだが、ネット媒体で出している小品集が面白かった。


読んだ本の話はこれくらいにして本題。映画のベストテンについて。

これまたのんびりしてあまり熱心に映画館に行っていない。が、勘所を押さえて絶対必要な作品は外していない。情報社会の荒波のなかでしかるべく情報制限をかけたり、どうやってもそれが不可能そうな場合には公開初日を狙うなど、いよいよ作品選定とタイミング判断に習熟してきた。

映画のベストテンは見た順で、


偶然と想像

スパイダーマンノーウェイホーム(初日)

シンウルトラマン(初日)

ベイビーブローカー(初週)

リコリスピザ(初日)

NOPE

RRR

グリーンナイト(初週)

THE FIRST SLAMDUNK(初日)


上記9作品になった。おもな選外はバットマン、死刑にいたる病、ドクターストレンジ、犬王(初日)、FLEE、ザ・ロストシティ、ワンピースRED、ブレットトレイン(初日)、ザリガニの鳴くところ。

どれも退屈な映画ではなかったけれど、ベストテンに入るにはやや見劣りする。あとはホワイトノイズを見に行くつもりなので、それでベストテンがぎりぎり成立するかどうか。

あと、こうやって書き出すと、いくらなんでも初日に見に行けている作品が多すぎる。慣れとかではなくて、たんに暇があったから気になっている作品をすぐ見に行けただけじゃないかと思われる。

ベストテンの順位とそれぞれのひとこと感想を書く。


***


1位 リコリスピザ

映画として一番楽しめたという基準で、堂々の1位に選出された。上位になればなるほど、あとは好みの差ということになりがちだが、まんまそのとおりで、私にとってどタイプの映画だというのに尽きる。


2位 RRR

文句なく面白い。好きな映画かどうかと自問してみると好きとはならないのだが、威力が高すぎて、好悪の感情をぶっ飛ばしながら2位にまで上り詰めた。私にとって似たような位置にあるのがマッドマックスだったのだが、ちょっと馬力がちがうという印象。前輪駆動と4WDとの差と言ってもいいかもしれない。車のことはよくわからんのだけど。あとIMAXシアターに感謝。


3位 シンウルトラマン

私にとってウルトラマンというのはバルタン星人と切っても切り離せない作品だったのだが、どこか懐かしくそれ以上に新しい、最高のわくわく体験をさせてもらいながらバルタン星人のバの字も思い出さなかったすごい作品。何度も見たいと思うような作品ではないが、一度見たら忘れられないし、それで十分だと思わせられる。遊園地にある目玉ジェットコースターのような存在感であり、その期待を裏切られなかった。


4位 NOPE

ジャンル横断的でかつポピュラー映画でもあるという挑戦的な映画でかなり好きだった。IMAXに感謝。


5位 スパイダーマンノーウェイホーム

いわゆるファンムービーなんだけど、スパイダーマンスパイダーバース以降スパイダーマンのファンになっていたため存分に楽しめた。


6位 ベイビーブローカー

最近とくに、映画館でみる映画に迫力とか感覚面での充実を求める傾向があったので、こういう丹念な人物造形を土台につくられた丁寧な映画をじっくり見ることの価値が自分のなかで上がっている。くわえて、白黒つけないこと、簡単に白黒つけられないことを、しっかり映画としてみせていくのはそれだけで価値がある。作家性をもってそれを維持しながらも、暴力シーンに挑戦しているところなども評価するべきポイントだと思う。


7位 THE FIRST SLAMDUNK

公開前に情報を出さないやり方に乗っかって、何も知らないまま初日に見に行ったことでテンションの上がり幅が最高になった。対戦相手が映画内で公開されてから、くるぞ花道のアリウープとどんどん心拍数があがっていって、それが最高潮に達したときにかました最初の得点はやはり最高で、その余韻にひたりながら深津の得点を見るのがまた良かった。


偶然と想像(順位つけられず)

濱口竜介。この作品をはじめとして、その後特集上映で見たどの作品もこれまで見たことないほど良く、もう映画は当分見ないでもいいと思った。これ含め特集上映の作品全部が今回の1位のうえにあると言ってもいい。結局、映画に映っていて一番見てしまうのは「人」なのだった。怪獣とか絶景とかクライムシーンとか見て楽しいものはいろいろあるけど、見て一番楽しめるのはやっぱり人。私自身の好みとしても元々わかっていたことだけどはっきり再認識した。絵画は肖像画が一番好きだし、映画はポートレート映画が一番好き。群像劇もきれいな模様としてというよりは複雑なポートレートとして見たい。


グリーンナイト(順位つけられず)

これも順位がつかない。偶然と想像は面白いといえるけど、グリーンナイトは面白いのかどうかもよくわからない。絵本を読んでもらった小さな子どもがそれを面白いと感じられないのに似ているかも。色の印象のように感覚でしかないものを直接知覚させられた感じがある。しかも刻み込まれた感じで、忘れるまでずっとあるという気がする。忘れても忘れないのではないかという気もしていてちょっと気味がわるい。

何が良いことにつながっていて何が悪いことに結びついているのかわからなくなる場所で、迷子になってさまよう不安を主観で体験させる映画だった。道標も地図もある、しかしそれが何なのだと言われると、道標も地図もないときには存在しないべつの不安が萌すことになるが、その不安。

不安だけでなくどんなことにでも言えることだが、知っているのと感じるのとはべつのことだ。この映画は知らせるほうではなく感じさせるほうに特化している。


***


映画の感想を書くということがあまりできていない一年だったが、ベストテンをきっかけに考えてみて、まあ仕方なかったのかなと思えるようになった。感覚優位で楽しんでいるという傾向はどんどん増えるし、見てすぐの段階であれはこういう感覚だったとそれらしいかたちにまとめたくない。放っておくと次第に忘れていくことになるが、忘れるか忘れないかぐらいのときに思い出しながら受けた印象を拾っていくのがいちばん良いやり方のように思える。

だから恒例行事化して一旦スルーしたものを振り返る時間を持つようにするのはやっぱり良いことだ。

20221207

2022年ワールドカップ日本代表チームのこと

2022年のワールドカップ日本チームを見て思ったのは、良い目が出たということだった。
対戦相手にも恵まれていた。勝つ確率を上げるのは難しい強い相手だったけれど、決して勝てない相手というわけでもなく、結果、良い目が出て、あきらかに格上のチームに勝つことができた。
格上にも伍するだけの実力がついた、ではない。
クロアチアに勝ってベスト8に進み、圧倒的強者のブラジルと戦えるという経験ができなかったことが悔やまれる。チーム目標として掲げ「ベスト8に進出したい」と言っているが、その価値については正直よくわからない。べつのグループステージを勝ち上がってベスト16に進むよりも、ドイツを蹴落としてベスト16に進むほうが難易度が高く、それらが同じ結果だとは思わない。前大会より一歩前進したいという目標としてベスト8を捉えているとすればそれは達成されたと考えていいはずだ。
対戦相手に恵まれていたというのは、格上だが戦える相手が2チームも同じグループステージに入っていたことだ。そしてその格上がブラジルではなかったことだ。勝てないと思っていたドイツやスペインに勝ったあとでも、やっぱりブラジルに勝つことは全然想像できない。ブラジルはさらにもうひとつ格が違うと感じる。ドイツやスペインがブラジルに勝てないとは思わないが、それでもブラジルが勝つというイメージが先行する。ドイツがブラジルをけちょんけちょんに倒した過去を踏まえてみてもそのイメージが崩れないのだからちょっとすごい。あくまでイメージの話なのだけど、ここでいうイメージの話は、イメージの話だけで終わるようなものでもない。そのイメージを作り上げているひとつひとつのプレーがあり、そのプレーをみせる選手がいて、その選手たちが集まってチームになっているのだから。あれだけ高いレベルでのイメージの共有というところへ行くまでにはどれだけ距離があるのかちょっと計り知れないぐらいだ。
本当を言うと、実現可能かどうかというのは置いておいて言うと、目指すべきなのはブラジルだと思う。ノックアウト方式のトーナメントで、貴重な一点を奪われながらも、サッカーのプレーとして魅了されるようなゴールに感嘆するような体験ができれば良かったのにと思う。一切皮肉ではなく韓国が羨ましい。
今回の日本チームが見せた、耐える時間を耐えて、攻める時間に一気に攻めるというのは、結果的にも正しいし、エンターテインメント性も十二分にあった。二度の格上相手への逆転劇には、他にはちょっと記憶にないぐらい興奮した。ジャイアントキリングと言っていいと思う。
でも、もし良い目が出ずにそのまま敗退していたらと思うと、結構な博打のようにも感じてしまう。好き放題にやられる前半に失点しないこと、後半攻勢をかける時間にしっかり得点し逆転すること、そのハードルは、こうやって実際に飛び越えられたあとでも、また飛ぶのにはちょっと高すぎる。
今回の日本代表が過去最高の代表チームだというのは結果が表していることだと思うが、以前の代表チームにはきれいなパスワークで自分たちのサッカーを表現しようという野心があった。
2022年時点では今回のやり方がとてもうまく行ったと思うが、このやり方では限界がある。一生懸命とか、勝利を目指して、ということだけでは絶対に辿り着くことのできない先がある。たかがサッカーだという視点をもって遊び心を発揮しないといけないはずなのに、やたらと真剣勝負を煽り立てるのは可能性を閉ざしてしまうことだ。あえてそこに目をつぶって今最高のパフォーマンスを発揮しようとした姿勢にはリスペクトを抱きつつ、シリアスへの傾斜がきついメンタルでは脆さが出る場面もあるということは、大事な教訓であり反省すべき点だ。思いの強さが裏目に出るような場面では、思い切って思いの強さをないものとしなければならない。そんなの無理かもしれないけど、チームの雰囲気の持って行き方などである程度は調整できるかもしれない。
4年後というよりはこれからの4年が大切なので、たとえ最初は結果が出ずとも外国人監督を招聘するべきだ。うまく行かずともバックアッパーとして森保さんが控えていてくれるとすれば安心だし、少なくとも2年間はべつの監督を起用して挑戦すべきだと思う。

THE FIRST SLAM DUNKを見た

漫画と映画のちがいを感じる体験をしてきた。すなわち「THE FIRST SLAM DUNK」を見てきた。ほとんど情報解禁せずに上映するスタイルに敬意を表するつもりもあって、より現実的にはあらゆるネタバレを回避したいがために、公開初日に映画館に足を運んだ。

見終わってそれはもう大満足だったのだが、それでも忘れてはいけないなと思うのは、見に行く前に、『スラムダンク』を初日に見に行かないという選択肢はないなと思う一方で、クオリティが残念なものだったらどうしようとも思ったことと、たとえそうなったとしても大きく期待して盛大に裏切られるというがっかりイリュージョン的な展開でもまあ楽しめるからと、しっかり予防線を張っていたことだ。ようするに情報をあまり出さないのは自信のなさの表れなのではないかという邪推が働いたのだった。一応つけ加えておくと邪推になったのは作品のクオリティが完全に近いものだったからで、邪推をしてしまい面目次第もないとは思うもののそれをはるかに超える、邪推で済んで本当に良かったという気持ちがある。

いちばん最初のシーンでは正直やばいかもと焦ったのだが、その焦りから安堵のフェーズに入り(しかもこれ以上なく格好良く)、そこから対戦相手が登場することで、安堵から一気に興奮の坩堝(るつぼ)に引き込まれた。この感情の揺さぶられ方は、公開初日に映画館に行かなければ得られないものだったので、初日に映画館に行くという選択肢しかないという感覚は、余計な雑念が生じていたという事情をふくめても唯一の正解だったのだ。

漫画で見てきた、何度も読んできた試合。その最高の試合をべつの視点から見せるというのが「THE FIRST SLAM DUNK」の根本義だったように思う。
べつの視点というのはPGの視点である。プレーヤーでありながら試合を俯瞰するポジションの視点から、つまり宮城リョータの主観で、対戦相手の脅威や、息を呑むような驚異的プレーを見られるということでもある。味方の2番(SG)も3番(F)も4番(PF)も5番(C)もとにかく心強い。彼らのプレーが想像の上をいく驚きをもっとも間近で感じているのが司令塔の1番(PG)である。その新しい視点から見られる景色で、漫画でも感じていた慄くようなプレーの数々が、アニメーションになったこともあって新鮮なものに生まれ変わっている。とくに3番と4番がみせる試合中の成長は、とりわけ4番の奇想天外な活躍場面は、彼の主人公感を隠しきれておらずヒーロー全開で、「THE FIRST SLAM DUNK」では主人公の位置を譲っているのにもかかわらず、いやそれだからこそ、彼が主人公であるということの必然を感じさせた。
アニメならではの演出の素晴らしさとして、つよいセリフをさりげなく使っているというところが挙げられる。たとえばあの試合中で一番好きなセリフでもある「ゴリ! まだいけるよな!!」というセリフがさりげなく使われていて、そのさりげない置き方にかなりグッときてしまった。そういう何気ない小さな声かけによってかろうじて繋がっていく道筋がたしかにあって、それは何気ないのと同時につよい影響を人に与える言葉だったりする。だからこそ、何気なさを持ったまま、しかしかぎりなく思いのこもった言葉でもあるという、今回の映画特有の演出になっていたと思う。
一方で、試合最後の得点が入るシーンについては、漫画を超えることは難しかった。
映画を見ながら、どのシーンの出来も言うことないレベルにあるのをつぎつぎと認めるうちに、どうしても「最後のあのシーン」に対する期待が高まっていくのを抑えることができなかった。極集中状態の静音という演出は、それしかないというものではあったが、あれは桜木と流川の世界であって宮城の見ている世界ではない。
たしかに、あの試合のあの場面は、否応なくコートの全員が同じ状態に引き込まれるのかもしれないとも思うのだが、一方で、宮城のその後の活躍を思えば、そこから抜けられるほどのフテこさがあるのではないかとも想像させられる。ひとつの方向に鋭く無時間的にすすんでいく過程を描きながら、それと同時に、色々なものが見えて聞こえている視点を描くことは、映画表現ではおそらく不可能だから、やはりあの場面はあれしかないというシーンだったと言えそうだ。
そもそも、無時間的な時間を描くというのは映画に可能なことではないのかもしれない。
しかし、漫画にはそれが可能であることをスラムダンク読者は知っている。私がはじめてスラムダンクを読んだのは同世代のなかではかなり遅く、高校生の頃だったが、はじめて読んだときの衝撃は今でも忘れがたい。漫画なので次のコマを読むためにページをめくらなければならないのだが、ページをめくるという感覚は完全に消失していた。そこにはスローでもなくリアルタイムでもない時間の流れが確実に存在していた。それは無時間的な時間経過、純主観的な時間の流れともいえるもので、決められたフレームレートがある映画に可能な時間感覚ではない。スラムダンクという漫画が何より驚異的なのは、無時間的な時間経過という矛盾を読者の世界に存在させたことだ。
それに対して、映画「THE FIRST SLAM DUNK」はべつの見え方をする素晴らしいシーンの数々を作り上げていったが、バスケットボールの試合を見せるという意気込みをもつ時点で、最後には一点差で負けるよう決定づけられた試合をするようなものだった。バスケの試合ではどのシュートも決まれば2点(か3点)で、深津という選手が言うように「同じ2点」だ。しかし、最後の2点や試合の流れを決定づける2点だけは、同じ2点でありながら、それと同時に、ほかとはちがう「最高の2点」ともなる。試合がそれ自体でひとつの物語である以上、その重力に引き込まれるようなかたちでどうしてもそうなる。そして、その2点を見るためにバスケットボールの試合を見ている、引いてはバスケットボールの試合があると言いきってしまってもいい。クライマックスが最後の数秒に凝縮されていく以上、最後のワンプレーがすべてを決定づける。だから、ことスラムダンクにおいて漫画に対する映画の敗北は必然なのだが、それでも勝負に勝とうとして最後まで全力で、ただのいちシーンも緩むことなく描ききったのは驚嘆すべきことだ
あと、漫画よりも映画演出のほうが俯瞰してバスケの試合として見ることがしやすくなったので思うのだが、対戦相手の監督はバスケの監督としてはかなりレベルが低い。結果論でしかないとはいえ、ろくに得点しない松本より、ディフェンスが得意な一ノ倉を使うべきだった。
そうは言っても、あの土壇場で(後半からの出場で明らかにマッチアップの相手よりはるかに余力を残す)松本が、ノリにノッている3Pシューターのマークを外すとは思わないだろうから、監督だけを責めるのは酷かもしれない。その場合、責を負うべきなのは背番号6のガード松本稔である。それでも、メンバーを決めるのは監督なのだから結局、もっとも責を負うべきなのは監督の堂本五郎であることに変わりはない。「負けたことがあるというのがいつか大きな財産になる」じゃねえよと、誰かキレても良さそうなものだ。
ただそれにしても、勝つことでより強くなるような勝ち方を選ぼうとしたということで、そうやって最強の座を作り上げていったチームでもあるのだろうから、あの一試合だけを見て監督のレベルが低いというのはやや軽薄にすぎるかもしれない。
ただ、少なくともあの試合にかぎって言えばベンチワークはかなりお粗末だった。ベンチから対処しないで選手に任せるというように堂々と構えるでもなく、ちょこちょこ動いておいてあの結果なのだからそこに関してはあきらかに監督の失策である。
その流れで考えると、試合後に選手たちに声をかける必要があったとはいえ「負けたことがあるというのがいつか大きな財産になる」というのはあまりにもひどい。ひどいとは知りながらそれでも何か言わなければならないと思って仕方なく言ったことなのだろうから、批難しようとは思わない。しかし名言だとは決して思わない。挑戦を続ける以上負けは必然だからだ。その機会を与えるというニュアンスが混じっているように聞こえてしまうし、もしそのニュアンスが入っているのだとすれば烏滸がましい(おこがましい)にもほどがある。かつらむきと同様、思い切って削ってもいいシーンだと思った。ラストに繋がりがあるといってもやっぱり宮城視点からは関係ないわけだし。

20221124

日記52

『源氏物語』をちょくちょく読み進めていて、すでに中巻に差し掛かっている。今日は「篝火」を読む。娘ほどに若い玉鬘への光君のアプローチは完全にキモがられていて取り付く島もない状態だったのだが、強がりなのか何なのか、ひょっとすると余裕しゃくしゃくということをアピールしたいのか、光君は玉鬘に惹かれる若い男たちの手紙を勝手に見たりして、玉鬘に「ちゃんと返事書いたりや」などと助言している。こんなおじさんは嫌だという大喜利題を地で行っているようにしか見えないが、そこはまあ絶世の美男ということで免罪されるようである。いい加減そろそろわりと難しくなってきている、というかさすがにもう難しいようだが、まずは失点して徐々に挽回するといういつものパターンに入っているようにもみえて空恐ろしい。
なぜかここには書いていないが「ちゃんと返事書いたりや」ということを言ってしまうということについてすごく気持ちがわかるところがある。単純な利害を越えて良し悪しをアドバイスしたいという感情には身に覚えがある。もちろんそのことで遠回しに利益を得ようとしてのことだ。婉曲迂回ルート的にさもしい。俯瞰したときに浮かび上がる線を見るとそう思う。

『失われた時を求めて』の4巻を読み終える。3巻と4巻が「花咲く乙女たちのかげに」という副題なのだが、それにふさわしい展開が4巻の後半になってようやく出てきた。ずっと蕾状態が続き、ある朝突然ぱっと花開くように鮮やかな印象を残した。語り手の「わたし」は、自己言及するときに自分のことを守ろうとして煙に巻こうともせず、かといって必要以上に露悪的にもならず、正直な語りをずっと続けているので、恋愛に関する洞察部分がとくに面白い。率直で開け広げだから一歩間違うとシニカルな態度とも捉えられかねないが、ここまでのところは過去の燃え盛った恋愛に対する冷笑的なまなざしは一切ないように思える。気恥ずかしさから反省の目を厳しく向けて、あのときの行動は駄目だったと安易に総括したりしないところに真摯な姿勢を感じさせる。何に対して真摯かといえば、対象たる過去と、見る主体たる現在に、ということになるかと思う。ありのままを写し取ろうとする写生画家のスタンスに近い。みっともなさに耐えることができるのは、今を起点にしたとき、対象がそれだけ遠いところにあるからだろうか。それにしても「思い出す」ということをすると遠いままではいられず、安心な距離を保てないはずだが、これだけ活写しておいてあまり動じていないようにみえるのはなぜなのかというひとつの宙吊り事項があらわれた。この先に、達観というか見切りというか腹の据わり方というか、その原因が語られることになるのかと思うと先が気になる。
『失われた時を求めて』は一年後のいま思い返してみても面白かった。途中で読まなくなった理由は自分で小説を書き始めたからだが、書き始めた小説はまだ完成していない。その目処も立たないし、五合目なのか六合目なのかどこまで進んだのかもわからない。まったくの見通しゼロ状態。『失われた時を求めて』を再開しても良いぐらいだ。そうしようとは思わないが。

今日は日中暖かい日で、この秋という季節の素晴らしさを感じさせた。今年の秋は長く、その魅力を存分に発揮している。天気もそれほど崩れずに晴れる日が多いし、暑くなくなってから寒くなるまでに相当の期間がはさまれていて、ごく控えめに言っても超最高だ。
今年の秋もここまでのところ存分に秋状態をキープしてくれていて超最高だ。こんなに良いときが続くのはとても良いことだ。どうにか瓶詰めにして保存しておきたいぐらいだ。


そういえば昨日はドイツ戦があった。前半に絶望した分、後半に爆発した試合展開もあいまってつい絶叫してしまい、今朝起きたら声が飛んでいた。
じつは私は大迫原理主義者だったので、代表メンバー発表時には浅野の選出にちょっとした疑念をさしはさんでしまったのだが、私が間違っていた。
あの逆転ゴールで見せた3タッチは浅野にしかできない特有の輝きで、肉食獣のしなやかさを思わせる美しいゴールハンターぶりだった。単純にサッカーのプレーとしても最高峰のものだが、あれだけの大舞台で披露するとなると巡り合わせも必要で、単純にただのスーパープレーとは呼べず、「歴史的な」と形容するしかない出来事だった。
身体がぶるぶる震えるのを抑えられないほど興奮した。抑える気もなかったが。ああいうプレーでゴールを決められるサイドを応援していることだってあるわけで、決める側を応援できていたのだって五分なのだから、僥倖と言わなければならない。
こういうことを言うのは大げさなようで全然大げさではない。自分の胸にきいてみればわかる。
この気持ちはよくわかる。サッカーは面白い。ワールドカップは面白い。「うわあああああ」という叫びがあとから自分の耳から認識される状態というのは「声を出す」の最上級だと思うがそれがあった。この一年、これ以降にもいくつかあったんだろうと思うが、記憶に残るようなそれはこれ一回きりだったかもしれない。いやそんなこともないかな。まあこんなふうに日記を読み返していけばわかることだ。

20221122

失われた時を求めて2

「失われた時を求めて」をまだ読んでいる。まだまだ読んでいる。まだ4巻の途中なので、まだまだ読了は先である。しかし4巻の途中から訳を変えてから一気に読みやすくなった。光文社から岩波にかえたのだが、岩波の訳文のほうが自分でも驚いたぐらいしっくりくる。最初、光文社で読み始めたのは、訳者のスタンスに共鳴したからだったのだけど、訳文の読みやすさはそれとはあまり関係がなかったようだ。それでも、今回重い腰をあげて「失われた時を求めて」を読み始めたのは光文社版の1巻がきっかけだったのだから、あまり足を向けるようなことを言うべきではないとこれ以上訳文についてああだこうだ言うのは自重しておく。ただ、岩波の吉川一義訳はとても読みやすい。

4巻の副題は「花咲く乙女たちのかげに」となっている。アルベルチーヌや彼女の友達のアンドレ、ジゼルが出てきて、面白さが一気に加速したように感じられる。それまでとはべつの段階に差し掛かったときに発生する新奇性のボーナスと、併読している「源氏物語」との状況の近似による関連性のボーナスを差し引いてとしても、十分面白いと思うのだが、実際に差し引いて考えることはできないのであくまでも想像ではという但し書きをつけなければならないのだが。

ただ、女の子たちとの邂逅にともなって、「わたし」の考え方が、サン=ルーと出会ったときの感じ方・考え方とはべつのものになってきていて、それが確かにそうだなと思わせられる納得感のつよい文章になっていたので、やや長いがまるまる引用しておきたい。自分の望みと友情とを天秤にかけるような内容で、それに女の子たちとの心楽しい交遊がからんでくる。ここで「わたし」が言っていることをどう捉えればいいのか、どの程度「わたし」の考えだと思えばいいのか、ということも考えさせられる。つまり、語り手である「わたし」の時制がある一点に固着しているようでもありそうでもないようにみえる独特の文章なので、それを味わうのにもうってつけであって、「失われた時を求めて」という小説の醍醐味ともいえる文章が展開されている。

ただ、私が最初に感心したのはその内容である。内容について引っかかり、それに引っかかって考えているうちに上のようなことを考えだしたという順番であり、たんに書かれた内容について膝を打ったといえばいいのだけれど、内容が内容だけにそのまま引用するのに二の足を踏んだというか少し気が引けた。しかし、ここまで書いたから一応区切りのいいところまで正直に言ってしまうと、昔自分が考えていたようなことが書かれてあって、その再現度に驚かされたということが起こったのだった。というわけで、若干偉そうにはなるのだが、今同じように考えているわけでもなし、かといって、完全にこの考えから足を洗ったともいえないわけで、ISLTよろしく、なんとか私が「思った」その時制をぼやかしたうえで引用できないかと目論んだのだった。つまり、端的に言うと、引っかかったのは今だが、それは過去の私に由来してというか、それを思い出しつつ引っかかったということを強調したかったということだ。では最初からそう言えばいいことではあるのだが、もうひとつ、今も同じように考えているきらいがあるというのも、ややこしく、残念なことながら含まれているのであって、それでくだくだしく、ごちゃごちゃと言い訳を並べながら引用文を投下する準備を整えていったのだ。以下引用。


563

とはいえ、楽園で一日をすごすこの楽しみのために、社交上の楽しみのみならず友情の楽しみまで犠牲にしたとしても、あながち私の間違いとは断定できない。自分のために生きることのできる人間は――たしかにそんなことができるのは芸術家であり、ずいぶん前から私はけっして芸術家になれないと確信していた――、そうする義務がある。ところが友情なるものは、自分のために生きる人間にこの義務を免除するものであり、自己を放棄することにほかならない。会話そのものも、友情の表現様式である以上、軽薄なたわごとであり、なんら獲得するに値するものをもたらしてくれない。生涯のあいだしゃべりつづけても一刻の空虚を無限にくり返すほかなにも言えないのにたいして、芸術創造という孤独な仕事における思考の歩みは深く掘りさげる方向にはたらく。たしかに苦労は多いけれど、それだけが真実の成果を得るためにわれわれが歩みを進めることのできる、唯一の閉ざされていない方向なのである。おまけに友情は、会話と同じでなんら効能がないばかりか、致命的な誤りまでひきおこす。というのも、われわれのなかで自己発展の法則が純粋に内的であるような人は、友人のそばにいると心の奥底へと発見の旅をつづける代わりに自己の表層にとどまって退屈を感じないではいられないものだが、ひとりになるとかえって友情ゆえにその退屈な印象を訂正する仕儀となり、友人が掛けてくれたことばを想い出しては感動し、そのことばを貴重な寄与と考えてしまうからである。ところが人間というものは、外からさまざまな石をつけ加えてつくる建物ではなく、自分自身の樹液で幹や茎につぎつぎと節をつくり、そこから上層に葉叢を伸ばしてゆく樹木のような存在である。私が自分自身を偽り、実際に正真正銘の成長をとげて自分が幸せになる発展を中断してしまうのは、サン=ルーのように親切で頭のいい引っ張りだこの人物から愛され賞賛されたというので嬉しくなり、自身の内部の不分明な印象を解明するという本来の義務のために知性を働かせるのではなく、その知性を友人のことばの解明に動員してしまうときである。そんなときの私は、友のことばを自分自身にくり返し言うことによって――正確に言うなら、自分の内に生きてはいるが自分とはべつの存在、考えるという重荷をつねに委託して安心できるその存在に、私に向けて友のことばをくり返し言わせることによって――、わが友にある美点を見出そうと努めていた。その美点は、私が真にひとりで黙って追い求める美点とは異なり、ロベールや私自身や私の人生にいっそうの価値を付与してくれる美点である。そんなふうに友人が感じさせてくれる美点に浸ると、私は甘やかされてぬくぬくと孤独から守られ、友人のためなら自分自身をも犠牲にしたいという気高い心をいだくように見えるが、じつのところ自己の理想を実現することなど不可能になるのだ。



ファッションの利

ファッションの利点は好きな服ができることだ。好きな服ができさえしたら、そのとき、ファッションの役割は果たされたといっても過言ではない。
もし好きな服ができたら、つぎに何ができるかといえば、その好きな服を着ることができる。もしくは、その好きな服を着ている自分を想像することができる。これはファッションでしか果たすことのできない、とても強力な享楽だ。自分が好きだと思うものを身につけることができる。このことはある種、変態的な歓びだと思うが、驚くべきことにこの行為は禁止されていない。自分が好きな洋服を着衣のうえ、公衆の面前で大手を振って歩いたとしても、誰から罰されることもないのだ。ある特定の身体箇所を隠すことが必要とされるなど、服装にルールはあるのだが、逆に言うとそれさえ守っていれば問題は生じえない。露出に絶対普遍の価値をおく、ごく一部の純粋な人にとっては悲しむべきことなのかもしれないが、それにしても、考え方を裏返すなどしてしかるべき教育を自分自身に施せば、全員が局部を隠蔽するルールを守っているということの変態性に思いを致せるはずである。純粋を犠牲にした先にこそ、目指すべきファンダムはきっとある。
あなたがある色に対する偏愛を持っているのであれば、それを発揮し、愛を表現することができる。全身くまなく青色で揃えてもいいし、より隠微なかたちで、どの服装にもさりげなく青を忍ばせてもいい。あるいは、誰の目に触れることもない下着の色を赤で統一することなど、これが呪術でなくて何であろうか。
色のほかにも、形のちがいがある。たとえば襟のかたちひとつとっても、種々様々なちがいがある。袖の長さにも極度に短くゼロに近いものもあればピンと伸ばした手指が見えないほど長いものもある。どのかたちを選ぶか、どの長さを選ぶか、どの色を選ぶか、組み合わせはほとんど無限にある。
そのなかから「私はこれが好きだ」という服を選ばなければならない。あなたが妥協を許さない性格であれば、好きな服を見つけるという事業は難航をきわめることだろう。目で見て「これだ、これが私の好きな服だ」との直感が働いたとしても、実際に着てみて全然違ったということだってあるかもしれない。さらに「これが最高だ」と思うズボンを選べたとしても、合わせるシャツがないという憂き目にだって遭わないともかぎらない。好きな服を探す過程は、人により場合によっては、非常な苦労の連続だともいえる。
だが、好きな服はいずれ見つかる。「これだ」という服が見つかる日はやってくる。ひょっとすると、それは確信とはほど遠いものかもしれない。好きか嫌いかで言われれば好きだけど…、と自分の感覚に自信が持てないままかもしれない。自分以外の他人に、仲の良い友人・家族にも、「この服が好きだ」とはどうしても言えないかもしれない。
それでも、じつはその服が好きだということはもちろんありえることだし、口に出さないままそれを表現することもできる。その服を着ればいいのだ。実際、好きなものを身に着けたときの拡張感覚には驚くべきものがある。子供の頃、お祭りで買ってもらったウルトラマンのお面を着けたときの万能感、あれを思い出してみればいい。
好きな服を着ることができるということ。これに代わる、これ以上のファッションの利点は、はっきり言ってない。あるとしても異性にもてるぐらいだ。

20221121

デザイン展と美術展

先日、代官山まで[キギ展]を見に行った。代官山駅を使わず神泉駅から20分歩くコースを使った。雨に降られないか際どいところだったが本降りになる前に目的地[ヒルサイドフォーラム]にたどり着いて命拾いした。
美術展とデザイン展は似ているようで全然ちがうということを最近になってだんだん理解するようになってきたが、そこにあるグラデーションをデザイン展よりに振り切ったような展示だった。
デザイン展は美術展とちがって観客のことをあまり信用していないというメッセージが浮かび上がるものだと思うが、今回の展示ではそのメッセージが浮かび上がることを予期した上でそれにも対処してデザインされているように感じられた。美術展のほうは、観客を信用しているというお題目を唱えながら実際には手を抜いているだけということもよくあるんだと思うから、よくあると言ってわるければそういうこともあるんだろうと思うから、あるといってしまってわるければそう言えるといえばそうとも言えるんだろうから、美術展のほうが良いとは言えないけれど、それを加味した上でも美術展のスタンスのほうが好みなのだが、行き届いたデザイン展のなかを周遊するのはそれはそれで面白い。川を泳ぐのと池を泳ぐのとのちがいという気がする。一方にはあらかじめ決められた流れがあり、もう一方には決まった流れがないというちがいだ。
さすがデザイン展といったところで、見せ方に感心したが、中身については通り一遍のものにすぎないと思った。卓越した見せ方であればあるだけ、中身についてはそれとの比較でどうしても薄っぺらに見えざるを得ないのかもしれない。考え方や文章やコンセプトがいくら凡庸なものであっても、見せ方によってはそれが輝いてみえるということもあるが、見せ方が整えられていて美しければ美しいほどそれが輝くかと言われれば必ずしもそうはならないということを明らかに示していた。(卓越したデザインだからこそ、鮮やかなほどそれを浮き彫りにしていたのだと付言しておきたい。)
ただし、見せ方が並外れて美しいことで結果的に多くの人がそれを見ることになる。見るのにも段階があり、ある程度から先は、見る側の心持ちがそのまま反映される領域になる。導入と展開をべつの領分として、デザインは導入に特化していると考えれば、つまり展開するのは各々の心の内側でのことだと決めてしまうのであれば、このやり方がもっとも優れているだろう。ちなみに、先ほどの観客を信用する/信用しないの二分は反転している。
めったに見れないような美しい内容があったとしても、それを受け取る人がいなければむなしいし、反対に、どこでも見られるような内容であったとしても、受け取る人のなかにそれを響かせる鐘があればきれいな音が鳴る。大切なのは中身や内容ではなくて、それによって鳴らされるものだ。外見や形式によって、それとの比較・二項対立によって、中身や内容は重要度の高いものと考えられがちだが、大事なことをもしひとつだけ選ぶのであれば、それは外見や形式にならないし、それと同じように中身や内容にもなりえないはずだ。
だから結局、デザインを見て自分のなかになにかが鳴るのであればデザインでいいし、美術を見て鳴るのであれば美術でいいというだけの話だ。そして、大きな音で鳴らされるとき、とても小さな音で鳴らされるときなど、局面はさまざまある。
そうは言っても音の話をしているのではないので、大きな音がしたから鳴っているという証明にはならない。もちろん、小さな音だから鳴っていなかったとすることもできない。べつにできるといえばできるのだが、それをする意味はない。鳴ったか鳴ってないかという問題は、究極的には自分だけの問題だ。究極(アルティメット)などといって大それないでも、どこまでいっても自分だけの問題でしかなく、本質的にけちな問題だといえる。けちな問題だから、それを手放そうとする[合理的な]人も少なくないのだろう。
美術であればあるだけ小さい音がなり、デザインに寄れば寄るだけ大きい音がなるのかなとも思ったりもするが、そんな簡単なものでもないのかもしれない。とはいえ別段むずかしく考える必要も差し当たってないわけで、一旦そう考えることにしておく。そして、とても小さい音が鳴ったとき、とても小さくてほとんど聞こえないぐらいなのに、それでも鳴ったという確信が去らないような鳴り方で小さい音が鳴ったときに、私は嬉しい。美術でも音楽でも小説でもなんでも、そういうものを探しているんだと思う。共鳴するなら小さな音で、というのが私のけちな人世観だ。

20221114

日記51

昨日
さる演劇祭に出演することになり、その稽古参加初日だった。参加メンバーは女6人男4人の10名で、見たところ全員演劇経験者のようだ。応募の際にきっぱりと「未経験」と書いているので、私は自分が演劇素人であることを気にしないつもりでいた。しかし、いざ参加してみると、そういう「つもり」は役に立つものではないということを再認識させられた。みな舞台経験を持っているからか、押し出しが立派な様子で、何かを言おうとすると気後れを感じてしまう。とくに3人・3人・4人のチームに分かれての寸劇創作では、とつぜん役者のなかに放り込まれたようでやりづらさを感じた。「ある言葉をもとに20分で創作してください」と言われただけで、どんどん意見を出し合って寸劇を成立させようとしていく勢いはそれなりにキビキビしたもので、乗り遅れないようにしようとするので精一杯だった。「成立させる」も「振り落とされないようについていく」も経験不足によって実際にそうなるのは仕方ないにせよ、取り組む姿勢がそうなるのは避けたいところなのでどうにかしたい。自分自身に気後れしていないと錯覚させるにはどうすればいいだろうか。
とにかく「さる演劇祭」と言いたかったのでそれによって文体が決まったところがある。下北沢演劇祭に参加した。稽古初日は愛媛での友人の結婚式のため欠席したので二日目からの参加になった。経験者がどうとか言っているが、たんに自分の人見知りが出ているだけだ。なんとなく理由として縋りやすいポイントに演劇の経験有無があり、それを利用したにすぎない。ちなみにその利用は最後まで続いた。よくない逃げ腰・及び腰の態度だ。そうでもしないととてもじゃないがやり通せなかったとすれば仕方ないことだが、終わってしまった今となっては「喉元過ぎれば」ではないが必ずしもそうだとも思われない。まあこんなことを言っても詮無きことだ。「当時は」あれで仕方なかったということにしよう。


◎初日稽古でやったこと

・注意事項説明
今回の演劇創作スタイルは稽古の進行にあわせて場面を作っていくので、欠席はできるだけ少なくするように。スケジュールの変更・詳細について。

・名前おぼえゲーム
1.自分が呼んでほしい名前を自分で決める
2.輪になってスタート
3.ひとりが相手の名前を呼びながら指差す
4.指さされた人は自分の名前を言いながら相手の指差しを受け取る★
5.誰かを指差しながらその人の名前を呼ぶ
6.指さされた人は自分の名前を言いながら相手の指差しを受け取る
7.3〜7までを繰り返す

・単語渡しゲーム
1.あるカテゴリのなかから、ひとりひとり自分の言葉を決める
 例:動物 マレーバク
2.指差していく順番を決める
3.決まった順番で相手を指差しながら自分の単語を言う
4.指さされた人は相手の指差しを受け取る★
5.自分の単語を言いながら決まった相手を指差す
6.3〜5までを繰り返す
7.べつのカテゴリのなかから、ひとりひとり自分の言葉をべつに決める
 例:飲み物 ファイブミニ
8.指差していく順番をべつに決める
9.決まった順番で相手を指差しながら自分の単語を言う
10.指さされた人は相手の指差しを受け取る★
11.自分の単語を言いながら決まった相手を指差す
12.3〜5までを繰り返しながら、同時に8〜11も繰り返す
13.カテゴリと単語を増やし、同時並行での受け渡しを増やしていく

これらのゲームで重要なのは★の箇所で、きちんと相手の発信を受け取ってつぎに進むこと。たとえば舞台上でも、セリフを言うことに気を取られすぎて相手の発信を受け取らないまま進めると単なるセリフの言い合いになる。そうならないように、相手の発信をきちんと受けてから発信をするように意識する。

・写真許可
稽古風景の撮影をするが、写りたくない人がいたら教えてくださいというアナウンス。

・クレジット名相談
本名以外でクレジットされたい人は名簿にその名前を書く。

・全体写真撮影
稽古初日の全体写真撮影。

・カウントアップゲーム
輪になってアイコンタクトだけでお互いの意思疎通をはかる。
1から数字をカウントしていく
「1」と言うときには、言いながら1人が動く
「2」と言うときは、言いながら同時に2人が動く
「3」のときには、同時に3人が動く
数を増やしていく

・30秒ジェスチャー伝言ゲーム
2チームにわかれて行う

・連想単語1分作劇
3チームに分かれて行う
(2チームでも可・人数配分は等分でなくても可)
ひとつの言葉から連想する単語を3分間で思いつくかぎりいくつも列挙する
例:マッチ売りの少女
チームで浮かび上がった単語を持ち寄り、そのなかのひとつの単語を使って1分間の劇を作る


近所の気になっていた鰻屋で鰻重とう巻きを食べる。竹でこんなに満足なんだから松はどうなってしまうのか心配になった。これまで食べた鰻は甘いタレだったのだが、からいタレもこれはこれで良いものだと思った。江戸前っぽいと思うのはたんに東京で食べているからか。
鎌倉殿の13人を見る。実朝ががんばっている。蹴鞠の東西出来レース合戦に笑った。
日付変わってハンターハンターを読む。本当に読み応えがある。登場人物の量がどんどん膨れ上がっていって面白い。まるでピンチョンの小説のようだと思うが、増えるペースだけでいえばそれすら超えている。軍人が一番よわいのも面白いし、彼らの自他の戦力差が大きいのをしっかり把握して生存しようとする思惑も、ツェリの学友という立場も、今後ゲームに組み込まれ絡まり込んでいくと思うと本当に面白くなりそう。とにかく情報量が多い。セリフ回しだけで新登場キャラクターの性格と関係性を必要な分だけ十分に開示していて、ものすごいものを読ませられたという気になった。まだまだ期待が高まる。しかもそれだけじゃなくこの一話が一話として面白い。すごい。
はやくハンターハンターの続きが読みたい。あれから一年経ったがあれ以来鰻を口にしていない。

20221113

日記50

一昨日
友人の結婚式に出席するため、愛媛の松山までフライト、初ジェットスター。成田発13時の便で松山空港へは15時前に到着。ホテルにチェックインして荷物を置いてから、久しぶりの道後温泉まで久しぶりの路面電車で向かう。いつかの旅行でも行った場所なので、エリアに結びついた懐かしい記憶をさっとなぞっていく。閉館時間間際だったので正岡子規記念博物館の内部には入られず。入り口エントランスの正岡子規像と俳句ポストで我慢する。あのときに詠んだ俳句のことはちらとも思い出せず。正岡子規記念博物館の正面に掲示されていた句は

裏表きらりきらりとちる紅葉   正岡子規

これがちょうど今の気分にしっくりと合った。道後温泉にいながらも、かつて訪問した道後温泉の名残りと見比べてみたり、そのときに起こった出来事を思い出そうとして、現在の道後温泉にいるという感じが半分ぐらいになっていた。ただ、そもそも前回の散策でも、小説で読んだ当時の名残りをどこかに見つけようとしていたし、旧蹟を訪う周り方をしていたはずだと思う。そういう今と昔とがちょうど半分半分になってどちらがどちらとも言えないまま、日を受ける短い間にきらりきらりと光る感じが、今回の散策風景に、そしてたぶん前回の散策風景にも適合する気がした。当時の訪問は夏で、今回は秋というちがいはあったけれど。

昔たわむれに詠んだ句は一切覚えておらず、ただ俳句ポストに吸い込まれていっただけだったが、今回はひとりで周ったこともあって、同じたわむれながらもできた句を保存する時間を設けることができた。道後温泉から松山市駅に向かう路面電車のなか、後部座席から通ってきた線路を見ながら得た三句

折れ曲がるレールの先の道後の湯

湯けむりに霞んでみえる在りし夏

立ったまま団子食う間の夕まぐれ


前回と今回とのちがいには、過去のことを思うのと同時に未来のことを考えてみたところにある。当時は今よりももっと先のことを考えないようにしていたのに比べて、今回は先のことを考えないようにする気持ちがうすかった。その分、先のことを考えたかというとべつにそういうこともなく、ただ漠然とまた来たいなと思っただけだったので、ただそう思うに任せた。割合にすると、過去5:現在4:未来1ぐらいの案配。

宿泊したホテルは1年も経っていないぐらい新しくてきれいだった。松山市駅前なので3Fの大浴場の外湯につかると、直下の伊予鉄の発着音や街の雑踏音がうっすら聞こえてきて、まだはやい時間帯だっただけにほぼ貸切状態で、とても気持ちのいい極楽気分を味わえた。

タリーズバイト時代の仲間と夜に集まって飲む。あれから6年も経っているから当然みんな変わっているんだろうけど、お互いについ「変わらないねー」などと言い合ってしまう。宿泊ホテルが皆一緒だったのでそれぞれ風呂に入ったあと、ホテルの部屋でアイスを食べる。みんなそれぞれの近況を話していると一瞬で時間が過ぎ、私などはもっと話したいぐらいだったが、明日も早いということで2時頃におひらきになる。

昔の自分が何を考えてどういう方針で人と付き合っていたのかということを考えてそれに反しないようにしようとするのが、久しぶりに会ったときのぎこちなさに重なってますますぎこちない空気を作り出してしまうということがあると思う。そういう流れをフツリと切ることができればそれを皮切りに当時へと一息になだれ込んでいけるものだが、そういうことが起こるかどうかというのは時の運ではないか。当時の思い出を更新したいわけではないのだし、無理に前に進んで見せるのも、前に進んだよと報告するのもちがう気がする。

当時から自分は自分勝手にいようとする気持ちがあったと思うが、今ほどそれを前面に出せていなかった。もっと短いスパンでも、たとえば去年に比べても今のほうがさらに自分勝手になれていると思う。それをそのまま昔の友人とのあいだにも適用させようとするのは違う。違うというかうまくできる気がしない。昔の友人を昔の友人扱いせずに今の友人だと思うのであれば今の自分を出すのは是非とも必要な一手なのだが、一日や二日の再会でそれをできるとは思えない。そうは言っても忠実に昔の感じをそのままなぞることも難しいから、今が滲出するのに任せるというのが去年の今頃に採用した方針だった。


昨日

天候にも恵まれ、とても良い結婚式だった。ゲストを楽しませようという気概に充ちた、友人らしさ全開の式と披露宴だった。普通という枠には嵌まらない、よく考えられた内容で本当に感服した。6つ年下なのだが、いつもお世話になっているという以外なく、バイト当時から一貫してお世話になり続けている。ホスピタリティの言葉の意味を十分理解し、表現に落とし込むことで実践してみせることのできる人間はそういない。心底まじめなパーソナリティだけにまじめくさっていられないからなんだと思うが、儀礼的なものも個人的なものもあわせて冗談が多彩なのも見習うべきところ。心意気ひとつとっても到底及ぶべくもないが。俺もちょっとは頑張らないとなと背筋が一瞬伸びる。

去年はなぜか書いていないが、友人は結婚式の準備のために寝ないで頑張るということをしていたらしい。それを見て思うのは、頑張りすぎないようにしようというのではない。長く頑張れるように頑張っていこうというのだ。彼はかつての高校球児らしい価値観をもって長く頑張れるように頑張るというのでは頑張りが足りないと思うのだろうが、それでも長く頑張れるように頑張るために頑張れるようにしようというのが自分が唯一彼に言いたいことだ。

行き帰りのフライトで『ジェントルメン』という映画を見る。あとは『となりのサインフェルド』を5,6話見る。

コンディションのせいかジェントルメンがそこまで面白くなかった。同じ環境で見た『となりのサインフェルド』がどうだったか記憶が曖昧だが、すくなくとも面白くなかったという印象はなかったわけで、たぶんジェントルメンは面白くない映画だったのだろう。

無事帰宅の連絡をすると、男3人のうちふたりまでもが飛行機を逃すという報告を受ける。相変わらずというのはこういうことだと思う。いつも終電で帰っていた自分がちゃんと間に合うように空港に向かうのも含めて。また飲みたい。

自分には「終電で帰れちゃう」コンプレックスがある。終電で帰れるからこそ抱くコンプレックスだ。そのスタンスを変える気はなく終電があるときには帰る気満々だが、だからやっぱり帰れちゃうもんでどれだけ薄まってもコンプレックスの気配は拭いえない。

20221104

日記49

今日
最近ハンターハンターを1巻から読み返している。グリードアイランド編まで読み終わった。グリードアイランド編まではとくに、すべての展開がシームレスにつながったオープンワールドのRPGをやっているかのようで、すべてのイベントが同時並行的に進行している感がある。ゴンたちの前に突如現れる新登場人物が、現れたのは突然でも、その人物なりに生きてきたという感じがちゃんとするのはどういう仕組みなのかわからないが、それぞれの人物が登場場面以外で活躍死躍することでクレジットがちゃんと蓄積されていて、その収支管理がしっかりしているからではないか、などと思ったりした。
転職アドバイザーから面接対策を受ける。転職に関することをネット等で調べていると、皆すごすぎじゃんという感じがどんどんしてきて萎縮するので、同じ内容でも人から話されることで変に構えたり萎縮したりせずに容れられるのが利点だと思った。ネットの情報は情報すぎるという欠点がある。
いつもとはべつのスタバに行ってソイラテを飲む。昔よく行っていたスタバで懐かしいが、今のスタバに慣れるとこちらはほぼマクド。源氏物語はちょっとずつ進捗していて『薄雲』の回。登場人物がどんどん物故してどんどん暗くなってきている。
帰りにビレヴァンでハンターハンター最新刊を買って帰る。

20221103

RRR

「RRR」は、一文字を3回重ねた表現なので、使用文字は一文字。「Rise Roar Revolt」の略字である。

情報社会が進むと略語競争が激しくなることが予想される。たとえば「AAA」というのはIT用語としては次のことを表現する「Authentication(認証)Authorization(認可)Accounting(アカウンティング)」一方で、日本の男女混合パフォーマンスグループ「トリプルエー」の略語でもある。世代にも左右されるのだろうが、日本で有名なのはおそらくトリプルエーのほうだ。では、世界ではどうかといえば、これは前者のプロトコルになるだろう。日本では音楽グループが有名であるように、国によってはAAAというグループだか企業だかがべつに有名かもしれないが。

ただ、もっと有名で確定的な略語もある。たとえば同じIT用語でも「www」、つまり「world wide web」はかなり有名で、べつのグループだかユニットだかが参入する余地がない。正確には、有名すぎるので参入するスペースはかえって広く空いているのだけど、取って代わる可能性はかなり低い。

一文字しか使用しない略語は、複雑さが極限まで削ぎ落とされており、シンプルゆえに強度が高い。もしそこに定着できたなら、最小の情報量で最大のインパクトを与えることができる。

だが当然、そこに参入し、定着するハードルは相当高い。それが平仮名や漢字、キリル文字、ギリシャ文字などのマイナー文字であれば、マイナー度合いに応じてハードルも下がるだろうが、アルファベット・数字などのメジャー文字である場合には、その難易度は跳ね上がる。

「RRR」というインド映画の射程は、英国諜報機関のアイコンであるJBをはるかに超えて、英語にまで達している。「Rise Roar Revolt」が英単語の組み合わせであって文字としてアルファベットを使用しているということは、現代社会に慣れた目からは一見して当然のようにも映るが、注目に値する。

どこまで長大な野心を抱けるか、そしてそれが何に対する革命かということを見逃すべきではない。この映画のスケールが、たんに大英帝国を打倒するということに収まると考えるのであれば、さすがに能天気なまでにお行儀が良すぎるだろう。


2022年11月現在、Googleで「RRR_意味」と検索すると、最初のページに以下が表示される。検索結果は約 4,230,000 件。

⇛RRR(Reserve Replacement Ratio)は、企業の業績を見る上での主要な指標のひとつである。


辞書や検索ツールに表示されるものがすべてではないし、「意味」を付け足したことでアルゴリズムが適した結果を返しただけのことだと思われる。だがしばらくすれば「Rise Rore Revolt」が「RRR」の「意味」として表示されることになっていくかもしれない。

それにしても、Rというただ一文字のアルファベットの連なりが「力強く握り合う手と手」を強烈にイメージさせるのは、映像表現の威容(Majesty)でなくて何だろうか。

PPPという文字列を見て、「Point to Point Protocol」の略語だとその意味を思い起こすのとは、同じ一文字の略語でかたちが似ているのに反して、似ても似つかない。

20221031

日記48

一昨日
西が丘サッカー場まで行き、新宿クリアソンv奈良クラブのサッカーの試合を観る。とにかく天気が良かったので、芝生の鮮やかな緑が目に飛び込んできた。あんな場所でサッカーできたらさぞ気持ちいいんだろうなと思った。前半は奈良クラブのベンチ真裏に陣取ったおかげで、ゴール取り消しのときの監督の抗議や、ゴールのときの監督のガッツポーズが見られたり、生観戦ならではの満足感の高い観戦になった。行きは十条駅から歩いたので帰りは赤羽駅まで歩く。
夜は下北沢で友人のモラハラ話を聞く。個人的にゆるがせにできないルールがあったとして、それをどう自分以外の他人に適用させようとするかという手際が求められる場面で、友人のそれは、手際にはそれなりの自信があって、なおかつ、最終的に押し付けるときに不可避的に発生する責任は回避したいという場合に該当するモラハラケースだった。自分のなかでつながっている手順を相手に落とし込めておらず、相手が理解しないまま適当に肯定的な表現でお茶を濁したのをそれと知りながら利用するという、お婆ちゃんの家に上がり込んで物を売りつける悪徳営業の手口と本質的に異なるところがないやり口だが、それの成功は重要な何ごとかの失敗を意味してはいないかと疑問に思う。
上記の疑問をぶつけてみたところ、それについては黙殺したまま話を横滑りさせ、べつの似たような話を始めた。理解する能力か回答する言葉、あるいはその両方がないのだろうと判断して、それ以上はとくに追及しなかったが、そういう姿勢がどうあっても責任を回避したいという彼のやり方を形作ることになっていて、何かを改善したいという要求を実現する妨げになっていると思われる。知ったうえでのことであれば、改善したいというフリをしているのに等しいし、他人をそれに巻き込もうとすることは、巻き込まれる他人にはもちろん、長い目で見れば本人にとっても無益でしかない。もっと自由闊達に改善要求をぶち上げていけばいいのにと思うが、そのためには自分自身の姿勢改善が欠かせないわけで、そういうことをするのがどんどん難しくなっているのだろう。
もっと単純に、私と彼とで重要に思うことの中身がちがうというだけの話だとも考えられる。そして、私が重要に思うことを重要に思わない人がいるということを私は理解できないし、理解できるようにしようという気もない。もしこの点について姿勢改善したほうがいいよと忠告してくれる人が現れても、私は普通に無視して、その意見については黙殺することだろう。だから結局、私たちは同じ穴の狢(むじな)なのだといえるかもしれない。私からすればそんなわけはないのだが。
全部ちがうと言いたいところだが、もっともちがうのは、コミュニケーションにおける同意や合意について、結果を最重要視しないというところだ。言質を取りたいがために会話をするわけではなく、理解と反論を求めているので、必然的に、結果よりもプロセスのほうが重要ということになる。込み入った話になってくると、あいだに差し挟まれる「なるほど」とか「たしかに」という相槌の重要性は増えてくるし、それを適当にやられるとかなり困る。
いい加減な相槌を打たないというのは会話における最低限の礼儀だといえる。理解していないときに「わかった」という意味のことを言うのは、それを言う本人にとってはその場を成立させるための友好的な方便なのかもしれないが、長期的に見れば敵対的な対応にほかならない。長期的な関係を築こうとしていたり、長期的な関係が見込まれる相手に向かっては、嘘も方便という言葉は通用しないということを、この手のことなかれ主義者は肝に銘じるべきだ。
何が言いたいかというと、じつは、私の友人はこの礼儀をわきまえているということだ。彼はわからないことについてわかったとは言わないし、同意できないことについて同意したりしない。しかし、彼のモラハラ対象は、この礼儀をわきまえていないと考えられる。わきまえているにしても、やや甘く考えているようだ。自分にとって入念に言葉を選んで意見を説明し、相手から「わかった」という言葉を引き出せたとするなら、それは「了解された」ということであって、そこで「ひょっとするとわかっていないのではないか」と疑う意義はうすい。それを疑わなければならなくなると、説明する側の手間は最低でも二倍になる。一対一のコミュニケーションにとって、それはあまりにもアンフェアだ。これは短期的にはうまく回る方策かもしれないが、長期的には、ちょっとでも込み入った話をするための相手にならなくなる。
込み入った話をしないという解決策はあるにはあるが、私の観点からすればそれは何の解決にもなっていない。誰にだっておそらく込み入った話のひとつやふたつはあるはずで、それを話して理解されたいという望みは断ち切りがたい。自分の込み入った話をうまく説明できないことがあまりにも続いて、諦めそうになることがあったとしても、他人の込み入った話を理解しようとする姿勢は保っていたい。込み入った話をしたりされたりするなかでしか得られない充足はある。
自分から見ても、この人には自分の話が話せそうだと思うような人と、そうは思えない人とがいる。他人から見ても同じような差はあるにちがいない。前者でいるためには、また、前者でいようとするためにも、かなり多くの能力が必要とされるものだと思われる。そうは言っても相性があるから、これだけあれば十分だといえる要素はない。それでも唯一不可欠だといえるのは、やはり礼儀があるかどうかだ。
「そうなんですね」とだけ言っておけばそれで済む場面はある。私はそんな場面で聞かされる話はくだらないと思うし、それと友人の込み入った話を聞くときの熱量は区別すべきだと考える。反対に、どんな話でも分け隔てなく同じだけの熱量をもって傾聴するというスタンスの人もいるだろう。文化がちがえば捉え方もちがう、礼儀における「つまらないものですが」問題と似たような構造なのかもしれない。
いや、定型的な話を面白く膨らませるような積極的な聞き方ができる人であれば、私の消極的な話の聞き分けそのものがくだらないと考えることだろう。そう考えると私のやり方はつまらないものに思えてくる。自分には能力の限界があり、それに応じたスタンスだから仕方がないと割り切っているが、このやり方がベストではないのは明らかなので、やはり若干の居心地のわるさがある。
最善は、能力があり、積極的な聞き方をできる人である。だとすれば、次善は何になるかという選択の問題になる。積極的な聞き方をできるときはしてできないときにはしないが分け隔てもしないAか、積極的な聞き方をできる相手とそうではない相手とを区別するBか、どちらが次善かという問題だ。Aのほうが最善を目指している分だけ、見た目には最善に近いように思われる。しかし、私のベストはBである。私は誰かのために私があるとは思えない。それをはっきりさせておくのが私なりの礼儀だ。その私なりの礼儀をおろそかにして、より最善に近いように見えるからという理由でAを選ぶのは、私にとってはBを選ぶことに劣る。つまり順当に言って、私にはBが次善ということになる。最善を選べず、その次も選べないので、次の次を選ぶというだけの話だ。
私はたぶん最善を選べる人に嫉妬するし、最善を選べないがそれを目指せる人にも嫉妬する。そして、真っ向から最善を攻撃できない鬱憤を、私から見て間違っていると思われる次善策を選んだ人をターゲットに晴らそうとして、その次善は虚偽のものであり間違っていると主張し、攻撃しようとするようだ。もちろん私にはそんなつもりは皆目ないのだが、そう見なされるだけの材料が揃っていることは認めないわけにはいかない。
私が最善を諦めていないかと問われて「最善を諦めていない」と言えば、虚偽になる。ただ、最善について諦めていると言いたくない気持ちがある。同時に、諦めていると言ってしまいたい欲求もあるのだが、とりあえずは最善については何も言わないことに決めている。そのことで重要な何ごとかを、自由闊達さを失っているのではないかと疑問を呈されれば、そのときこそ前後左右進退に窮して、その場で無意味なジャンプを二度といわず三度といわず、ジャンプするしかなくなるだろう。私が友人を追及しなかったのはたんに面倒だったからだが、その内訳はそのときに私が考えたものとは内容を異にしているものと思われる。

昨日
楽しみにしていたBBQがあった。豊洲のBBQ会場で、東京タワーとスカイツリーを同時に見られるのが売りだと思われる立地。近くに誰もおらず、ポツンとひとりで肉を食うという最悪の事態を想定していったおかげで、久しぶりのBBQはかなり充実したBBQになったといえる。しかし、本当はあちらこちらと会場狭しと動き回り、全員に気の利いたジョークをお見舞いするというベストパフォーマンスを夢想していったおかげで、上質なお肉、リッチな立地、低調なパフォーマンス(寝ていないだけマシだが、寝ていないだけともいえる)というボンボンキュな出来となった(BBQだけに)。焼き残し、焼き終わりの食べものを廃棄するという、純粋なBBQ観点からはもっともさもしいBBQになるという結果になったのがなによりの心残りだった。社交BBQの観点からは、食べ残しに群がるというのがもっともさもしい行動なのかもしれず、その場合は私ともうひとりでその役目を分け合えたのが収穫といえば収穫だった。一気に意気投合するみたいなことは生きていてもあまりないが、少ない機会ながらそのときの印象は強く残るもので、それを期待するけど、とくに東京に来てからはめったにない。今回もそれは起こらなかった。まあ焦らずに回数を重ねて、「弱火でじっくり」をモットーに知己を増やしていきたい。相手次第の度合いは年々高まっているので、そろそろ自分から働きかける意識をもってもいい頃合いかも。
帰宅後4時間超の昼寝(夕寝)をかまし、録画で鎌倉殿の13人を見る。実朝の苦悩が、髑髏という小道具を通じて劇的なものにつながっていき、どんどん迫真の演技に見えていった。それだけに放送後、ツイッターで流れてきた実朝役の柿澤氏の謎ポージング写真が激烈な効果をもたらした。やはりツイッターでドラマの感想など見ようとするのがわるい。

20221024

日記47

昨日
大江戸骨董市のため有楽町まで出かける。奈良クラブの大一番があったのでネット配信の生中継を見る。SHAKESHACKのハンバーガーを食べながら試合終了のホイッスルを聴いた。一点返しての引き分けというドローゲームのなかではもっともポジティブな結果だったこと、J3参入資格を得るための観客動員をクリアする1万4千人の来場者数があったことから、ベストではないにしても良い結果だった。
有楽町にある大きな会議場のことに少し明るくなった。骨董市やバザーの類には興味を持てず、ベンチに座っている時間が長かったが、いい天気なのもあってご機嫌だった。
外苑前のACTUSに行って家具を見る。表参道ピザを食べてから下北沢で買い物をし、帰宅。外苑前の交差点でともに白髪の夫婦が歩いているのを見かける。目に止まったのはおしゃれさが際立っていたためで、年齢に相応でいながらもそれとわかる高いブランドをつけているだけのことでもなく、流行のキャッチアップとそのアレンジができていて、本当のおしゃれさがあった。老人になっておしゃれでいると、只者ではない感じがするものだし、実際に只者ではないのだろうなという説得力があった。細かい点は忘れてしまったが、女性の髪型が『ハウルの動く城』のソフィの髪型と同じだった。素敵だった。
外苑前という地の利があったことは差し引いても、今こうしていてもその出で立ちというか雰囲気を思い出せるほどにはお洒落だった。人生を楽しんだではなくこれからの人生を楽しむという無言の意思表明が感じられた。振り返るようなことがあったとしてもごく軽やかに振り向くのだろう。
連載再開に備えてハンターハンター36巻を買って読む。
ハンターハンターが一番面白い漫画だと思うが、新刊にコンスタントに触れられないのだけが玉に瑕だ。
鎌倉殿の13人を見る。実朝に感情移入したせいでこれまでより見るのがつらくなった。
歴史物には泣かせる演出で飾り付けられていたとしてもとくに抵抗なく受け入れられる稀有なキャラクターがいるものだが、実朝はその位置に殿堂入りしている。ちょっと擦られすぎたと感じる感性が働くまえに見る側の新陳代謝が先に起こるのが歴史物の定めなのだろうから安泰だと思う。どのパターンでも結局は儚く散ってしまうわけだし。
ハンターハンターのために日付変更と同時に本誌の電子版を購入して読む。オンリーワンといえる漫画の独立峰はいくつか挙げられるが、ナンバーワンはハンターハンターだ。
そしてナンバーワン不在がまた一年続いている。

今日
久しぶりに読んだ源氏物語は「澪標」の回。六条御息所が亡くなった。昔古文の授業でちょっ見た『あさきゆめみし』の劇画調少女漫画のタッチの影響もあって、六条御息所はとんでもない人だという印象があったのだが、彼女は自身の死に際には穏当で理にかなったお願いを光君にしていて、彼女にしても結局、恋やあこがれに狂わされた側なんだということがはっきりした。光君は尚侍朧月夜とのチャンスをいまだに伺っているという描写もあり、あれほど痛い目をみても全然懲りない肝の太さを垣間見る感じで、愚かと思うよりも感心してしまった。あれほど大事にすると言っている紫の女君にたいしても浮気を隠そうともせず、一貫してせこせこしていない。変に気を回して人の気持ちを考えたりしていないだけなのだが、それができるのは徳の高さか身分の高さなのだと思う。ただ、何かといえばすぐ「外聞がわるい」などと言い出すので前者2:後者8ぐらいの割合だろう。しかしこの2があるだけでもめずらしくて貴重なのかもしれない。
なんでも好き勝手好き放題できる身の上で、他者に関連する自分の悩みを正当に悩めるというのは立派なことのようだし、当然そうなることのようだし、ちょっと判断が難しい。しかし一番遠いところに行こうとして最短距離を走るということをしていないのを見ると、後世の読者に感情移入される余地は十分残しているように思う。ある種の狂人でしたで済まされるキャラクターよりも長持ちするのではないか。長持ちしたところでそこで醸成された感慨が伝播することはほぼないだろうから、やはり目につきやすくしかも特異なポジションについた狂人が輝き続けるのだろう。彼らにしても最終的に死ぬという心和ませる特徴を有しているわけだし、決定的に嫌われるということはないはずだ。

20221021

幸福非論

幸せになりたいと思ったことがない。
幸せ・幸福というトピックへの関心がうすいのは、幸せになりたいと願望したことがなく、幸せになりたいという願望のねらいがきちんと理解できていないからだと思われる。
人間のゴールというゴール設定が漠然とでもあれば違うのかもしれないが、そういうものはない。他の人もただ漠然と人間のゴールというものを考え、そのゴールテープを切りたいと考えているわけではないだろう。もうすこし具体的に、たとえば21世紀を生きる男/女としてのゴールということであれば、まだ想像しやすいが、それにしてもきちんと理解できるというには充分ではない。具体性をもっと推し進めて「21世紀の日本で暮らしている男」、さらに進んで「2022年現在33歳になる、東京で暮らしている、人より身長の低い男」というように、個別の条件を当てはめていくことで理解は深まっていくかもしれない。しかし、その過程では自分とは異なる部分が生じてきて、結局、関心がうすれていくことになる。
こうなりたい、こうありたいというような目指すべき目標といったかたちの願望、その対象となる幸福では、個々の主観がつよく左右する。これは、安全無事な場所から獲りに行くものであり、【積極的な幸福】ということができる。
不幸に対置される幸福もある。不幸状態から逃れられているとき、その小康状態がある程度継続する見込みがある場合、幸福であるということがいえて、それは【消極的な幸福】と捉えられる。私が幸せになりたいと思ったことがない理由のひとつは、この【消極的な幸福】が絶え間なく続いていることによるだろう。良好な健康状態にある人が、自分の健康をほとんど意識しないのと同様だ。
ただし、消極的な幸福だけではなく積極的な幸福にも関心がうすい場合でなければ、幸福への非言及は不自然で考えづらい。
考えてみれば私も、積極的な幸福について無関心ではいられない。ただ目指すべき目標を「幸せ」と表現する言語習慣がないだけだと思われる。だから人のいう幸せを自分用に翻訳しようともせず、漠然と言葉を使っているだけだろうと高を括ったり、その人の目指すべき目標が明確になっている場合はそもそも他人事のように考えたりして、距離をおいているようだ。自分の積極的な幸福の中身と、人のそれとが同じになるわけがないと初手からすり合わせを断念しているともいえる。
積極的な幸福の土台ともなる消極的な幸福に関して興味関心がうすいのは、不徳の致すところだとしか言えないが、関心を持てないものに関心を持てと言われても自ずから限界がある。
その分、自分自身の積極的な幸福については考えられるかぎり考えたいと思っている。べつにそれで埋め合わせになるとも思わないが、個人的関心がないと言って何かを切り捨てる以上、関心があるものにリソースを割くのは義務だと思われるからだ。何に対する義務かといえば、自分自身に対する義務だ。
その義務の最初の一歩として、私は私自身の【積極的な幸福】を「幸せ」とは表現しないことに決めている。共有できないものを共有できるものであるかのように言い表すのは端的にいって嘘だと考えるからだ。幸せは、一個人のものではありえず、皆のものでしかない。

20221013

日記46

先週末
小学校来の友人の結婚式があった。人柄がよく反映されたいい結婚式だった。この日のため前日に買った革靴は式場内でしか履かなかったのにもかかわらず、あわや靴ずれになるところだった。
披露宴が終わり次第帰宅し、渋谷に出かけ、牛腸茂雄の写真展を見に行った。PARCO屋上が最高に過ごしやすい気候で、秋の月がとても大きく出ていた。下北でルーロー飯を食べて帰宅。

二日前
彼女の誕生日のお祝いで、下北沢にある多国籍料理のダイニングバーでワインを飲みつつご飯を食べた。

昨日
仕事後に下北沢に出て夜の散歩。耳のお供にMETAFIVEの『METAATEM』。帰ってからアーセナル-リバプールの録画放送を見る。四畳半タイムマシンブルースを見終わる。エッジが取れた半端な合いの子で、元の作品がどちらも良くできているだけに、まれに見る失敗作だった。二話目からもう登場人物にはあまり喋ってほしくなかった。

今日
雨が降っていたので一歩も外に出なかった。源氏物語は『明石』の回を読み終わる。都から落ちて海の近くに移動しても、女のことと景色のことだけが描かれていて徹底した雅だと思った。

20221009

日記45

昨日
昼頃から家でボードゲームの会。18じゃんけんとカルカソンヌを2回ずつ遊ぶ。18じゃんけんは、シンプルなルールの駆け引きのゲームだが、対戦相手に「完璧に心が読めた」と言われつつ負ける始末。カルカソンヌは最適な行動が半々ぐらいでしか取れない中くらいのAIみたいな冴えない動きを繰り返した挙げ句の連続2位。
KOCを見る。とくに好きだったのはネルソンズとロングコートダディと最高の人間だった。とくにネルソンズはこれまでそんなに好きでもなかったが、結婚式のネタがかなりよくできていて好きになった。和田まんじゅうの表情と声の表情における表現力の高さが一番発揮されるシチュエーションを上手に作り上げている特大お神輿感と、乗ってるもののしょうもなさとが一際つよいコントラストを成していたように思う。しょうもないものが乗っているほど作り込まれた神輿が生きるというあり方が自分の好みに合った。ロングコートダディの兎も同じで、声の良さと特定の場面での動き方の表現力がかなり良かった。人数の関係でお神輿感は少ないものの、テンパったときの自我と真っ白とのせめぎあいがリアルを超えて超リアルだった。二組とももう一本見たかったのに残念だった。最高の人間はベストのネタを見れたと思うから満足した。
KOCのあとはさらにひとり合流して終電近くになるまでお酒を飲んだ。今の部屋にある席を全部使う5人での飲み会になり、はじめまして同士も発生し賑やかな感じがあった。長い時間お酒を飲んでいたから疲れてしまっていたのが若干悔やまれる。

20221006

日記44

源氏物語は「須磨」の回。どういう顛末かよくわからないまま光君が海辺に流されていく。何通りかの別れ。死別では諦めもつき、次第に忘れてもいくが、そうではない離別の場合、近い場所にいるのに会えないと思うと会えないのがよけいに苦しい。たしかにそうだ。


源氏物語370p

左大臣の邸を出ていく光君を女房たちがのぞいて見送った。西の山の端に傾きかけた有明の月はたいそう明るい。その月に照らされる、優美で、輝くばかりにうつくしい光君が悲しみに沈んでいる様子には、虎も狼も泣いてしまうに違いない。


同381p

泣き沈んでいた女君は涙をこらえ、いざり出てくる。その姿が月の光に映えて、はっとするほどうつくしい。自分がこうしてはかなかったこの世を去ってしまったら、この人はどんなに寄る辺なく落ちぶれていってしまうのだろうと思うと気掛かりで不憫に思うが、深く思い詰めている女君をいっそう悲しませてはいけないと、

「生ける夜の別れを知らで契りつつ命を人に限りけるかな

 (生き別れることがあるなどとは思いもせず、命のある限りは別れまいとあなたに幾度も約束しましたね)

頼りない約束だった」と光君は口にする。

「惜しからぬ命にかへて目の前の別れをしばしとどめてしがな

 (もはや少しも惜しくないこの命にかえて、今この別れを、ほんの少しでも引き止めておきたい)」

女君は応える。いかにも、そう思わずにはいられないだろうと、このまま見捨てていくのは本当に心苦しいけれど、夜が明けてしまっては世間体も悪いと思い、光君は急いで出ていった。


このあたりのすれ違いも、関係の数だけ恋があるのではなく人の数だけ恋があるのだと思わせられる。片恋がふたつ。

20221004

日記43

昨日
先々月から飼育をはじめたモンステラに久しぶりの水やり。根腐れを恐れて水を3週間近くあげていないせいかいよいよ葉が内向きになってきたのを見て、予定の水やり日よりも日程を早めて水をあげた。
水やりのペースは間違っていなかったようでその後モンステラはどんどん葉を増やし、部屋内の緑の割合を高め続けている。

今日
仕事後スタバで源氏物語『花散里』の回。短い章ながら、このことに一章を割いているのは全体を見通したときに効果的なので長編小説の手くだとして見事だと思う。紫式部は参考にした長編小説を三冊挙げるように。
この二日間何をやっていたのかこれではほとんど思い出せない。しかし、書けるだけは書こうという意志を感じる。書けるときに書けるだけというスタンスを忘れないようにしたい。現状とくに負担になっているというわけではないが、それは小説という一段上の負担があるからで、それに比べたら日記を書くのはむしろ楽しみの部類だ。

20221003

日記42

週末土曜は自宅でボードゲーム会を開いた。四人で酒を飲みながらだらだらと。ドミニオン、カタン、カルカソンヌ、コードネーム、ウボンゴ、スマートスピーカーにキーワードを言わせるゲームをして昼から晩までボードゲームに興じた。途中、スイッチでグーにゃファイター、水中探検、エセ芸術家。「帰れ鶏肉へ」亡命ロシア料理をふるまった。
おいしい新潟の日本酒を持ってきてくれてそれを飲みながらなごやかにボードゲームをして楽しかった。日が近いと楽しかったことを楽しかったと書くことをしない癖が自分にはある。何かしらの評価をして印象を自分の書いた方向に固定したくないという意識が働くのだろう。
ボードゲームが一定以上にうまい人あるあるなのかもしれないが、自分のプレー意図を共有してオープンにするというプレースタイルをしている。それによって自然にコミュニケーション場面が増えることになり、まわりにさりげなくそのゲームのコツを習得させるという効果もある。しかも笑顔を絶やさず、できる男だなとつよく印象付けられた。面白い人だったのでもっとぐいぐい行って友達になりたいというメッセージを送るべきだった。

日曜は夕方まで家にいて下北沢にでかけた。昭和レトロの雑貨屋で、いろいろの商品を見ているなかに掛け時計があり、祖父の家や祖父が営んでいた電化ストアを思い出した。
昭和レトロについて懐古ができることは財産だと感じる。Z世代に対する明確なアドバンテージだ。

鎌倉殿を見てからBSの番組を続けてふたつ見た。培養肉などのフードテック関連の技術紹介番組と『弱虫ペダル』を読んでるトッププロロードレーサーの番組。全力を出すしかないと快晴の顔で言い切っているのがとにかく印象的だった。
こういう見た番組の情報は一年後の観点でいうとかなり貴重だ。これだけの情報でもちゃんと思い出せる。これからの日記にも活かしたい。しかし坂道をのぼるロードレーサーの意味はわからない。なんでそんな苦しいことをやるのか。マラソンランナーとかもそうだが。


今日
メルカリで買ったテレビ台が届いた。立派なオーク材の、元値がテレビより高価なテレビ台。
50型のTVより高いんだからおそろしい。50型のTVが乗るサイズだから大きいのはあるけれど、それでも。
在宅勤務が終わってからスタバ。源氏物語は「賢木」の章を読む。

いつもより酔っている光君の顔は、たとえようもなくつやつやと魅惑的である。薄い直衣に単衣を着ているので、透けて見える肌がひときわ輝いていて、年老いた博士たちは遠くから見て涙を流している。


涙のわけがわからないながら、画を想像するとなんだか凄い。

感極まって涙を流すというのはあることだ。ただ、ここでいう「感」というのは自分の想定よりもだいぶ広いんだろう。

20220930

日記41

仕事後にスタバに行くことがルーティンになった一週間だった。働いていないときのほうが時間はあったのに、そのときはただただのんびりしていただけだった。働くと時間が減るけれど活動的になるので、結果、活動時間が増える。活動時間が増えるより時間が増えるほうが望ましいけど、本当にそうかと訊かれたらちょっと言いよどむかもしれない。
何かで小忙しくしているとその活動の余勢を借りてわりとスムーズにやりたいことに移れるというのはある。働いていないときには一速で発進することに結構なエネルギーを使う。やりたいことをやるのは簡単だが、何もしていない状態から何かをやる状態に持っていくときにはやらなければならないというのが、強制力があり考える余地がない分ラクなのはラクだ。
新しい仕事なので吸収できる新知識が多いのが良くて、ログインボーナスみたいなものかもしれないけど。まあ、一時的だったとしてもそういうボーナスが無いよりは有るほうがいい。
知っている現場の数が増えるというのはそれぞれの職場を相対化できて良い効果がある。その場のルールには従わなければならないのは変わらないんだけどあくまでその場のルールにすぎないと冷静になれると従順でいるのもそこまで苦にならない。
源氏物語「葵」の回。光源氏の光源氏たるゆえんというか、その真骨頂があらわれた回だった。まず「二年がたった。」という書き出しに痺れた。

何ごとにつけても、実際に逢うと想像よりすばらしいという人はまずいないのが世の常なのだが、つれなくされるとますます惹かれるのが光君という人の性分なのだ。


気に入らないことがあると聞こえよがしに恨み言を述べるスタイルもだんだん可笑しくなってきた。引用部分もどう考えても軽く当てこすっているし、作者の書きようが秀逸で、紫式部に興味が湧いてきた。作者に興味が出るのは俺が小説にハマるときのパターンで良い兆候だ。
著者が意地悪なことを言うと、読者はそれを共有してもらったという気になって、ますますついていこうという気持ちになるんだと思う。対象を描くというのはそれを指差すことで、読者も一緒になってそれをくさしている感覚になるから共同意識が芽生える。悪口のコミュニケーションにもそういうところがある。意地悪を書くときと違いがあるとすれば悪口を書いてしまったら逃げも隠れもできないところ。同じ悪口でも、逃げも隠れもできる状況でやるのと逃げも隠れもしないでやるのとでは大きな違いがある。読者が共感するというのと著者が描くというのとにも同様の大きな違いがある。

20220929

日記40

今日は曇っていたものの最高気温が25度、最低気温が21度と、最高の気候だった。
在宅勤務での仕事後に『メイドインアビス烈日の黄金郷』最終話を見た。メイドインアビスを見ると想像力の拡張が起きる。見えないはずだったものが見える。演出が冴えすぎているので、それぞれのキャラクターの行動をあとで振り返らないとおそろしいほど簡単にいろいろのことを見過ごしてしまう。すごく力の入ったアニメだと思う。音の表現が格別に良いためヘッドフォンでの視聴推奨。今までとちがい悪役がいない分、物語の凄みが増している。
メイドインアビスにとにかく感動したのだった。感動する度合いが大きいと、かえって素っ気ない記述になってしまうものなのだが、それでも感動した・良い作品だということを伝えたいという気持ちがあふれてくるので、文章として体裁の良いものではなくなってしまう。短くてなおかつ言いたいことを中心に書くというやり方で書かれた文章が伝える内容は多くない。
まず良さの源泉がどこにあるかというと、無常観のわかりやすい隠喩にあるというのは間違いないだろう。それは穴という形で作品の土台の位置につねに置かれている。この作品における穴への冒険では、現実の現実感を超えての「If」を存分に繰り広げることができる。これはSF小説を読んでいても同じことが起こるもので、現実の生活の内部から伸長する物語というのは、物語のほうを軸にして物事をみる場合にはかなり限定された内容しか表現できない。そこのところの蓋を取るというか天井を外すことで、この生活の中でたまに(しかし本質的にはつねに)感じている無常観・不条理、終わるという許しがたい性質について、かなり大胆に考えてくことができる。それを指して「想像力の拡張」と言っているのだが、これはどこからどこへの拡張かと言えば、生活から生活外への拡張ではなく、インナーワールドのさらなる深化というものに近いのではないか。さらなる深化と言うともともとあったものを見出すという響きを持つが、そこのところはなかったものがあるようになった探索の結果として捉えたいために、拡張という広がりを持つ言葉のイメージを使いたかったのだった。
理外の理というものを仄めかされるとコロッと参ってしまうという性質が自分にはある。不条理に対抗しようとするときにたよりになるのは理内で研ぎ澄ませていった理ではなく、一見して理の外にあるように見えてそこにも別の形式や則によってリーズナブルに感じられる理だと感じるからだ。地球の中に未知の生物を発見しようというのではなく、宇宙にそれを求めようとする素人考えにも似ているが、とにかくアウタースペースにはそういった余地があり、余地がある以上はそれに期待しないではいられないという話だ。フィクションがなぜこんなにも自分を満足させるのかという問題もある。これもすこし考えてみると明らかに、外に答えを求める心性からきているのだろう。なんだかんだで自分は、現実を世界の内側(この世界)として考えている。しかしこれは自分にとって逸脱するべき考え方なのではないか。唾棄すべきと言わないまでも、いつまでもそれを当然のこととみなしているべきではない。外に抜け出すためにやるべきことをやらなければならない。

20220928

日記39

今日は何と言ってもお掃除ロボットによって姿見が割られるという事件があった。
細かなガラス片はお掃除ロボットであるルンバによってあらかた吸い取られたが、吸い残したガラス粉は人間である私の手によってきれいにするよりなかった。コロコロを転がし、テープを剥がし、コロコロを転がし、テープを剥がしというのを都合三回繰り返し、ようやく鏡の破片はきれいさっぱり片付いた。
ルンバは今も元気に稼働してくれている。

その後、バックスに行って文章を書いたり、えんしろのカクヨム小説を読んだり、源氏物語を読んだりした。
えんしろのカクヨム小説は昨日発見し短編集のほうを今日読み終えた。円城塔に憧れて、こんなふうに書けたらなと夢想するようなショートショートぐらいの分量の小説が円城塔本人によって書かれてあって、血は争えないなと思った。まあ親戚とかではなく本人なんだけど。漱石が芥川の『鼻』を激賞したときの「こういうものを2,30並べてみなさい。世の中に比類のない作家になれます」というコメントを思い出した。師匠やってないどころかいち読者なんだけど。
えんしろのカクヨムでのショートショートはわかりやすく面白いと思う。今日、Xを見ていると(一年前のこの頃から想像もできないことだがtwitterは名称をXに変更した)、円城塔が円城塔賞を開設したと発表していた。1万字以内という制限があったので自分は応募できないが、レギュレーションが変わったら是非出してみたい。(レギュレーションが合わないことにすこしホッとした)

源氏物語は「花宴」の回。

冠に挿すよう桜を渡し、ぜひとも舞を、と幾度も頼むので、断ることができずに光君は立ち上がり、静かに袖を翻すところをひとさし、申し訳程度に舞ってみせる。それだけでも、だれも真似できないほどすばらしく見える。左大臣は日頃の不満も忘れて涙を流す。


舞い手の光源氏はまあさすがという場面なんだけど、なにげに左大臣の感受性が際立ってすごい。いつも誰かが袖を濡らしているから泣く事自体はそんなに珍しくないけど、日頃不満があるにもかかわらずちょっとの舞を見て涙を流すのは目立ってすごい。

日頃のストレスで不安定になっていただけかもしれないが。そのストレスのもとは源氏なんだろうから穿った見方をすればまあマッチポンプだ。

意見の表明

ここで意見を表明することについての意見を表明しておくと、気軽に意見を表明するべきではないとは思うもののそう言うことはどうも憚られるし、気軽に意見を表明できるべきだと思うところもある。
私の意見では、意見は固定されるべきではなく、むしろ状況に応じて変わっていくべきだ。
問題は変化のスピードと頻度であるかもしれない。そうころころとむやみに意見が変わっていくのはさすがに良くないでしょうと言われれば、そんなことはないと思うけどなと言い返したくなる。そんなのは単なる無定見だよと言われるとしても、意見を変えたり、考え方を改めたり翻したりすることは無制限にできるべきだと思う。意見を変えるということを重視して、無理やり、思ってもいないことを言い出すのが良いとは思わない。しかし、他人にそう誤解されようと、自分が何かをべつのように思い直したのであれば、遠慮なく思い直すのが良いと思う。
そういう意見の変更が可能な環境が守られるべきだと思う。社会の意見よりも個人の意見のほうが小回りがきく。問題の解決のために余計な衝突や摩擦を避けるためには、そういった小回りの良さを見逃すべきではない。
ある特定の言葉を使うと、対抗するイデオロギーがぶつかってきそうになる。そういった事態は避けたい。また、そういった言葉で味方を増やしても仕方がないと思う。イデオロギー対立をしたいわけではない。私という個人は、イデオロギー対立をのぞまない。なんだか勝ち目が薄そうな気がするし(「味方」の人たちはだからこそ結束しなければならないというだろう)、対決になった時点で、意見の変更ができる環境が失われるからだ。
私のような考え方がもし多数になれば、社会はうまく立ちいかなくなるかもしれないが、もしそうなったとしても、社会がうまく立ちいかなくなる要因がそれだけということはないはずだ。それに、社会としてはAと考え、個人としてはべつのように考えるということは可能である。いやしくも意見である以上、社会の意見と個人の意見が一致している必要はない。
個人は、衝突や摩擦を避けて賢く生きなければならない。
選べるものが少なくなっていくのなら、それに対応して、そのなかでマシだと思える選択をしなければならない。
問題はあるが、それに引き摺られてはならない。問題の近くにいる人がそこから離れていられる環境を用意しなければならない。問題を含む環境づくりを推進しようとする個人にむかって、本当のところこのやり方は良くないかもしれない、ひょっとしたらべつのやり方があるのかもしれないと思わせるように誘わなければならない。
そのためには、真剣に問題に向き合うのではなく、問題と十分な距離を取ることが必要だ。社会は問題に向き合い、問題に取り組まなければならない。そして個人は、問題を横目に見つつ、自身の周囲にある素晴らしい毎日を謳歌しなければならない。
そんな環境では満足できないという嘘つきにも、それでは謳歌できないという弱虫にもなるべきではない。立派な成功例となって、言葉ではなく態度で、自らの優位性を示すべきだ。相手から自らの側を擁護するにはそれしか方法がないというのが今の私の意見だ。

20220927

日記38

日中は少し暑いが、カラッとしていて、ものすごく天気のいい日だった。部屋に置かれたモンステラも、ベランダに干した洗濯物も、それぞれ太陽の光を思うさま吸収していい香りを放った。
15分間で時間を切ってメモ書きをする試みをNoteで始めた。書く文章の分量に重きを置くためには、書くための場所も複数用意するのが理にかなっているはずだと思う。
バックアップツールVeeamのマニュアルを読む。大した複雑さも持っていないソフトを複雑に見せようと苦心しているように見える。自分がちゃんと理解できないのをツールのせいにしているのも半分あるが。
源氏物語を読む。紅葉賀。頭中将とやり合う場面があって面白い。藤壺がつらそうにしていてかわいそうなのに、あいかわらず光氏は自分の恋心に苦しめられていて能天気なようにみえ、たしかに太陽のようだと思う。かなわぬ恋に苦しめられるを存分にやっている。

239p
光君が何か一言でもかけようものなら、なびかない女はまずいない。だから光君はそうしたことがおもしろくも思えず、色恋沙汰は起こしていないようだった。


これは心理学に落として言えばまさに「カリギュラ効果」だろう。高貴な身分の人間には珍しくもない心理。

太陽といえば加山雄三が思い浮かぶ。紅潮した頬と朗らかな笑顔。

21時からサッカーを見るためにワインのお誘いを諦める。開催時期もあってあんまり盛り上がりそうもないワールドカップを盛り上げるのは自分自身の心がけしかない。そのために必要な強化試合だ。

20220924

頭と感覚の乖離

頭で考えることと感覚的に思うことのあいだに乖離が見られる。

両者は、向こう側が見えないほど離れているわけではないが、簡単に行き来ができるほど近いわけでもない、

と言いたいところだが、乖離とは言っても実際に離れているのはほんの少しの距離でしかなく、余裕で行き来ができるほど近く、何だったら一見して区別がつかないほどぴったりくっついていると言える。しかし、仔細に見れば噛み合わせが合わない。すこしズラしてみたところで噛み合うことはないとはっきりわかるほどには確かな隔たりがある。ここで言う乖離とは大体そのようなものだ。

そして、頭で考えることと感覚的に思うことについて、前者は論理的に考えると言い換えられる。だが、傍から見てあまり論理的だとは言えなくても自分では頭で考えているつもりになっているということもあり得るし、そういった自己認識も含めたある程度広い意味において、それを頭で考えていると言い表したい。それは感覚的に思うということに対置する、主観に欠ける思考のことだ。主観に欠ける思考というのは、わたしが感覚的に思ったまま言い表したものであり、実際にどこかの頭の中にある(と考えられる)論理的思考には「この思考には主観が欠けている」という認識はないかもしれない(し、あるかもしれない)。とにかく、一方からは、主観的なものと感覚的ではなく没主観的なものとしてそれらは区分けされ、もう一方からは論理的なものと非論理的なものとして区分されたりするものだ。

以上のことは、感覚的な思考/論理的な思考という二分法で捉えることができる。

そして、上のような大雑把な区分に従うと、書かれた言葉というのは頭で考えたことの表出ということになる。そのため、誰かによって書かれた文章を読むとき、「頭ではわかるんだけど感覚的に腑に落ちない」という反応が生じるのは当然のことだといえる。それがある程度以上に複雑な問題であればなおさら、どれだけ出来の良い文章に対してさえ違和感は発生する。感覚的な思考は、自身以外の思考を排他的に扱う。ある程度以上に進展した思考に対して、感覚的思考は、「わからない」という感覚を引き起こす。しかし、「わからない」という感覚を言葉で表わすとき、素直に「わからない」と表現されることは稀である。立場や思想がある人は、それを「おかしい」と言ったり「間違っている」と言ったりする。慎ましやかで穏当な言葉遣いをする人であれば「違和感がある」と言うかもしれない。違和感がある。便利な表現である。感覚に有利な言葉遣いである。

そして、自分自身の感覚に忠実であろうという傾向を持っている場合、忠実であろうとするほど違和感は大きくなっていく。いや、違和感が大きくなるというより、違和感自体は頭側の努力によって小さくなっていくのだが、それに反してその存在感は膨らんでいく。誤ってシャツにつけた小さなシミがどうしても気にかかるように、小さな違和感がどうしても気になるという状況へと落ち込んでいくのだ。

  • 複雑なものへのアプローチにおいて感覚を捨てまいとすること、どんな状況下でも感覚的な受容を経ようとすることは、感覚への忠誠心を100に近づけようとすることだ。平時にインタビューすることは忠誠心の高さを量る役に立たない。かなり分の悪い状況下でも自分のやり方を捨てないかどうかで忠誠心の高さは量れる。


複雑なものを複雑なままに取り扱おうとするのは、頭よりも感覚の領分であると考えられる。頭で考えるというのは、全体を取り扱うことが可能なサイズに切り分けたり、切り分けた部分を操作することである。感覚的に思うということは、対象の複雑さによらず、ただ思うということで、分類したり区分けしたり対象に働きかけたりすることなく、全体があればそれを全体のまま受容する。

感覚によって全体を捉えるのは操作するのを諦めていることだ。事象について反応を返すということはあっても、それ以上のことを起こそうとはしない。逆に言うと操作するつもりで感覚によって全体を捉えるということはできない。

そうは言っても、諦めるにしても働きかけないにしても、そういった傾向があるぐらいのもので、それらが徹底されるということはない。頭で考える場合とは違って、ある傾向を伸長して徹底させるということは感覚には不向きである。そして感覚的思考におけるある傾向を伸長させるということ自体、矛盾とは言わないまでも無理がある。意図して伸ばした部分は取ってつけた部品のようなもので、その部品は頭で考えたことの産物であるため、最後のところで感覚にはなじまない。


感覚的に思うということの内側にとどまっているかぎり、そこにあるのとはべつの思考に対する違和感は無くならない。さらに、いちど得た違和感は制限なく膨らませることができる。おかしいのではないか、なにかがおかしいという思考にとどまって、どこがどうおかしいのか、何がおかしいのかということへ進展せず、違和感をただ違和感として表明し続けることができる。理路整然とも思える営業を数時間にわたり受け続けて、それでも何かがおかしいと直感が働くように、頭で考えられたことに対する違和感はどこまでも機能する。これはひょっとすると安全ではないのではないかという本能に基づく拒否感もあれば、それまでに培った習慣的思考や姿勢によって違うと判断することであるかもしれない。NOへといたる経路は複数あり、客観的にはそのうちのどれかが原因とみなされることになるが、感覚的に思うことにおいては、そのどれかを選ぶことはもちろん、理由1、理由2と区分けすることもできない。そういう状況についてそのまま言い表そうとするなら、違和感があるということになる。どこに?と訊かれても、それはわからない。ただ、どこか違和感がある。

それとは反対に、感覚的にわかるということもある。わかると思うときに、まるで頭を通していないかのように、書いてあること・言われたことがわかると思うようなことがある。講演会に出かけて、2,3時間のあいだひたすら頷きを誘発された挙げ句、帰ってから講演会の内容を訊ねられるとほとんど何も答えられないということがあるように、わかるということが、その場かぎりの反射反応にすぎず、他人が自信ありげに理路を辿っていっているのを見てなんだか快く思うだけのことが、無性にわかると思われるということがある。わたしが小説を読んで面白いと思うのは、この手のわかるという感覚によるところが大きい。新たにわからされたことや、わかるの確認や再確認がもしなかったとすれば、小説を読む動機はないとさえ思われる。そして、このときのわかるというのは厳密な意味での理解というよりは感覚的なものである必要がある。それらは両立し、どちらも欠けていないほうが望ましいものだと考えられるが、それでもどちらかを選べと言われれば迷う余地なく感覚的なほうを選ばねばならない。

感覚的にわかるということ抜きに、理解だけのために小説を読むことはできない。小説にかぎらず、あらゆるものを受容する際に同様だ。


何かを否定したり拒否したりするときには、その理由であったり、個人的なものであってもその経緯を説明できなければならない。もしそれができないと、他人からは、控えめに言っても、フェアではないと思われる。とはいえ、いついかなる状況下でもわれわれはフェアでいなければならないというルールは存在しないので、個人的な事柄については、私たちは諾否の判断を自らの手のうちに持っているし、その判断次第で身勝手なやつだと糾弾されたりしないで済むケースがほとんどだ。他人との利害関係が生じる判断はそのかぎりではないかもしれないが、われわれが日常で直面する判断のうち、少なく見積もっても半分以上は、そういった利害とは無縁の、より些細で重要な判断である。

誰かにいちいち説明したりしないけれど、その場その場でたしかに発生している判断で日常は埋め尽くされている。それら日常の判断と公的に何かを言うことのあいだには乖離がある。もっと言えば(感覚的に言う割合を強めて言えば)、そこには乖離がなくてはならない。

これを反対側から言うと、公的な言動について、感覚的なものだけに終止して許されるということはありえない。たとえば誰かの何かの言動に対して否定なリアクションをするとき、違和感があるとだけ言って済ましているわけにはいかない。

もちろん、何かを言っている気になるために、当たり障りなく言うつもりで「違和感がある」と言うにとどめることは可能である。しかし、その意見の表明には、当人には考えつかない「返り」がある。ひとつは発言力が弱まるというもので、本人以外の他人からすれば、そういう意見に聞くべきところが少ないのは明らかであるだろう。もうひとつは感覚が鈍るというもので、こちらのほうが深刻な影響があると考えられる。感覚的な思考というのは、それを作り出し、それの内側にいる当人の中では最強のものである。あまりにも感覚に従った言葉遣いをすることは、感覚自身にとって危険である。感覚的思考は「それでよし」とするところで終了する思考である。どれだけ回り道したり迂回ルートを通ったとしても、最終的には「よし」へと至るほかない。だったら余計な手数をかけずに最短コースをとればいいのではないかというのはもっともで、それなりに論理的な考え方だが、じつはそれは正しくない。なぜなら感覚は走らなければならないからだ。感覚が感覚として機能するために、感覚は走らなければならない。身体がじっとしていても、精神的に落ち着いていても、感覚が何かを見つけたときには、そこに向かって走らなければならない。感覚が何かの対象に向けて走ることを指して、感覚すると表現することができる。すべての実務において有効な「効率的ショートカット」は、感覚を走らせるためには有効とはならない。RPGをやっているとどこかのタイミングで「ファストトラベル」の能力が手に入ることがあるが、それは煩わしい移動を省略できているようでいて、実際にはゲームの作業的側面を亢進させることになってしまうように、ある刺激を効率よく受けたいがために、簡便なシステムを作成しそのとおりに動くというのは、それによって得られる刺激を最大化するかもしれないが、感覚を最大化することにはならない。むしろかなり大きく損ねてしまうのではないかとも考えられる。誰かに向けて「違和感がある」と言うことは、本人の中では言ってやったという感じが強くするものだ。そう言い放ったところで、まったく足を上げていないため、言い返される余地もないかのように思える。しかし、対社会的にも、本人が思うより無視されている(無視されていく)ことは間違いない。そのうえ、さらに悪いことには、感覚が感覚として機能するための足場が用意されず、感覚を走らせないで放置することにつながる。私たちが楽しいという感覚を味わうためには、しかるべき条件を整えなければならない。それなのに、記憶をたよりに行動をパターン化してしまったり、簡単な方法ばかりを取って最適化を極めてしまうというのは、感覚を得ているようでいて実際には損ねていることに直結している。上り坂があったり、障害物の岩が立ちふさがったり、飛び越えられないほどの谷に道を阻まれたりしないということは、感覚を走らせないで囲い込むようなものである。そこまで極端な例を挙げないでも、しかるべき距離を用意してあげないまま安易に感覚を喜ばせてばかりいると、外側にあるすべてが対象外となってしまうおそれがある。実際にはすべてが対象であるべきという感覚だけが持つ傲岸不遜さ、最強であることに由来する傲慢さこそが感覚的思考の本領だというのに。



日記37

昨日
雑司が谷まで室内楽を聴きに行く。墓参り以外の理由で雑司が谷に行ったのは初めてという気がするけど、以前にも墓参り以外の理由で雑司が谷に行ったのは初めてだと思ったことがあったような気もする。思っていたよりもたっぷり演奏時間があり、ちゃんと昼飯を食べていかなかったせいもあり、最後の方は空腹でへろへろになる。寝不足ではなかったからつよい睡魔には襲われなかったのは良かった点。今後も聴くことがないような曲を聞けたのがよかった。とくにアゲイの『5つのやさしいダンス』が明るくてよかった。終演後、副都心線で原宿まで行って、比較的安定感のありそうなケバブ屋でケバブとビールを腹に入れる。食ってすぐどこにも寄らずに下北まで移動。リサイクル家具屋をチラ見してから、本降りの合間を縫って帰宅する。ドミニオン対戦をやって(1勝2敗)、お好み焼きを食べて寝る。作りたての温かいご飯は美味しい。

20220922

日記36

過日
チームラボを見るため豊洲に行った。美術館のようなアトラクションで、小さい頃にデパート屋上のボールプールに喜んで放り込まれ、飽きることなく遊びまくったのを思い出した。
やっぱり最初の水の衝撃が一番すごくてそれ以降はふんふんという感じ。テンションが上がっている人たちをところどころで見るのが面白かった。あとはでっかいボールを押すことで発生する意図するのと意図せざるのとが半々ぐらいずつ分有されたコミュニケーション。

新しい勤務先が豊洲になった。業務用PCを受け取りに初日だけ出社。2日在宅勤務をしてすぐ連休入り。半年のブランクにとって慣らし運転にもってこいの一週間だった。それにしても前回の連休につづき、今回の連休にもべつの台風が来るということで呆れる。夏休み中の大学生じゃあるまいしカレンダーを見て動いてほしい。
ここには都合二ヶ月しかいなかったので一年後の今はもうとっくに退社して、一緒に働いていろいろ教えてくれた人の名前も顔も思い出せない。このときに支給されたPCはべつの誰かが使っているのだろうが、その人は一体どんな人なんだろう。しかし、貸与されるPCは場所を移るごとにボロっちくなっている。

源氏物語は若紫を読み終えたところ。つまらない揶揄などしたくないが、光源氏は恋の憂さをべつの恋で晴らそうとする。あくまで自然にそうなるんだろうとは思うが、やっぱり「なんで?」と疑問を抱いてしまう。自分が純愛イデオロギーに肩まで浸かっていることを思い知らされる。価値観のちがいは大きいが、置かれた状況には共通点もある。身の回りに血生臭さがなく平和だということ。彼らはとても条件の良い環境に置かれているが、環境からもたらされる特有の心情を余さず表現しようとしている。享受したものについて表現したいという欲求がある。その欲求は虚構世界ということを抜きにしても自然に思える。
この考え方はずっと変わらない。三つ子の魂百までと言うが、そこまで極端ではないにしても、思春期の恋愛経験はその後の恋愛観のかなり多くを規定するにちがいない。まだ恋愛なんかしなかったケースのほうが、のちのち凝り固まった考えにならないで済むのだと思う。べつにそうだったら良かったとは思わないし、何だったらこれで良い、これじゃないと駄目だと思う。こういうふうに言うと強がりめくような気がするのはやっぱり僻みなんだろうか。

20220914

『源氏物語』の分岐点

源氏物語 149p

ということは、あの女童は、兵部卿宮は藤壺の兄、なるほどだからあのお方に似ているのかと思い、なおいっそう心惹かれ、我がものにしたいと思う。人柄も気品があってかわいらしいし、なまじっかの小賢しさもないようだし、親しくともに暮らして、思いのままに教育して成長を見守りたい。


源氏物語(角田光代訳)を読んでいると、上のような一節に突き当たった。昨今の高い衛生観念が反映された物語にばかり親しんでいると、主人公がいまの時代から見てあきらかに非常識なことを言うのが気になる。創作物に対する「正しさ」の観念について、私は、寛容というか気にならない方だと自認していたのだが、どうやらそれにも限界があるらしい。しかも自分自身で思うよりずっと近く、すぐ近くに天井があったようだ。

しかし、源氏物語の主人公である光源氏は、自らの希望が他人からすれば非常識と受け取られることを自覚しており、上の願望を女童の近親者である僧都に伝えるにあたり、私のこの申し出が通り一遍のものと受け取られると間の悪い思いをさせられることになりますが……などと付け加えることを忘れない。これは要するに、自分の申し出はあくまで特別のものであって、そこらへんの有象無象どもの願望などとはいっしょにしてくれるなと申し添えているのである。

ここで特別のものであるというその根拠は自らの高貴な生まれにあると、他人はそう解釈することを光源氏は理解している。それを理解したうえで、そこらの有象無象どもといっしょにしてくれるなと言うとき、彼は自らの想いが凡百のものではないと主張しているのだ。つまり、ここには例外的な想いがあるのだと、自らを取り巻く環境を利用しつつ、自分が置かれたシチュエーションのなかで堂々と言い切っているのだ。

他人の判断の根拠が自分自身がそう捉えている根拠と同じであろうとなかろうと、光源氏は気にしない。答えは自分の胸のうちにあればそれでたくさんだと言わんばかりの、ある種傲慢なこの主張は、小賢しいというには大胆にすぎるし、豪胆というには理が勝ちすぎる。

中庸といえば聞こえは良いが、つねにほどほどのところをわきまえ、自分が望むものにむけて最短距離で進むことを許された男の恋物語が面白いわけがない。他に面白い物語がない社会にあっては面白く読まれもするのだろうが、幸運なことに現代はそんな時代ではない。むしろ物語はありふれ、あふれるほど量産されている。物語があふれた現代において、源氏物語が今なお読まれるとすれば、ある社会、ある環境におかれた個人が、何をどのように求めるのかという、思考実験的な側面があること、さらにはそこに現代に通じるリアリティが見られることに依るだろう。

時代精神という言葉があるとおり、個人が考えることの大部分は、自らが所属している社会に規定される。どれだけ社会の意見から距離を取ろうと意識したところで、つい同じ言葉遣いをしてしまったり、自分の意見というものが(趨勢へのアゲインストであれ、諦観の末の判断であれ、)社会の意見に包摂されていることに気がつくだろう。自己内で完結する自己対話においてさえ、社会の考えが内在化されていないということはありえない。極端な単純化によってピントが合わず、ということはあっても、まるごと無視して済ませるということはできないのである。

だから、他人は(あるいは社会は)こう思うだろう、自分の言葉を自分の意図とは違うように受け止めるだろうと知りつつも、それに引き摺られることなく、自分が思うことを言い、それによってできるかぎり自分の望みをかなえようとするのは、個人にとって欠かせない必要な手管である。そして、その必要を満たすために、他人の自分とはちがっている見解を利用するのは自然なことだといって問題ないように思われる。

問題は、その見解の違いをどこまで許容するのかというところにあるだろう。それこそ、光源氏が我がものにしたいと心の底から求める相手は、必然的に、光源氏の想いを思い違いして受け止めることになる。光源氏から見てどれだけものの分かった相手であろうと、どれほど完璧に相手を教化しようと、このすれ違いだけは避けられない。そこで、ならば仕方ない、それでよしとするほかないと考えるほど、光源氏がものの分かった男であるのか、そうではないのかというところに、ひとつの分岐点がある。

この分岐を右に行くのか左に行くのか。それが問題だ。あるいは、いつか通り過ぎてきた分岐において、左に行ったのだったか、右に行ったのだったか。また同様に、そこに見えているすぐ先の分岐について、左に行こうとしているのか右に行こうと考えているのか。

いずれにせよ、そんな分岐など存在しないとは言えない。しいてそう言おうとするのはあたかも、個人も社会もありませんと強弁するようなもので、私と社会のあいだに区分など存在しないと言うも同然だ。一切の区分をしりぞける一種の気分を用いるような場合であっても、私と自然のあいだにと言うべきであるように思う。

しかしながら、光源氏に今言った分岐など存在していないという可能性もある。他人の解釈など考慮に入れていないという可能性である。たしかに光源氏はたびたび、人に悪しざまに思われたらどうしようと不安になったりするが、そんなときの光源氏は他人のことを考えていると思われない。われわれが外聞の悪さを恥じるとき、必ずしも外に目が向いているとは限らず、むしろ自分の内側に埋め込まれた社会の意見にとらわれていることが多いのと同じだ。彼はそういう罪のない単純さを持っているようでもあるし、自分が足を置いているところとは別の水準でものを考えられるようでもある。この二面性は特別のもので、時々に応じた好意的な解釈を招き寄せる特性を持っているようだ。

自分がもし光源氏であればどうするか考えようとするのは必要な手順だろう。その手順において、彼が行なったような不義は絶対に行わないと思う自分がいるとするなら、それは自分がもし光源氏であればという仮定が徹底されていないのを示すにすぎない。光源氏の立場に立って、これまで通りの自我が成立するなどということはまずありえない。その圧倒的な状況によって当たり前のようにほとんどすべてが押し流されるに違いない。それでもなお残るこの私の自我があるとすれば、それは分岐が起点となる。相手が私の想いを私の想いとして受け止めてくれるかどうか。その問題だけは解決されないで残るからである。

20220908

日記35

昨日
演劇を見るために池袋に行く。それなりにつよい雨が降っていたのでびしょ濡れになるし、地下通路は湿気と熱気でむわっとしていて不快感がつよく、普段よりも疲れてしまった。サイゼリヤで腹ごしらえをしてから、途中強すぎる降雨のタイミングで二度ほど雨宿りをしつつ会場に向かう。
演劇は『解除』という題の会話劇で、食肉の慣習が培養肉中心に変化した近未来の話。クリーンミートからの連想で、従来の家畜の肉を「ダーティミート」「ガチ肉」と名付けていたのが面白かった。才気走っている印象がまずあって、若干の反感を覚えないでもなかったが、演者のクオリティが男性俳優中心に高いこともあり十分見られた。これだけのものをパッと書き上げられる技巧に感心する。一方で、言葉遣いは軽薄に見えるのを気にしないほど’素直’、説明もかっちり、しっかり目。客に対する親切心の篤さ(=信用のなさ)が感じられ、ストライクからはやや外れた劇だった。演劇としてよくできていると感じさせられる部分がそのまま演劇的でつまらないと感じる部分に重なっていて、いわゆる”演劇”は自分の好みではないのかもしれないと思わされる演劇だった。
終わってから雨の池袋を歩き回る。悪天候にもかかわらず客引き・キャッチの類が頑張っていた。今どき東京ではめずらしいほどまじめで熱心な歓楽街だ。酒屋で角打ち。二杯だけ飲んで帰る。

今日
朝から三鷹で用事。まっすぐ三鷹まで行って、まっすぐ帰ってくる。吉祥寺にも寄らず。下北沢のスタバでちょっと源氏物語を読んだりなんだりする。帚木を読み終わったところ。光源氏のややひどいエピソードにちょっと面食らう。人の妻を抱えて無理やり自分の寝所に連れ込み、拒まれると、こんなに想っているのにつれなくするなんてひどいではありませんかと批難がましいことを言うのはものすごい。手前勝手の極み。
しかし、光氏はひとりでルールに抗っているのだとなんとか好意的な解釈をしてみる。そうすると、主観主義者として立派なようにも思えてくる。とにかく相手の気持ちがこちらに向くかどうかのシンプルな勝負を仕掛けているのだ。そこには「いいえ」がなければ勝負にならないという考えがあると思う。「はい」はおろか「どちらともいえない」でさえ勝負にならないだろう。光源氏の場合は。
『源氏物語』は光源氏の場合の物語だと受け止めなければならない。「一般的に」とか「普通は」とかいうのはお呼びでないのだ。光源氏には反感を覚えながらも、こういう潔さについては快く思う。そもそもどれだけ不快に思おうとも「一般的な意見」では勝ち目がないのだから、一旦は快いところを快く思い、お茶を濁しておくのが無難だろう。

20220905

日記34

9月に入って気温が落ち着き始めた。日中は暑い日もあったが、8月のような天井知らずでどこまでも上昇していくのではないかと思わせる猛烈さは鳴りを潜め、夕方になると涼しさを感じることも多くなった。
8月末のある日、ケバブをはじめて食べた。場所は目黒の家具通りの店。ケバブ愛好家お墨付き、当たりのケバブショップらしく、私はケバブ運が良いのだと思った。家具通りを一通り回って、家具を買わずに絵を買った。落ち着いた色で抽象画のように見える。キャンバスに油彩で、よく読めないもののサインまでしてある。平面芸術の絵というより、「絵画」という題のオブジェとして部屋に置いてみたくなった。そこから何らかのインスピレーションを引き出せればと思って。
その後、「絵画」は部屋から廊下へと移籍していった。のびのびとプレーしてくれればそれにまさる喜びはない。
新橋の演舞場でスーパー歌舞伎を見た。舞台芸術のひとつの先端に触れたのは間違いなさそうだが、辺縁の色合いが濃く、「傾く」をお題目として唱えている感があった。何でもありなのであれば何でもやればよく、何でもありだと殊更に嘯くのは自信のなさの現れに見える。子供だましとまでは言わないが、文化的観光客向けのライトなメニューだと感じた。シネマ歌舞伎の「阿弖流為」の方が筋も面白く、必然的に舞台も映える。どちらか一方では片手落ちになるという当然のことを確認した。
役者を見せるための舞台というのもあり得るとは思うが、その役者が初音ミクで個人的にあまり興味引かれなかったことも大きい。
『NOPE』が面白かった。映画の形式を使った映像体験の提供という側面がつよく、IMAXレーザーがあってこそという感触があった。『DUNE』のときにも感じたことだが、話の筋は「圧倒的な映像と音響」によってはるか後景にしりぞいてしまう。筋が面白くないわけではないが、優先順位がはっきりしているとは思う。舞台芸術は、壮麗華美を盛り盛りにする方向では映画には決してかなわない。どころか相手にもならない。ハード面で音響に差がありすぎる。演劇はおそらく筋で勝負するしかない。
「静かさ」という逆方向の効果を生み出せるという点で、音響の観点でも戦えるかもしれないという思いつきがきた。
源氏物語を読み始める。高校生の頃におぼえた反感は今も現役だが、蓋をするということをようやく覚えたので、とりあえず読み始めた。蓋をしたままでは感じないのではないかという懸念があるのでどうなるかわからないが、「帚木」に入ってかすかに滑稽味を感じたのでこの後はもう大丈夫だという気がする。もうひとつの目的、言葉狩りもあるので気負わずにつらつらと読み進めたい。
結局、光源氏が死んでしまってから読むのを止めてしまった。いつか思い出したいときにでもつづきを読もうと思う。
日が落ちて涼しくなったので、これから代官山のブルワリーまでリアルゴールドを味見しにいく。
今でも麒麟(キリン)の春谷(スプリングバレー)は最高(ベスト)の麦酒(ビール)だ。白も良いが赤が好き。

20220823

日記33

今日
ICCでやっている原寸大ゲルニカの8K上映のイベントに行った。
ピカソはピカソ美術館で見て以来二回目の鑑賞だが、今回原寸大のゲルニカを見て、ピカソが評価されている理由、その魅力を理解できたように思った。
ゲルニカには画面いっぱいに動物たちと人間たちが描かれており、彼らはおなじ機能不全に陥っているように見える。その口は大きく開かれ何かを言っているようでいて、意味のある言葉を発することができない。また、目は見開かれているものの何かを見るということができていない。目が見えるのに目に映ったものが像を結ばない(=何も見えない)ように仕向けられているというのは、目が見えないこと以上に残酷な仕打ちだと感じさせる。なぜそうなるのかといえば、そこに全体を同時に脅かすほどの大きな脅威があるからだ。
人物画のなかには、絵に描かれた人物がこちら側を見返してきていると感じさせるほど、まなざす力のある作品もある。それらの作品を見ていると、絵画世界にとっても「あちら側(われわれからすればこちら側)」というものがあるということを絵の人物が知っているようにさえ思われてくる。それとは反対に、ゲルニカの人物たちは、あちら側というものにはまったく想像が及ばず、その可能性も奪われているように見える。動物はもともとその可能性を持たない(あるいはかなりの程度制限される)。生きるということを要素のひとつとして、しかもそれだけを俎上に載せる場合、動物と人間とのあいだのひとつの区分は失われる。われわれが絵を見るとき、絵の側から見返されることなど絶対にないと感じるとするなら、おそらくそれは許しがたい不均衡となる。たとえば、ぬいぐるみを見て、それに生命が宿るという想像が一切断たれているとすれば――私から見ればそれこそ「想像の世界」なのだが――、そこには何をもってしても埋められないほどの欠落があるとみなされる。その欠落はある種の精神性とは共存し得ないものだ。
苦しみの大きさのゆえに、そういった見る機能を奪われている人物や動物を、絵画作品としてこちらから一方的に見る羽目に陥っているという事態がゲルニカで起こっていることだ。見えるが何も見えていないというのは、想像も記憶もできないはずのことなのだが、私はそれを想像できるし、そういう記憶があるように感じられもする。
私は、私なりのスケールで、なにかに追い詰められた経験を持つ。そのとき、何も見えないまま虚空を見るように何も見ていなかったり、自分が何を言っているのかわからないままただ声を出していたり、とにかく狭いところに閉じ込められてじたばたしていたような感触だけが残っている。そうした感触が仲立ちとなって、本来であれば想像できないものを想像させるのだ。可能であるはずのものが不可能になることを表すというのは、不可能であるはずのものが可能になることを表すことと同じではなく、両者は異なる表現である。しかし見方を結果に寄せるのであればそれは「反転する」ということを表していて、ON/OFFのように切り替えられる内容となる。しかしON/OFFの操作が可能になること自体、外側からの視点を必要にするもので、もしOFF状態になれば、あらかじめそれを予期していたり、何かしら保険を打っておかないかぎり、ふたたびONへと戻ることはできない。その閉じ込められた状況を描いているのがゲルニカだ。
だいたい上のようなことを考えゲルニカを見ていたが、そういう目で見ると、絵の中に例外的な「目」が見えてきた。描かれたものの並びのなかに例外がひとつでもあれば(ゲルニカにおいてはこちらをあちら側として見る目がひとつでもあれば)、全体の印象がそこを起点にぐるりと回転してしまう。ゲルニカでは牛の目がその役割を果たしていた。見えているものがあるから見えていないものがある。見えているものがなければ見えていないという事態は意識にのぼってこない。それらは別々のものとして並立するかぎり、つねに比較の対象となる。動物たちと人間たちを並立させるのは人間たちに優位な部分もあれば、動物たちに優位な部分もあるということを示すためだ。認識能力が制限されていることによってスムーズに流れていく認識があるのだといえる。
絵のなかにあって、ある状況に立たされて、「見ているからどうだというのだ、見るから何だ」と言われると、答える言葉を失ってしまう。それに、絵の人物の口からほとばしり出たのは、うめき声ではなく誰かの名前や意味ある言葉だったかもしれない。考えれば考えるほど、想像しようとすればするほど、想像などできないという感じ方が強まっていく。限界はあっという間、すぐ先にある。想像することなど全然不可能だという感じが際限なく強まっていくなかで、ただ見ている牛の目は、それに蓋をするように働きかけるようだった。目の前に高精細8K映像としてある大きな絵に圧倒されながら、その絵をもう一度見てみようという励ましになった。それを見て何かを言う必要に迫られるわけではないし、牛がしているようにただ見てみようと思い、牛の目を見ることが、絵を見ようという意欲に変わるのを待った。

20220820

面接こわい

面接面談それに類するものがとにかく苦手だ。
通常の会話や対話であれば得意とは言わないまでも苦手ではない。
しかし、こちらが低い椅子に座り、向こうが高い椅子に座っている状態での対話、あるいは、こちらがひとりで向こうが多勢での話し合いとなると苦手だ。反対に、こちらが高い椅子で向こうが低い椅子、あるいはこちらが多勢で向こうが無勢での対話であれば苦手とは思わない。要するに自分が下風に立っている状況下での会話というものに苦手意識を持っているという話だ。
おそらく最初は誰だってそうで、プレッシャーに晒される経験をしつつ、ちょっとずつ面の皮を厚くしていくのだろう。自分はそういう経験を避けてきたからいつまでも(いまだに)苦手なままだ。とはいえ年齢を35まで重ねると、望んだわけでもないのに面の皮だけはきっちり厚くなっているようだ。実際にテーブルについて話すことはないと分かっているときには種々様々な多くのことについて全然屁とも思わない。かくして、順境では不遜、逆境にはとことん弱いという残念なメンタリティが醸成されていく。さらに恐ろしいことには、まあそんなものだろうという開き直りが今までよりもスムーズに展開できるようになっている。伊達に35年間生きてはいない。
しかし、実際困るのは、面接面談の機会が自分の生活から消滅しないことである。
この前も、面談の必要があって、面談を行なった。近頃の面談は対面式ではなくインターネットを通したリモートでの遠隔式が多く行われ、今回行なった面談も遠隔式であった。画面越しのやり取りとなるリモート面談では、体感で五割ほど緊張が緩和される。仔細に見れば、ピーク時の緊張はほとんど従来どおりなのだが、その時間は短い。また、対面式に起こりうる「緊張の助走」がないことで、ピークそのものも下降傾向にあるといえるかもしれない。
こういった追い風を背にして、いまだに緊張するのはなぜなのか。なぜなのかと問いかけながらそれを解き明かす気持ちはまるでないのだが、何かがおかしい、おかしいはずだという確信めいた思いがある。ただ、それをつかんで観察しようという気が起きずに、いつまでも恐怖心相当の扱いをするのが常である。喉元過ぎれば熱さを忘れる式の知恵が充分に発達しているため、やおら持ち直しては、すぐ寝て忘れてしまう。この痛い経験を反省材料として次に活かすということがない。

それでも「成長」したなと自分事ながら思うのは、面談に際して事前に準備をするようになったことだ。20代のときには面談が嫌すぎて、将来確実に起きる面談という事実をできるかぎり無いものとして過ごそうと決意していた。ああ言えばこう言うという想定問答も独り相撲じみて馬鹿らしいと思っていたし、嫌な出来事にかける時間は少なければ少ないほど良いという信念があった。将来確実に起こることであっても、今この時点では起きていないわけだし、気を紛らわすための方策はいくらでもあると思っていた。そして、気を紛らわすことは実際にできた。その時から好きなお酒はあったし、良い友人たちもいたからだ。
今は楽しいとき以外のお酒を飲まないようにしている。そして気のおけない友人の数はがくんと減った。だから、面談を明日に控えた夜などには、考えたくない面談のことなんかをつい考えてしまう。それでもできるだけ考えたくないと考え、さして見たくもない動画を見るのだけれど、さして見たくもない動画なだけあって集中して見ることにもならず、ややもするとまた明日のことを考えてしまう……。
ただ、何度も緊張していると緊張にも特徴があることがだんだんわかってくる。そのひとつに、自分より緊張しているように見える人がいると緊張が和らぐというものがある。受け答えができていない人がいて、自分はそれよりはマシだと思えると、驚くほど気が楽になる。覚えのある人もいるだろう。

その日、囲碁の最年少プロが誕生したというニュースが流れてきた。電話でその話を何気なくすると、受話口から「そのニュース知ってる。記者会見でぜんぜん喋れていなかった。小学3年生だとちょうど喋れる子と喋れない子で二分される時期だね」という情報が漏れてきた。自分は通話を切るとそのまま記者会見の動画を検索して、10分31秒ある長めのダイジェスト版の動画を見た。考えないでも答えられるような簡単な質問にもたっぷり時間をかけ、ほとんどマイクでも拾えないほどのか細い声で短い返事をするだけの動画だったが、そのときに自分が見たかったものがまさにそれだった。
今回の面談は、小学3年生の最年少囲碁棋士のおかげもあり、おもに精神面で入念な準備ができた。見も知らない人から良い影響を受けられること、見も知らない人に思いがけず勇気を与えることもあること、この世界では他人に影響を与えあって生きていけるということは、それだけで素晴らしいことだ。人のふり見て我がふり直せというときの「人」というのは、必ずしもネガティブな役回りだけを含意するとは思われない。この言葉における人と我というのは、人同士のつながりにおけるバリエーション(多様性のひとつであり、今回の件で自分はその紐帯をたしかに実感した。
しかし、いくら精神面では万全だと思っていても、面談で言うことがはっきりしていなければ、その付け焼き刃は脆くも剥がれ落ちる。つぎは精神面の準備とあわせて、それ以外の準備もやってみようかという気になった。

20220813

海の思い出

東京に住み始めたのは秋だった。それから季節が三回めぐり、夏がくるたび気持ちは自然と海に向いた。海なし県で生まれ育ったから、今でも海を見るとテンションが上がる。小田急線一本で江ノ島に行けるというアクセスの良さは、それまでにはなかった海との距離感だ。自宅アパートからはじめて海を見に行ったとき、これはいい、毎週海に行こうなどと思ったものだ。
実際の頻度は年に2,3回というところに落ち着いたのだが、それでも行こうと思えば行ける距離に海があるという感覚はこれまでにはない解放感を夏にもたらした。水道水の蛇口の横にビールサーバーのコックを附設したとは言わないまでも、それに近いブレイクスルーが生活に導入された感があった。
海は見て良い。水平線の単純さと波のかたちの複雑さを交互に見ていればそれだけで満足できる。水平線は心に思い浮かべやすいから、本物を見ないでも満足できそうなものだが、視界に入り切らない水平線を目の前に配置すると、そこにはやはり写真で見るのとは違った感覚が入り込む。逆にいえば、青色が視界を埋め尽くすときの強い印象を抜きに「海を見た」とは言いづらい。
そして波は単調さが良い。ちがう形のバリエーションを何度も繰り返す。ひとかたまりの水が順に押し寄せてきてしかも尽きることのないという感触が、ある種の催眠状態へと誘いこむ。いろいろのことは終わるし、いろいろの中には私を取り巻くすべてが含まれているから、余計な気をもむ必要はないと思わせておきながら、同時に、延々と続く単調なリズムは「終わらない」というメッセージをも発信していて、終わったとしてもべつに終わったりはしないんじゃないかという、言葉にしてみると奇妙な、おかしな気分を持ってくる。
砂浜に寝転がって目を閉じればわかることだが、波の音というのは思っていたよりずっと大きい。海は聞いて良い。
海はひとりで行っても、友達と行っても楽しいが、ひとりで行くほうが海が持ってくる感覚に集中しやすい。ひとりと行くときと誰かと行くときにはコンサートと音楽バーぐらいの違いがある。友達や恋人と行く場合、海は贅沢なBGMやとっておきの背景になる。

この夏、友人と海に入った。私から見ると彼は、海そのものというより海という概念に興味があるように見える。「夏、海に行った」という事実を得たいだけ、と言うのは言い過ぎかもしれないが、絵日記の宿題のためにそれをやらないといけないと思っていて、しかも絵日記を書かないままでいるのが彼だ。そして十中八九言い過ぎではない。砂浜の感触、波のかたちといった海浜で生じる具体的な現象に注意を払っている様子はない。夏だから「海に行く」をしたいという骨筋張った経験主義者に見える。たとえば、私が黙って海を見て楽しもうとしても、いつもの日常の話、電車で1時間半かけて来た場所でいちいちしないでもいいような話をしかけてくる。とりわけ閉口するのは、つまらない質問を次から次にしかけてくることだ。頭を一切使わない発話として質問をされると、こちらでその答えを持っていない場合には、自分の中で展開している思考を止めて、その質問のことを考えなければならなくなる。そもそも「自分の中で展開している思考」などといっても、取り出してみれば海を見て浮かんでくるとりとめもない感想の類でしかないから、取り出して「話題」にするには弱い。だから黙って海を見ているのだ。ただ話題としては弱くても、インナーワールドでは重要なことでもあり、海という特殊な環境ががもたらした感想だから大事にもしたいのだが、それを中断させてくる。たんに無視して済ませるのもむずかしいから、つい釣りこまれて「このあたりを歩いている人は年収いくらぐらいだろうか」とか「土産物屋で浮き輪を買ったらいくらになるだろうか」「ドンキで買ったらいくらぐらい安くなるだろうか」といった話に付き合わされることになる。そういう質問につきあわされていると、この人には海を見て思い浮かべることが何もないのだと判断して問題ないだろう。
この友人とは大学来の付き合いだが、近頃はお金に関する話が増えている。思い返してみれば、当時からシビアな出金管理をしており、今にして思えば、心に占めるお金の割合が昔から多かったのだろうと推測されるが、その頃は私たちふたりとも全然お金がなかったから、お金の話をしようにも「どこどこの居酒屋が安い」とか「レンタルショップで100円セールがはじまった」とかそういう話にしかならなかった。今はアルバイトをしていない大学生よりは所持金が増えたこともあって、具体的なお金の話ができるようになったこともあって、面白くもないお金の話を毎度展開されるようになった。自分としては、お金は嫌いではないし、もしたくさんのお金を作れる身分であれば、お金の話も面白くなってくるのかもしれないが、そんな実績も展望もないのでお金の話は楽しくない。そんな実績も展望もない身空で、よくも得々と、飽きもせずにお金の話を続けられるものだと感心する。また、上記に付随して彼の口から「客として金を払っているのだからこういうことはやめてほしい/このぐらいはやってほしい」という大学時代には決して聞かなかった台詞が聞かれるようになった。これは切なくもある。
私は、わざわざ1時間半をかけて海に来てまでやるほど「お金の話」に興味を持てない。そして考えてみるとおそらく、彼もそこまでつよくお金の話に興味があるわけではないだろう。ただ、それ以外のことに興味を向けることができないだけなのだと思う。目の前に海があっても、概念としての「海」に用があるだけで、それを仔細に見つめてみるという発想もなく、海に行ったらやると決めていた「浮き輪で波に揺られる」を実行に移そうということ以上の思惑がないのだろう。だから、いわば退屈しのぎで頭に浮かんだことを考えなしに口に出し、それが正真正銘・真正直なだけに「このあたりを歩いている人はいくらぐらいの年収だろうか」という台詞となって飛び出してくることになるのだ。
しかし、そんな彼とても、七里ヶ浜のビーチに到着し、いつもより高く波打つ海を目の前にしては否応もなしに興味が海そのものに引きつけられた。それを証拠に、背負っていたリュックをブロック塀のところに放り出すが早いか、前々回の海水浴の反省として防水仕様に買い替えたスマートフォンを手に持ったまま海の中に踊りこんだ。くだらない会話内容に比べ、この反応はまったく正しい。海は入って良い。
この日の海はサーファーにとっては好適だろうと思われるやや荒れ模様の波で、太平洋を北上してくる台風のせいか、六波にひと波は首まで届くほどの高さの波がきていた。そして事件は起こった。
海に入って5分も立たないうちに、彼が不安げに「(水着の)ポケットからスマートフォンが落ちそう」と口走ったその次か、つぎの次の波に揉まれた直後、「スマホ落とした!」という叫び声が上がった。夢中になって足元を探すも、スマートフォンが見つかりそうな気配もなく、前かがみになって必死で探すうちにかけていたメガネまでもが波にさらわれていった。すべてはあっという間の出来事だった。それから小一時間、途中少しだけ雨も降る中、波に洗われながら、強い波で浜まで何度も押し戻されながら、極端に弱くなった視力で、足の感触なども駆使しつつ探したものの、結局、スマートフォンもメガネも見つからなかった。
ポケットから落としたスマホが流された瞬間から七里ヶ浜をあとにするまで、彼は諦めずに失くしたものを探し続けた。そのひたむきな姿を見て、私はひさしぶりに腰砕けになった。とくに、連鎖的にメガネを失くした瞬間には、身も世もないほど転げ回り、笑いすぎたせいなのか何故か背中が痛くなったほどだ。雨が降ってきて周囲の人影がそそくさとビーチから引き上げていくなか、雨など物ともせず遮二無二探し続けるその姿には鬼気迫るものが感じられたし、不可能を可能にしてみせるというミラクルメーカーの面持ちをその背中にみた。彼の背中は「見つかるに決まっているさ」と、常よりは言葉少なながらも雄弁に語っていた。
不可能を可能にするんだという心意気は、ときに誰かの心を打つ。波を全身で受け止めるという、海を相手にした極上の遊びをしていると見られたのか、砂浜を歩きすぎる二人組の女から「楽しそう、いいな」という詠嘆さえ引き出した。砂浜に寝転びながらその声を聞いていた私は、こみ上げてくる笑いをこみ上げるままに任せ、その余勢を借りて起き上がった。視界一面にグレーの水平線、そして、さっき見たのとまったく同じ場所で、正面切って波に立ち向かう小さな男の姿が目に飛び込んできた。賽の河原の石積みは、概念としては耐えがたい苦痛だが、誰かが実際にやっているのを見ると、それとはまた違う感慨がわくものだ。感心するというのもある。可笑しいのも当然ある。哀しいというのも含まれる。それらが渾然一体となって現実に具象している。あるいは、因果を入れ替えて、現実に具象しているから渾然一体となって感じられると言ってもいい。

水平線と小さな背中とが作り出す鮮やかなコントラストは、海だけではどうしても作り出せない、この夏特有の美しい景色だった。海にはほとんどすべてがあるが、ユーモアだけは足りていなかったんだなという発見があった。

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20220802

日記32

昨日

引っ越し後の家が引越し前には想像できなかったほど快適でとても暮らしやすい。家賃5万円の最初の部屋からすると3倍以上の過ごしやすさは悠にある。ともすると受け取りきれないほどの満足感が実際に目の前にあり、この暮らしを噛み締めていなければもったいないという気がつよくする。この半年間で社会的なものもそうではないものもふくめ様々な事件があり、現実感が「希薄になる」というより「揺さぶられて輪郭が二重に見える」ようになったのだが、引っ越してからの生活は、そういった現実感覚のブレ・まとまりのなさの「仕上げのイチゴ」のように思われる。私の現実感覚は、私にとっての現実を反映したものに違いないが、現実と現実のイメージがこうまで乖離すると、現実というのは大体こういうものだとする自分の見識の乏しさが露呈したということになる。まあ私はもともと現実についてほぼ無定見にちかいというか、あんまり自信がない領域だというくらいの認識はあるのだが、それにしても全然駄目だったということが明らかになった。あるいは、よく言われるように「現実とは想像を超えるものだ」ということを示しているだけなのかもしれない。この齟齬について自分の方に原因があるとするのは、見る人が見ればそれだけで夜郎自大の気味があるともいえる。

東京に引っ越してきた直後にも現実感のなさはあった。旅行感覚が続いているような。しかし、旅行感覚は2年ぐらい経つと完全になくなった。それでも現実感のなさは続いている。最初の現実感のなさと別物になっているから、同じ現実感のなさとして処理するのが適当ではないけれど、現実はひとつしかないのだから現実感も正しいそれが一個あるだけというイメージに基づいて、それとの乖離感覚が継続している。大体このへんにあるにちがいないという見当をつけた場所を離れず、周囲をぐるぐる回っているだけ?

現実にも現実感にもそれなりに距離を置いている感じで冷淡に接している気がしているが、「現実感のなさ」という観念については好物と言っていい。

小説『ゴジラSP』を読み終わった。アニメの補完になっているのは脇にいる人物の語りで、そこがとくに面白かった。読んでいると、ある登場人物について、当人のポジション・視野からきちんと考えていてしかも賢いと思わされることがあった。皆それぞれ自分自身の限界を把握したうえで発言したり行動したりしている。ナラタケシリーズ・特異点の語りについては”SF的想像力”の駆使というか、ラボ環境での操作という感じでノイズが少ない分、書きやすい(読ませやすい)のかもしれない。「はじまり」と「終わり」が決まっていてその経路を辿るように構成するというのは(難易度や納得度を棚に上げれば)できないことではない。その場合、「それしかできない」ということにしてしまえば、「それしかできない=だからそうなる」となって、「そうなる」ことになる。「そうなる」以上、納得しない余地がない。

「そうなる」ことに影響を受けつつも、それとは本質的に関係ないところで持ち上がる思考のほうに興味をおぼえる。不条理だけをならべても不条理は成立しないというのは、条理に合うことを不条理の隣に並置するということ以上に、条理−不条理とは関係ないものが要請されるという意味だ。能力・機能外の領域がなければ物語は立ち上がらない。

JJが消失する前に言っていたことはアニメのほうで描かれている。会話でのやり取りは、発せられた言葉に対しての現場における最適解以上のものにはなりえない。それによって作られたとりあえずの流れに沿って新たな言葉が導かれるということは起こるが、そうなるともともとの言葉の意味は立ち消えて、その時の暫定版解釈がとりあえずの決定版になる。後々ちょっと引き返してみたい気がして、頭の中で実際に引き返してみて会話の流れを想像するとき、本意とその時点で感じられる別の解釈が生まれるかもしれないし、有耶無耶で不確かな与太話めいた妄想に終止するかもしれない。いずれにせよ、これ以上考えても仕方がないとその都度思い、考えるのをやめては、またふとしたきっかけでそのことを思い出し、考えても仕方がないと思うところまで考えてみて、何かに近づいている感覚を得られたり得られなかったりする、ということができる。

「消失する」というのはそれ自体ドラマチックなアクションだが、それを物語の頂点におかないやり方が自分にとっては好ましい。消失とは無関係に、日常にどっぷり浸かっている状況で発せられる言葉のほうに多くヒントが隠されているという構造を自分の書く小説内にも作りたい。冗長性を高めるための足し算というのは方法だが、それを目的にして何かを書くと、その意図が透けて見えて余計に中身が目減りしてしまうおそれがあるので、感情やアクションを積み重ねていきながら、能うかぎり大きなスケールの模様を描きたい。そのためにタテとヨコの瞬間移動を自在に扱うという意識をもつ。

『モガンボ』を見る。ジョン・フォード作品を2,3本見た上でこれを見て面白さが感じられないならジョン・フォードは捨ててしまってかまわない。そう言い切れるぐらいには面白い映画だった。あんなふうに悔しがったり転んだりするのは、絶妙にキラキラしていて、でも目を背けるほどには眩しくなくて、しかるべき距離は保たれているしとにかく魅力的だ。

モガンボについて検索すると、何でも「紅塵」のリメイクらしいということを知る。ちょっとした符合だけど面白い。


今日

渋谷で11時から『俺は善人だ』を見る。よく似た二人を一人二役で演じるのはいくつか見たことがあるけど、このモチーフに振り回されたりせず、さすがうまく取り扱っていると感じた。仕掛けにさしかかるまでの前段の見せ方も良くて、仕掛けの場面が引き立っていた。『モガンボ』も映画館で見たくなったので19時半の回のチケットを買う。

蕎麦を食ってから下北沢に戻って図書館でレンタル予約した『大いなる不満』を受け取りに行く。『ロウカの発見』は、「科学」と「物語的なものの見方」との関わり方についての風刺画で、主体を個人ではなく集団においているあたりもよくできている。

ジョン・フォードは夏以降あまり見なくなった。が、のちに『フェイブルマンズ』を見たときに「あれがあのJF!」と感じ入ることができるだけの素養をこのときに得ることができて幸運だった。

この時期SFを読んでいるのは何かを得たいと思ってうろついている感じだ。自分の書くものはSFになるのではないかという思いがあった。しかし、書くものについて設定に制限を受けたくないという理由でSFに近づいただけで、SFに対して特別志向があったわけではない。今書いているものもとくにSFではないはず。

20220726

日記31

昨日
吉祥寺の家を引き払って、下北沢の新居に引っ越しをする。引越し業者を雇ってする引っ越しは初めてだったのだが、彼らのテキパキした動きは芸術点が付けられるほどで、プロだなあと感心した。攻撃は最大の防御というか、一気呵成に仕事を終わらせることで素人であるこちらに口を挟ませないのも理にかなっている。ツーマンセルは嵐のように来て嵐のように帰っていった。12時過ぎから荷解きに取り掛かって一日掛かりで吉祥寺分の段ボールはなんとか消化する。かなり捨てたのにも関わらず服が、有り余る服が置き場を探して70Lポリ袋2袋分、とりあえずの配置に取り残されている。新居は以前に比べると広くて収納も多い家なのだが、当然無尽蔵の収納というわけではなく、素人考え丸出しの「とりあえず」で運んでもらった物たちをもっと捨てる必要が出ている。作業を切りの良いところで切り上げ、近所のスーパーまいばすけっとで晩飯とビールを買いに出る。引っ越し蕎麦を食べビールを飲んで引っ越しを祝う。
吉祥寺に住む前にも下北沢に住んでいたため、下北沢にはすぐの帰還ということになった。吉祥寺時間はおよそ1年半しか経っていないが、「吉祥寺」はある程度見て大体満足した。強いて言うなら、位置的にも井の頭公園至近だったため、とくに冬の夜の井の頭公園散歩で感じられる良さが惜しまれる。ふらっと散歩に出かけるときに行き先など何も考えないでも井の頭公園を1周しながら足の向くほうに適当に歩けばいいのは、漫然とする散歩の一番の楽しみで、これからする散歩のお手本にもなるだろう。
下北沢の良いところは、とにかく新宿渋谷に近いことなのだが(最初に東京暮らしで選んだのもそれが理由だった)、前回住んだ経験から言うと景観に優れているというのも大きい。駅前の施設は前回住んでいる最中にもどんどん新しく小綺麗になっていったし、さかんな再開発のエネルギーを感じる。この頃は緑道整備までされてきて、いよいよ仕上げの段階かと思われる。しかし景観の一番は、おしゃれをした人が多く遊びに来ることで、色んなタイプのスタイルやファッションで目を楽しませてくれる。ファッション誌のストリートスナップを地で行くような格好良い人に出くわすのが日常的になると、なにか自分まで格好良くおしゃれになったという錯覚が手に入る。これは他のどの場所にもない下北沢の良さである。

20220724

日記30

昨日

コピスの6Fジュンク堂書店で『ゴジラS.P』を買う。PARCOの1Fシティベーカリーで買った本を読む。

面白い小説というのは、自分が読める小説の範囲内にしかない。外国語で書かれていたり、古語で書かれている文章作品について、翻訳を通してしか読むことができないというのもそうだが、もし自分が文学にまったくの不案内で知的好奇心にも欠けており、読める小説の範囲内で本を選んで満足する本好きだったとすると、文学の正統とされるものや古典的名作とされる作品を素通りして平気だったのだろう。今、芥川賞作家の作品や直木賞作家の作品、本屋で売れているとされるジャンルの小説をスルーしても何の痛痒も感じないのとまったく同じように。

それらがべつのことであり、自分の読んでいないものではなく自分が読んでいて多くの人が読んでいないものの方に読むべきものがあると主張するには、それが古典的名作だから、有名な文学作品だからという理由だけで押していくのは無理がある。それは権威主義ではないかと言われて終わりだ。

しかし、他の言い方はとくに思いつかない。自分が言うとしたら次のようになる。

小説を読んでいるということは、あなたもいつか小説を書くということなのだからそのときの自分の役に立つように、いまの自分自身の外にあるものを探しに行くように習慣づけたほうがいい。

これについては、いいや、私は小説を書く気もないし、いつか小説を書こうという気を起こすこともないと返されて終わりだ。しかし、自分としてはその意見というか言い草には異議を唱える。それは、その人の言う私は小説を書くことはないという意見について、嘘をついているにちがいないと言いたいのではない。そんなふうに上から下に落ちていくように小説を読んで、何が楽しいのだと糾弾したいような気になるのだ。本当には小説を書かないでもいいが、いくらかは自分が小説を書くということを考えないでいて、あなたの人生に小説が必要だということの意味が私にはわからない。たしかに、「書ける/書けない」の問題が「書きたい」の先にある。それにしても「書きたい、だけど書けない」と思っているほうが潔いのではないか。諦めたままで小説を読むことの居心地の悪さを小説を読むことに感じないで、小説が読めるとは思えない。そんな体たらくでも読める小説を読みたいというのであれば、私はそんな小説は、というかそんな読書はつまらないと思う。それは私が現在売れている小説を読まない理由とはちがう。

海を見に行く前日、ピンチョンの『V.』を読み返した。小説全体の中でもとくに目立つ場面というわけでもなく、何ということもないシーンなのだが、スケールの大きさと細やかさの両方があった。ある人物の目線から主要人物の動向が語られるのだが、その人物の物語に対する役割とはまったく関係ないところに彼の生きる世界がある。章の中の一節にしか登場しない人物でありながら、そこだけを読んだとしたら、まぎれもなく彼がこの小説全体の主人公だと感じられる。チョイ役に目鼻をつけて台詞も与えてやるというレベルの話ではなく、これから彼の冒険が始まるのだと思わせられるように書かれている。だが、じつのところ、その場面というのはふたりいる主人公の片割れがいつか誰かの話を聞いて再構成した昔話を思い出しているいわば妄想シーンでしかない。Vの秘密に迫るため、何らかの重要な役割を担っていると考えられている女性と関係している男二人をただ見かけただけの列車の客室係の目線で、男二人の異常さ・冷徹さを描くというのが、この場面の小説内での位置づけということになろうかと思う。

そこにグローバルな視座とそれによるスケール感も乗っかってくるから、本当に敵わないと思わさせられる。しかし、このあたりは非常によく書かれているとはいえ、ある程度勢いで書き飛ばしていると考えることもできる。たとえば『ヴァインランド』では日本人のタケシフミモタが登場するが、それは日本人のイメージとぴったり一致するような登場人物ではない。もちろん、彼も活き活きとして活躍するから、そんなイメージとの一致がないからといってそれがどうしたということでしかないのだが、地中海の多様な民族がまじわる土地のダイナミズムを見せられ、その知らない世界を活き活きと描いているからといって、正確さを含めたすべてのバロメータが途轍もなく高度であるというのは目を瞑ってバンザイするようなものだ。

小説を書き始めてからあらためて読み始めた『V.』は面白すぎる。再再読だから、初読・再読時よりも細かいところに気がつくようになって、よりその面白さを掴めるようになってきたというのもあるだろうが、自分の小説を書いているとピンチョンの書きぶりの特徴がわかる。これはどの作家の作品についても言えることだろうと思うのだが、それにしてもピンチョンの場面の飛ばし方はすごい。一回で全部が入ってこないのだから考えようによっては説明不足だといえると思うのだが、何かを説明している余裕などないのだろう。そもそも数回読めばわかるようになっているのだから説明不足ではなく、たんに読む側の認識・認知能力の不足でしかない。これに関しては数回読み返して補っていくしかない。


家の前の蒙古タンメン中本で五目蒙古タンメンを食べる。ちょうどギリギリの辛さで汗が吹き出たけれど、辛いだけではなくちゃんと美味しかった。15時半ごろから家でSwitchのボードゲームをして遊ぶ。ウィングスパンで一敗地に塗れ、メンバーが増え三人になってから再度海底探検、エセ芸術家で遊ぶ。最後に締めのドブルで勝ちを収め、会がお開きになる。

引っ越しを二日後に控えていたので、遊びながらも準備を着々と進め、大方済む。

このときはわりとよく集まって遊んでいたが最近はTCBのメンバーが揃うことも少なくなって若干の寂しさがある。


今日

近所の町中華「龍明楼」で豚バラチャーハンを食べる。ここは気軽に行けて良い店だった。在宅勤務の折にはワンコインの弁当にだいぶお世話になった。下北沢の新居の鍵を受け取り、アースレッドプロαの蒸散のため新居に行く。エキウエのスタバで本を読んで、吉祥寺に帰る。1年半ほど吉祥寺に帰る生活を続けたが、結局コロナ騒動の最中に引っ越してきてコロナ騒動の最中に引っ越していくことになった。前半はとくに飲み屋などの開拓がろくにできず、ポテンシャルのいち部分しか楽しめなかったのは残念だったが、電車に乗らないでも全部が解決できる便利さは便利だけど、やはり街全体は郊外の域を出ない。それを象徴するのが駅前のバスで、とくに公園口のバスの動線の酷さがいかにも郊外然としており、著しく街の格調を下げている。せっかく井の頭公園があるのに、公園に行くまでの道があんな体たらくになっているのは相当マイナスが大きいということに街作り担当は気がつかないものだろうか。吉祥寺に住むために駅徒歩30分の場所を選ぶ人の足としてバスの輸送力が欠かせないんだとしても、あの狭い道をバスが通るのと、安全確保のために警備員が拡声器の大音量で注意を促す景観は、控えめに言っても前時代的で、みっともいいものではない。

吉祥寺は二流の街であるというのが一年半ほど住んで出した結論だ。一流の街になるためには駅前のバス動線の醜さを解消する必要がある。新宿渋谷まで20分足らずで行けるアクセスと井の頭公園を持ちつつ一流になれないということの意味を重く受け止める必要がある。公民館も各所に点在していてよかった。図書館も街なかにあって利便性が高い。それにもかかわらず一流になれないのは、駅前のバスがいらぬ混雑を生んでおり、通行人をみっともない気持ちにさせるからだ。

20220723

日記29

昨日

市政センターに行き転出届を出す。香港風麻辣麺のファーストフード店で4小辛のラーメンを食べる。

その足で下北沢に移動し、スタバで『失われた時を求めて』を読む。円城塔の『ゴジラSP』が本屋に置いてあれば買って読みたかったのだが、二店舗回って見つからなかった。

永原真夏のワンマンライブを見るため、開場時間の19時ジャストにSHELTERに入る。MCで「無駄について考えている」と述べ、メンバーに対し「無駄だと思うものは何かないか」と話を振っていたのが気になって、その後の二曲のあいだじゅう「無駄」と言われてピンとくる答えを探し続けてしまった。ベスト回答は「2000円札」、挑戦したい回答は「16進数」というところに落ち着き、次の曲からはふたたび曲に集中することができた。ちなみにその曲が本構成のラストだった(その後アンコールでたしか4曲か5曲追加で歌ってくれた)。

ライブを見に来ていた友人らと下北の居酒屋に行って酒を飲み、電車で吉祥寺に戻って井の頭公園を散歩した。

永原真夏の歌は「そうだよなあ」という共感をもって聞ける。ただ聞く自分の側が少しずつ変化して図々しくなり、今では「そうだよな」が行き過ぎて当たり前のように感じられるようになってきた。たとえば「遊んで生きよう」に対しては、生きることがすでに遊ぶことだという認識でいるから、遊んで生きようと聞くと自分の中では「生きて生きよう」に変換されてしまう。ただ、この規模感のトートロジーはいつ聞いても可笑しくて楽しくなる。あと「泣いたり笑ったりできるんだよ」については、こっちも進み具合は同様だが、上のような言ってしまえば雑念は湧かないで、ストレートに共感して共振する。とはいえどっちの体験がどうというのはないし、永原真夏がMCでうまいこと言えないでいた「いわゆる”良い曲”だけが曲じゃない」というのはそのとおりだと思う。良いという言葉遣いをしてしまうとすでに罠にはまっていて[良い/わるい]の二分法にどうしても引っ張られるので、べつの言い方を工夫するべきだとは思うが、それでもじゅうぶんに意図を汲み取れる場の力学があった。そういう場をステージとして作り上げられること自体がすでに達成であるし、そもそも「フィーリング」が伝わっているという事実があるので、うまいこと言えないなんていうのは些末なことにすぎない。

自分が辿りつつある線の軌道を確認するために永原真夏のライブを見に行くというのは私にとってはかなり有用だ。貼された点ではなく不断に引かれつつある線として見られるから、こちらの線との比較や定位がより精確になるという気がする。

20220722

日記28

一昨日
YouTubeの竹脇まりなのエクササイズをやって捻る運動のとき痛めた背中がすこし回復したので予定通り神宮球場にナイターを見に行った。初めてのプロ野球観戦で、野球そのものというより、それを見るために集まる観客と大勢の人を収容する球場のほうに興味があったのだが、神宮球場の雰囲気は期待以上のものだった。夕暮れ頃から段々暗くなっていく様子にも風情があったし、柔らかい風が時折吹いて涼しさが届くのも、目にも賑やかなビールの売り子が通路を行き来するのにも、特有の面白さがあった。一番安い外野席で、周囲を見回しても応援に熱が入るような席ではなかったし、そもそも自分たちが応援したい側とは反対側のビジター席になったけれど、一緒に行った人とゆるゆる会話を楽しむには適した環境だと思った。
試合は取っては取り返す展開で、2−2から2−4になり、たしか7回に村上のHRで2−7になって巨人が負けた。途中、友人の知り合いが芥川賞を受賞するの報に接して驚いた。
帰り道にたまたま同日に開催されていた国立競技場でのPSG−川崎の試合終わりの観客と合流し、おそらく平日にしては普段の倍賑わっていたと思う。信濃町までは歩道に人が溢れているような状況だったが、友人の最寄りである四ツ谷まで来る頃には普段の人通りになっていた。歩いて神宮球場に行って、歩いて帰ってこられるというのはリアルホームの感があり、さすが「一応生粋のスワローズファン」と名乗るだけのことはある。目と鼻の先に住んでいるというのが生粋にかかり、住みはじめて3年ほど経って初めて観戦しに行くしかも事前予約を怠ってビジター席になるというのが一応にかかる。
四ツ谷駅まで見送ってもらって吉祥寺に帰る。球場のビールが半額だったのでつい調子に乗ってグビグビ飲んだ結果、頭が痛くなってしまい、水をガブガブ飲んでから寝る。
球場での野球観戦はこれがはじめてで、その後は結局行っていない。ものめずらしさと一度は行っておきたいという経験主義のためだけに行ったようなものなので、さもありなんというかなんというか。あれから色々あったのかどうなのか、友人は四ツ谷を引き払って北区に引っ込み、自分は吉祥寺を去って下北沢に戻った。TCBは「中央線系人文ユニット」でやっていたんだがな。あとのひとりは三鷹にいるからかろうじてセーフ、首の皮一枚つながっているというやつだ。
そういえば酒の飲み過ぎで頭が痛くなるということをしばらくやっていない。そこまで大胆に飲むということを最近ではやらなくなったというのもあるが、Lシステインを知って酒を飲んだ後に摂取するようになったのが大きい。これはかなり効く。過去の深酒でつらい思いをした自分に教えてやりたい。白髪が増えるという副作用があるらしく、本来は同時にビオチンを摂ってそれを抑えるらしいのだが、白髪が生えていってほしいという願望があるためビオチンは摂っていない。たしかに一年前より白髪が目に見えて多くなってきた。

昨日
朝起きて『失われた時を求めて』を読む。一日中家でだらだらしていたのでヤバさを感じ、18時過ぎに出かける準備をしてスタバに行く。
前日の酒の悪影響だと思われる。

http://s-scrap.com/7850
上の記事を読んで、よくまとまっているなと感心する。名誉の文化・尊厳の文化・被害者意識の文化という区分が面白い。言葉によって議論を先にすすめることができるというのを実感した。私は尊厳の文化を良しとするので今回の論旨には賛成するところが大きい。
ウィル・スミスの件をこのタイミングで取り上げているのも、たんなるスキャンダル熱とは一線を画す物事の取り扱い方という感じがして好ましい。名誉の文化の説明に適していてわかりやすいから取り上げたのだろうが、それにしてもタイミングがちょうどいい。
タイミングがちょうどいいというのは、次から次にくるニュースに押し流されたちょうどそのタイミングで取り上げたからだ。ニュース消費に冷水を浴びせる効果があると思ったのだろう。

マイクロアグレッションに関しては、必要だという気がする。世間の声というものに対して適当な受け止め方をするというのとセットで、個人が個人の立場から見えるものを外に訴えていくというのは理にかなった重要なことだと思うからだ。問題は発信者側にあるのではなく、受け取り側にある。ひとつひとつの事例を話題として盛り上がるために消費して、たんなる吹き上がる熱にならないような工夫があれば良いのだけど、そもそも世間というのは主体性をもたない無責任なものだと考えて、あまり真に受けないようにこちら側で調整するほうが便宜だ。
許せないような怒りを覚える事件はたくさんあるので、こういうスタンスは冷淡に映るかもしれないが、それでも耳を傾けるべきなのは世間の声などではなく、最初に訴えを起こしたひとつひとつの声のほうだ。ただ、被害者になってしまった人がそれによって声を失ってしまうということは多くあるので、当人の代わりに上げられた声に耳を傾けることも必要になる。しかしそれにしても世間の声などに担わせるべきではなく、主体や責任のはっきりした媒体を通じて行われるべきだ。その意味でもテレビのワイドショーなどが世間の声としてSNSの文章を紹介するのはもはや時代にそぐわない。SNSはかわいい犬や猫の動画を紹介するときにだけ使うべきだ。あるいはテレビにおいて2chの意見を取り上げるとき「匿名掲示板ではこんな意見も…」と言っていたように、「Twitterではこんな意見も…」と胡散臭いニュアンスを付加しつつアナウンスすればいい。結局は受け取り側のリテラシーの問題ということになる。そして、個人の感覚からすればかなり遅いが、世間でもだんだんとTwitterの信頼性は下がっているんだろうから、わざわざそれを周知するような努力をしないでもいいはずだ。責任もはっきりしていない媒体が信頼性を取り戻すことはない。著名人の広告か、犬猫動物のかわいい動画のためにTwitterがあるという常識を獲得するために必要な10年はすでに経過している。
このまえテレビを見ていたら「インターネットではこんな意見も」という取り上げ方をされていた。皆が(というのは受け取る側が)SNSやらインターネットの受け取り方を覚えていくというのが現実的な落とし所という気がするし、もうそうなっていると考えていいと思う。若い世代がどう考えるかというのが重要だというふうにいつの間にか普通に考えるようになってしまった。

何だか話がわからなくなったので話を戻すと、マイクロアグレッションには、小さな声が可視化されるというところにその利点と、考えようによっては問題点を持つ。
個人が直面した問題に対して声を上げるという回路はすでに敷設されている。このようなインフラが整備されていること、SNSの拡散機能によって多くの人の目に止まる可能性を持つことはやはり歓迎すべきだ。しかし、ここには声同士が利益相反の関係になってしまうという問題がある。一方が注目されるということは、それによってべつの主張が注目されないことにつながるからだ。たとえば、世間を賑わすような大きな事件が起こると、小さな声が一時的に黙殺されるようなことは起こりうるだろう。
また、問題がたくさんあったり、問題が複雑だったりすると、受け取り側の問題(リソース不足)で反応を得られないことがある。
問題の多くは継続して起こっているものだから、その問題が継続しているかぎりは何度も声を上げることができる。できるというのも変な話だが、「こんな嫌なことがあった」という単発の事象ではなく、周期的に発生する問題や、たびたび困っているという継続的な問題に関しては、継続して声を上げることができる。
SNSには継続的な問題ではバズを引き起こしにくいという特徴がある。面白おかしいこと、突飛で信じられないようなことが注目を集めやすい。そのため、マイクロアグレッションとSNSは、本来相性がわるいといえる。問題の複雑さを切り捨てた、受け取り側の感情に直接的に訴えるような表現ばかりが取り沙汰され、結果的にそういった種類のものばかりが目に見えるようになると、どうしてもそこにある不整合や無理が目立つことになるからだ。しかしこれはマイクロアグレッションそのものに問題があるというよりは、Twitterでよく見るマイクロアグレッションとされる事象やその表現手段に問題があるということでしかない。
困っていて、生活もあるから表現に十分な時間を割くこともできず、お手本となる注目を集めやすいやり方を普段から目にしているとなると、ほとんど必然的に、彼らの表現は一定の形式・ミームに収束されることになる。そうやって量産される文章は、読む人が読めば、どうしても不整合や不要な修飾が目につき、いたずらに針小棒大な、信用できないものだということになってしまう。
マイクロアグレッションそのものに意義があるとすれば、それは個人の置かれている立場やものの見方を立脚点にしているところにある。岡目八目ではないが、問題の当事者には見えずに、当事者ではない立場の野次馬に見えやすい観点があるのと同じで、野次馬には見えず、問題の当事者だけに見える問題もあると考えた方が危険が少ない。さらに、そういった問題は、原則として当人が声を上げないかぎり存在しないものとされるということにも注意しなければならない。自身を取り巻く状況などの複雑さを切り捨てない形でマイクロアグレッションがあると表明することは簡単にできることではないかもしれないが、答えやすいアンケートを作成するスキルなどを用いてフォーマットを整備することや、近親者が問題を聞き取りやすくするために聞き取り調査のスキルを展開することは有用だと思われる。注目されることを求めず、したがって問題解決を一旦棚上げにして、ただ自分自身の立場から見える問題を自身を取り巻く環境とともに列挙することができれば、マイクロアグレッションの意義は小さくない。べつの立場における似たような状況というのはどこかに必ずあると考えられるし、他人ではありながらまったくの他人とは思えないそういう誰かの役に立つこともあると考えることはそれ自体が助けになるだろうからだ。
結局のところ、「弱い立場」についてどう考えるかということだと思う。庇護するべきと考えるのではなく、我が事と考えて(将来的には、生きていられるかぎりは必ず弱者になる)、庇護されるべきと考える回路を自分のなかに引き込むのが重要だと思われる。それは権利意識を持って権利を主張することだが、それを不正だとか、ラクをしようとしているとか捉えることをとにかく止めるべきだ。他人の権利は認められるかぎり認めるべきだ。それでは社会が立ち行かないとか、社会全体がだめになるという主張は、それこそ絵に描いた餅ならぬ絵に描いた壁だ。社会の危機はなんとかなるし、どうにかできる。個人の危機はなんとかできないし、どうにもできないことが多い。それなのにここをあべこべに考えて、社会のためと称して個人を貶めるようなことをするとしたら間違っているので止めるべきだ。「人が社会のために何をできるかではない。社会が人のために何をできるかだ」という逆JFK的態度を各人が身に付けなければならない。生産性はロボットが上げてくれる。それを邪魔しないのが大事だ。

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