20260205

日記715

リメンバー・ミー

2026/02/04 昨日 7558
20時前にスタバを出てすこし外で飲み、ダイエーでサバ味噌缶(はごろもフーズ)と納豆、家人が食べる用の納豆巻きを買って帰る。M1関連の動画がリリースされたので目ぼしいものをいくつか見る。翌日は朝早いので早めに寝る。


2026/02/05 今日 11563
奈良の実家付近にいて近鉄奈良駅から家まで帰ろうとする途中でクマが出たという騒ぎが持ち上がる。やすらぎの道の郵便局のあたりでクマが出る予兆(熊の子)を見つけたその矢先だった。大きな叫び声が上がり、そちらを見ると三条通りのほうに大きなクマが出現していた。大慌てで神社のほうの路地に逃げ込む。その道の先に入ったことのないお堂があり、緊急事態だからということで勝手に門を開けて中に入った。建物の中は外から見たよりかなり広く、電気がつかずに暗いし、迷路のようになっていたこともあり、なかなか向こう側へ抜けられない。苦労してやっと向こう側へ着いたと思ったらぐるっと回っただけだった。案内の小坊主が慌てる我々を見てニヤッと笑ったので敵側の手先かと疑った。ニュースでは街に出たクマは一頭ではなく、クマ軍ともいえる集団で襲ってきていると報じていて、何らかの大きな力が働いていることを思わせた。その後なんだかんだあったあげく急襲を受け絶体絶命になったのだが、都合よくヒーロー視点に切り替わってアトラクション的にクマ退治をする夢に切り替わった。都合の良い夢だと思い緊張感ががくっと下がるのを感じた。突き詰めて考えると絶体絶命のタイミングですでにゲームは終わっていて、愉快な偽記憶を植え付けられているようにも受け取れそうだったので突き詰めて考えるということはするまいと、あえてアトラクションを楽しんだ。急流滑りのようなスプラッシュ系のアトラクションもあって、楽しもうとする分にはなかなか楽しめた。
遅刻したくないのできっぱり目覚めることにして早々に家を出る。時間きっかりより2本早い電車に乗って有楽町経由で新豊洲まで。この日は最終出社日の人に同席しての立ち合いだった。今と比べると社会全体にコンプライアンス的な意識がほぼないような厳しい時代を生き抜いてきた人なので、おとなしい印象のなかにも硬い芯があるように感じられるのだが、物腰がやわらかで丁寧にコミュニケーションしてくれていた。あまり接点がないまま過ごしてきたが、引き継ぎをすることになって一気にやり取りが増え、そのなかで好感を持つようになった。仕事のことについてはとくに言うことはないので「お元気で」とだけ言おうと身構えていて、午後からの仕事でべつの現場に移動するタイミングで最後のあいさつとしてそのことを伝えられたので良かった。ごくシンプルに元気でやってほしい。
大手町に移動してからの仕事は悲惨な状況で、ほとんど何もわからないまま先方の質問を受けては確認しますということを小一時間のあいだずっと繰り返し、目ぼしい成果も挙げられないまま時間切れで解散になるという体たらくだった。大の大人4人に囲まれて、仕事上は質問をしなければならないが、ひとりの人間としてはこの人に追及するのは忍びないという優しい視線を感じて、世の中捨てたもんじゃないなと、すこしホッとさせられた。わからないことはわからないと言うしかない、わからないというのが俺の仕事だ、と割り切って伝えることはできた。最低限の仕事だが最低限の仕事は果たした。
這々の体で帰路につく。ろくにご飯を食べる時間もなかったので帰宅してすぐ冷食チャーハンを食べる。タスクは溜まっているがとりあえず明日に回し、定時で退勤。
デザインと色だけで決めたニューバッシュが到着していた。この日はバスケに行くつもりでいたのだが、足の疲労が抜けていないので行かないことに考え直す。新しいバッシュを履く日には良い感触を得たい。感触がわるいなかでシュートを打っても全体の成功率が下がる練習になってしまうというのもある。これからは毎回の質というかコンディションも調整していかなければならない。というわけでスタバに行き『失われた時を求めて』を読む。ソドムと植物の交接について。人の欲望についてはあまり関心を持てない。人のファッションについても同様だ。自分というものを切り離してそれらを考えることの意味がわからない。意味というかやり方というか。

20260204

日記714

最もオクロック

2026/02/01 一昨昨日 8545
タウンホールのスカイラウンジみたいな眺めの良い部屋で稽古をした。出演場面となる公園を具体的に想像するなかで、幼稚園から小学校まで遊び倒したマンション前の公園を記憶に呼び出した。集中力を高めようとするなかで、肝心のコミュニケートするべき相手役を無視するかたちになってしまい、きれいに本末転倒していて我ながら可笑しくなった。集中しすぎなのかテンパりもエスカレートし、スローモーションで走る場面で手と足がいっしょに出るという面白を演じてしまった。稽古の途中で新宿方面のビルから黒煙があがるのを発見する。火事だった。
自分がやりやすいように、マイペースを崩さないようにとラクな体勢をとろうとして、周囲の援助もあってその通りできているのだが、自分がやりやすいということはその分誰かが居心地わるくなっているということでもあるという一般論があるので、どこに対してそうすればいいのかわからないがもうすこし気を遣うようにしようと思わないでもない。しかし残念ながらこれからは思うような余裕もなくなっていくことだろう。家に帰ったらカレーとその作者が待っていた。我が家はジャワカレーにテーブルスパイスを足したカレー。美味かったのでたくさん食べてお腹いっぱいになりすぎた。それで睡眠の質が落ちる。等価交換、ということでいいのか。


2026/02/02 一昨日 9292
朝から出社。午後から在宅。スタバに行って日記の代わりに演劇経験についての文章を書く。原液感がつよい。もっと散らせるかあるいはもっと突き詰めるか、どちらでもいいがどちらかに方向づけないとどうにもならない。テンションがあがったときに、思ったことを棒大にする作業に集中してしまう。それはそれで楽しいのだが、あとに続くものがないということになってしまう。この日も書くだけ書いて帰り道に酒を飲むという発散になった。ところで坂本慎太郎の『ヤッホー』は良い。楽しくなったし、将来もこれを聞いて楽しくなるだろうことが想像のうちにやってきた。やまびこのように。


2026/02/03 昨日 21870
一日在宅勤務。こういうとき休みが全面に出てほしいのに、たくさん働かされた。無駄な依頼も多い。無視すると倍になる感じなのでいい加減に付き合っている。最小限に抑えられている手応えはあるのだが、それでも面倒だ。鷺ノ宮までバスケに出かける。西武新宿駅に行く途中スポーツショップでバッシュを試着。感触がわるくなかったのでそのままネットで購入した。今回はデザイン重視で選んだ。履いていてアガるというのが機能面を補ってあまりあるという判断だ。たぶん機能はどれもそれなりに高いのだろうし。鷺ノ宮は急行が止まるとは思えないほど、駅前なのにうらぶれた雰囲気で、中学校にむかう道も暗くて寂しいのだが、体育館はかなりきれいだった。参加人数が少ないこともあって出ずっぱりになりだいぶ疲れたのだが、みな上手くて当たりは優しいという最高の環境だったこともあってだいぶ楽しかった。
くたくたになりながら高田馬場乗り換えルートで帰る。家人に駅まで迎えに出てもらい、まいばすけっとで恵方巻ほかを買って帰宅。Vは先に寝てしまっていたが、今年も節分の儀式をした。


2026/02/04 今日 5242
午前在宅、午後から出社。一日働き詰めで疲れた。しかし睡眠時間の確保したことでまあ前向きにタスクをこなし、背負わされた荷物をひとまず置くこともでき、終業後には達成感があった。渋谷経由で下北まで戻りスタバに行く。『失われた時を求めて』ソドムとゴモラ、『八月の光』を読んでから日記を書く。20時前にはスタバを出て飲酒しながら帰るつもり。また『ヤッホー』を聞くだろう。

20260202

死後の世界にいる「私」を演じるということ

演劇プログラムに参加して、舞台で演じるという特殊な経験をしている。

私には娘がおらず、配偶者と離婚してもいないのだが、〈離婚して自由に娘に会わせてもらえない父親〉を演じることになった。演劇の舞台なので、それがどういう場面で、役者としての自分がそこでどういうセリフを言うかというのは決まっている。作・演出のNさんは演じること全体について説明してくれたことがある。それは間違いなく彼の演出のなかでもとくに優れた内容だった。いわば基本のキであり、そのために訳知り顔の評論家気取りの連中にも簡単に引用されそうな内容なのだが、それでもその重要性は揺るぎないものとして感じられる。それはつまり、彼の演出によってそのアイデアが自分のなかで揺るぎないものとして感じられるようになったということだ。とにかく不安を感じがちになる役者に対して、信じるべき灯台の光となるようなことをはっきり言えるということ。それは数ある演出家の資質のなかでももっともポジティブな要素のものだと思う。前置きが長くなったが、彼が何度となく言ったのは次のことだ。
「とりあえず脚本上セリフは決まっていますが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せてください」


私は他人がどう考えるかということについては感じるままに想像する以上のことをほとんどしておらず、どうせ大したことではないのだろうから、いちいち取り上げるほどのことはないと高を括っている。他人がどう考えるかということに対して真剣に併走するのは大変なコストがかかるということを自分に照らして知っているので、そのコストを支払おうという気にはなれない。真剣に考えを尽くしたとしても「そこじゃない」という見当違いが起きるというのも全然めずらしくなくむしろ往々にしてあることで、それも自分に照らして知っていることだ。だから、自分はどう考えるかということにフォーカスして、他人のこと、他人の考えることについてはある程度までと線引きしおろそかにしてきた。そういうわけで「とりあえず脚本上セリフは決まっているが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せる」というのを実践しようとしてまず苦しんだのは、登場人物がなぜそんな事態に陥ったのかというところを〈この私〉につなげる部分だ。私が演じる〈その私〉は、何かがどうにかなり、どうにかなった先でいろいろなことを取捨選択した結果、その立場に位置するようになっているわけだから、それを私にも納得できるようなかたちに成形する必要がある。のっぴきならない事情が重なって、出た目が思わしくなく、疲労が重なった挙げ句、追いやられた先で破壊的な結婚をすることになり、娘を愛していながら自由に会えないという厳しい状況に陥ったのかもしれない。これを真剣に想像することは簡単ではない。しかしそういう人は実際にいるというところから、それをヒントにして自分と接続する回路を、遠回りにでも、か細い線になってでも、つなげようとすることはできる。それに彼は彼で、この私と同じように自分の状況を顧みたとき「陥った」というふうには自分のことを考えないかもしれない。

いずれにしても、この私への接続については「できる」という思い込みを発揮するだけのことにすぎず、結局のところ、いい加減な想像の域を出ない。「普通こうでしょ」という、いい加減で許容しがたい他人の意見と似たものになる。しかしそれは怠惰が鍵なので、他人の考え一般について自分が使っているのと同じ鍵で開けられる。まあ大体こんなもんという大まかな切り取り方で必要十分ということだ。むしろそこから逸脱すると、他人からは容易に認めることができないゾーンに突入してしまうだろう(じつは私はそこへ行きたいのだが、今回の演劇では一旦保留としている)。だから結局、怠惰な想像力で「まあだいたいそんなところ」となる範囲内で調整するのが自分の仕事ということになる。それでも、普段使っていない筋肉を使うときのように身体の動かし方のバリエーションにはなるので、この私にとってもエクササイズ的な良い効果が期待できると思っている。

ところで、より面白いと自分に感じられる仕事は、死後の世界(あるいは生前の世界)にいる場面を演じるということだ。私は死後の世界というものを一切信じておらず、人がそれを信じることも馬鹿らしいと考える点で、他人からは「死後の世界がないことを信じている」よう映る姿勢をとっている。
だから「とりあえず脚本上セリフは決まっているが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せる」とき、死後の世界にいる自分のことを想像するわけだが、その自分のなかでどういうことが起こるかといえば、自分が信じていない世界のなかにどういうわけか入り込んで、そこでまごまごするというよくわからない事態だ。たとえば「現実」というのは信じる信じない以前にもう現実としてそこにあるものだから、前提としての”オフにできない機能”が元々そなわっていて、それをオフにして考えること全般がナンセンスだと思い込ませるたぐいの要素を備えている。私は疑おうと思えばそのことを疑うこともできる。つまり現実の現実性について虚偽だと暴き立てるような態度をとったり、それをフルシカトして自分の思う通りまっすぐ進むということをあえてしたりもできる。私は私次第ではそうすることもできると知っているが、同時に(ほぼ次のページには)そうしないということも明らかに知っている。死後の世界にいる自分を演じるというのはどういうことなのか。自分が演じる死後の世界というのはどういう場所なのか。自分の視点からはその場所のことはまったくわからないのだが、現実の持つ現実性という奇妙な図式を反転させたときのような奇妙さがその場所には漂う。また、外形的な強制力(今回の場合は演劇の舞台)によって、自分が自分の想像の外に置かれるということも起こる。「自分の外にある」という状態は、自分機能におけるコア部分の機能不全にほかならず、自分にとって許容範囲を超えることになるのだが、そのこと自体が次のように想像してみることをトリガーに発生している。
「とりあえず脚本上セリフは決まっていますが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せてください」

私は死後の世界というものを信じていない。そんな私が死後の世界にいる私を演じることができるのだから、これを僥倖と言わずして何を僥倖と言うのか。私は演劇プログラムに参加して、舞台で演じるという特殊な経験をする。蓋し僥倖である。

20260201

日記713

正午すぎのみな味

2026/01/30 一昨日 8073
朝から出社。午後から在宅にするつもりが不要な対面打ち合わせを入れられたので終日オフィス勤務になった。アホウ相手にはアホウ相手用の対応をするだけだが、質問内容が不明瞭な質問をしてきてとまどっているとそんなことにも答えられないのかという態度を示してきたり、何を言っているのかよくわからないなりに汲み取って絞り出した回答に対して食い気味で否定したりして”主導権”を握ろうとするやり方があまりにもアホ丸出しで、話をしているときについ気分が落ち込みそうになった。もっと根本的に、最初からそんなアホウと関わらないでもいいような対応を考えないといけない。まあ普通に考えて遠ざけるか離れるかだ。
定時退勤後、失効直前のマブルスポイントを消費するため原宿までチキンブリトーを食べに行く。NYで食べたブリトーを思い出した。NYの外食が軒並み高すぎるなか、比較的安価でお腹にたまる食事としてメキシカン料理がありがたかったのを思い出した。大学生時代に東京に遊びに行って滞在を安く抑えるために食費を切り詰める、以上の切り詰め方をNYではしていて、あのときのひもじい気持ちを思い出す味だった。なんでも贅沢できる旅行よりも、不十分なところがあったりしっかり制限がある旅行のほうが旅感が感じられる。旅情とまでは言わないが、お腹を空かせて通りを歩く経験というのは都会を旅する醍醐味のひとつだ。
ハラカドの1FにCBDショップがあったのでオイルを試させてもらう。「効果はバツグンだ」というのを期待するのだがそこまでにはいたらなかった。しかしその微妙さを「効果は今ひとつのようだ」と評価してしまうのも憚られるぐらいの効果はあったように感じる。乾燥からくるのか、かるい喉の痛みがあったのだが、その痛みは感じられにくくなったように思ったからだ。いずれにしても知覚に作用するということはなかった。(当たり前だが)
帰って演劇資料として提供してもらった動画を見る。参考にするという観点がすぐ抜け落ちて劇の内容に意識がいくのはさすがの吸引力だなと思ったが、夢中になっている場合ではないと気を取り直しつつ見た。今なんて言った? となるセリフがおぼえているかぎりでは一回もなかったので、彼らは何よりもまずナレーターで、その上に演技の肉付けをしているということになる。なので少なくとも自分に感じ取れるかぎりでは二重の技能を身に着けていて、さらに舞台度胸、記憶力、対応力など、総合的な能力を高いレベルで備えているということだ。さらにその前提をクリアした上で、自分の役者としての個性を発揮しようと苦闘しているわけだから、平手で立ち向かおうとしてもどうにかなるような相手ではない。そんなことは資料として渡された動画を見るまでもなく理解していたことだったのだが、まずいことにそこに実感も加わってきた。自分としては行けるところまで行って、やれることをやるだけだが、ナレーターとしての機能を果たして演劇の成立に寄与するというところで満足するかぎりでは自分が参加した意味はなくなってしまう。何が足りていなくても、たとえ場の成立や違和感のない進行のために足を引っ張ることになったとしても、1ミリでも多く”自分”を発出することを心がけていこうと思う。そのためにはセリフを覚えて、流れを覚えて、すこしでも堂々とした気分でいられるようにきちんと準備をすることだ。結局のところ、ピラミッドの積み上げ方にはそこまでのバリエーションはない。土台から頂点へとすすんでいく手順は変えられない。



2026/01/31 昨日 21833
朝から新横浜まで出かける。バスケの大会に出場するためだ。身体の不調部分は落ち着いていてほとんど痛みもなく、活躍するぞと意気込んで出かけたのだが、一番乗りで体育館に到着してアップがてらちょっと身体を動かしただけでいつもにはない息切れがある。その時点で嫌な予感があったのだが、まあ朝一番だから、温まってきたら大丈夫だからとシュートを打っていく。ランニング系のアップをしないまま試合が始まると、これが行きの電車で”走り勝つ”と意気込んでいた人間のやることかぁ!? ばりの息の切れ具合。気持ちだけでなんとか食らいつき、押されて押さえつけられてヘロヘロになりながらゲームタイムを消化する。タイマーを見ては「早く終われ」などと、わざわざ横浜くんだりまでのこのこやって来てまでなんで参加しているのか全然意味がわからないことを思う始末。6分ハーフで4試合やって得点は12ポイント程度にとどまり、マッチアップ相手の得点(つまり自分起因の失点)は少なく見積もってもその1.5倍はあり、チームの勝因どころかまったく逆に敗因になってしまった。終始相手ビッグマンのペースのなかで「なんとか付いていく」という意識以外には何も考えられず、こちらのペースにペースダウンさせるという、試合に参加するようになった最初の方に立てていた戦略を忘れていた。そもそも自分はタッパがあるだけでビッグマン的なプレーは苦手なのだから、そこで勝負する、負けないように付いていく、というのは端から間違った選択だ。相手のDFがマンツーマンならアウトサイドに逃げていればそれだけでインサイドにスペースを作れるが、ゾーンDFをされるとその省エネ戦術を使えない。そうするとインサイドに入ってキックアウトし、アウトサイドからのシュートをアシストするというのが自分にできる仕事になるわけだが、当たり負けして面を張るのも成功しない、なんとか入れてもらってもキックアウトするパスの選択と質がよくないと、総じてポストプレイの質が高くないことになった。ただ中で受けて外に出すということに徹してタスクフォーカスすればいいのだが、というかそれしかできない以上それをやるべきなのだが、それは自分のやりたいことではない。自分を殺してチームを勝たせる肚が決まっていない。しかしそんなに大げさに考えなくてもいい。ずっとそれをやるのではなく行き詰まったとき用の突破口としてそのプレーを選択し、それを成功させたあと、そこから駆け引きをすすめればいい。親指ないし人差し指になるようなポストプレーをひとつ持っていなければと思った。肚を決めてポストプレイの練習をしよう。
くたくたになって下北に戻る。帰りの東横線日吉〜渋谷が混んでいたのもきつかった。家人と合流して梅窓のうどんを食べる。消化のことを考えて肉うどんを選択。帰宅してシャワーを浴びて体力を回復させるために30分程度昼寝をする。洗濯機を回してから演劇の稽古に出かける。最初の本読みの頃にできていたセリフの言い方ができなくなっていた。同じセリフを、その時に初めて発した言葉かのように言うのはむずかしい。動くときにも段取りを知っている(段取りを覚えていると)とそのまま”段取りを知っている動き”になってしまう。セリフを言い終えたときにも安堵感から自分のターン終了感が出てしまう。こうやって書き出すといかにも初歩的なミスで、そんなことはやらかさないだろうと思えるのだが、あの場にいると考えることや視野がとにかく極小になって、出来の悪い機械そのままのような動きを本当にしてしまう。あの場にいると、という部分のマインドセットを舞台や稽古場ではなく、演劇の設定した場面に設定しないといけない。これは集中力が必要なのだと思う。本番でいきなりそれを発揮するのは無理があるから、ここから先は一回一回の稽古で集中力を発揮しよう。
パンを一個食べていっただけだったので稽古終わりには腹ペコ状態だった。でもこの空腹感はわるくない。他三名の参加者といっしょに新聞のインタビューを受けた。その流れで駅までいっしょに歩く。四人とも演劇経験はほとんどないメンバーなのだが、稽古が楽しいということで意見の一致を見た。演劇稽古全体をとおして、メンバー同士の距離感は”東京”という感じで、自分にはちょうどいい。もっと仲良くなってもいいのかもしれないが、それと同量かほんのすこしだけ多量の、もっと仲良くなるということはないほうがいいのかもしれないという思いがある。やはりこれが適切な距離感・間合いというものなのではないか。わからないけど。
ダイエーで家人の分と自分の分の助六・いなり寿司、ビールと氷結を買って帰る。ザ・コントというコント番組でロングコートダディの「ネオサイバーアーム」のネタとジャルジャルの「音響のスギさん」のネタを見る。キングオブコントよりも自由度のある”テレビコント”のフォーマットでやりたい放題やる二組の方向性は違ったが、とにかく面白くて圧倒された。早めに寝るつもりが12時すぎの就寝になる。


2026/02/01 今日 2571
7時頃に目が覚める。そのまま起きると寝不足になるので二度寝しようとするもしっかり覚醒していて二度寝に失敗する。仕方ないので9時ごろに起き出してきて出かける準備をして、スタバに出かけて日記を書く。そのまま昼ご飯を食べてから13時からの稽古に行く。全集中舞台俳優の呼吸で場に臨む所存。

20260129

日記712

指示書

2026/01/27 一昨日 20129
練習バスケに参加してシュートを打ち込む。途中早々に足が痛くなってきたのでよくない感覚でシュートを打つというマイナス効果の練習にしないために、有志参加の軽い試合への参加を決める。走り回るということを目標に取り組んだのでとにかくボールに近づこうとする無理なプレースタイルをした。しかしレベルがレベルなのでとくに無理にはならず、それなりに楽しめもした。


2026/01/28 昨日 5612
一日在宅勤務。というか本当は午後休にしたかったのだが、緊急対応のため働き詰めになった。ただでさえ鬱陶しいのに、客との定例打ち合わせに15分遅れて入ったことでうるさい小僧からの「詰め」があった。いつも適当にいなしているがいつも適当にいなしているので向こうもいなされていることには気づいているようで、こちらのいなしについてきて、なんとか詰めようとしてくる。仕事熱心な人だと思うことで「まああいつも頑張っているからな」と自分を納得させるやり方は奏功せず。鬱陶しさが勝ってイライラしそうになる。こういうときに考えないようにしようとするのは逆効果で、べつのことに集中しようとするのもうまく行ったり行かなかったりする。実際、電話越しの気に障る声が耳元に残響するようにも感じられ、わかりやすく言うとストレスだった。こういう消耗をするのは、消耗させてやろうという相手の思う壺にハマることになるのでなんとかしたいと考えていると、逆に相手と仲直りし、むしろ雨降って地固まるのように、一気に打ち解けて仲良くなる未来を想像するという奥義にたどり着いた。この技の真髄は、飲みに行き、肩を組んで二軒目まで歩くというところまで真剣に想像したあとで、その未来を殺すところにある。最大限歩み寄って、こちらから踏み込まないとその未来はないのだが、想像する段階では無際限の譲歩・感じの良さ演出という、虚構内でのみ可能になるポテンシャルの発揮をして、それがすべて成功した挙げ句の最高の未来を思い描くわけだ。そして、それを一切しないという選択を採る。要は今まで通りというだけだが、あり得たかもしれない和解を通らない、こちらからは手を伸ばさないという宣言をして、ひょっとするとひょっとしたかもしれない可能性を葬り去るということだ。想像するときにはその実現に向けてああしようこうしようと考え、計画としてもそれなりに見栄えがするというところまでいって、「いや誰があんなオケラと仲良くなりたいんだよ」と切り捨てる。そのときに胸のつかえがすっと取れた。
あとは昼すぎから行こうと思っていた狛江湯に、退勤後になったが行く。ぬる湯、温冷交代浴、外気浴のローテーションで2時間弱を過ごした。途中ストレスのもとになったオケラがふわふわと湯気のなかを漂っている気がしたが、前述のパージ作業のおかげで”気のせい”で済ませられた。遅れて狛江湯入りした家人と待合で合流する(まったく連絡を取り合わなかったのに寸秒のちがいもなく同時にのれんから出てきて驚いた)。ぷらったでマンデリンのコーヒー豆100gを購入し、狛江ニュースターで一杯やる。家人は昭和オムライス、自分はもつ煮とあとからタンメンをとった。これから覇権を握るAIについての話をする。爆発的な訴求をしてすべての人に行き渡るところまでいくためには”面(つら)”や”インターフェイス”が重要になるという論旨で、猫型ロボットのリバイバルがあり得るのではないかという主張になった。喋る中で気付いたが、そのラインはすでに円城塔がゴジラSPのなかで「ペロ2」として描写している。2021年4月のTVアニメだから5年前の話だ。家人は寝不足が祟って、嘘でも話についてくる気配が見られず。こうまで話を聞かない態度を取られるとむしろ、ということで反骨心(?)に火がつき、帰りの電車内でも気炎を吐いた。帰宅してすぐに寝る。タンメンの消化がされないうちに寝ることになったので胃の具合がわるくて途中目覚めた。そのときにこれは覚えておこうということを夢のなかで思いついたのだが、あの実在感なら絶対に覚えていられると思ってあえてメモしたりしなかったのだが、次の夢を見たことできれいさっぱり流れてしまった。小中高の友人が東京のAURALEE新旗艦店で働いているところに買い物客として遭遇するという夢だった。なんとなく気まずい鉢合わせだった。


2026/01/29 今日 7469
朝から出社。朝から打ち合わせがあり、午後にも定例のミーティングがあったので一日オフィスにいて、やるべき仕事をこなした。定時で帰って荷物を置いてスタバに来る。『失われた時を求めて』ゲルマントのほうⅢを読み終える。退屈退屈で来ていたのだが最後の最後で驚きがあった。日記を書く。

20260127

日記711

道歩め

2026/01/26 昨日 17640
落合南長崎までバスケに出かける。新宿駅から都営大江戸線に乗る。混み具合と乗客の感じが普通の地下鉄よりもより暗く感じられるのは、いっそう深いところまで潜る地下鉄道だからなのか。到着までの20分弱で一気に気が滅入って気疲れした。それでも体育館に到着してボールを取り出すと途端に元気になってきた。新バスケサークルには2回目の参加なのだが、いつも行っているバスケの集まりに比べるとかなり若いサークルだということに気がついた。いわゆるバスケットマンとはノリが合わないと思っているが、年齢に差があると余計にノリの違いが大きく感じられる。しかしとにかくよく走るゲーム内容には満足で、ぜえぜえ言いながら必死で付いていくのはめっちゃしんどかったけど自然なテンションの上昇もあってわるくなかった。あと、特定の人や集団に対して違和感がある場合、その多寡は自分の取る態度にはあまり影響を及ぼさない。つまり一定の距離だ。これはいつも通り。ただ、一瞬のハイタッチ、ナイスパスを受けてシュートを決めるのは楽しい。それで十分だ。帰りも夢モグラに乗って帰宅。


2026/01/27 今日 6712
朝から出社。行きは参考資料の演劇を見る。打ち合わせなどをこなして昼には帰宅。帰りは『八月の光』を読む。セブンで新商品のヤンニョムチキン弁当、キーマカレー弁当を買って帰る。キーワードは「チーズまみれ」。洗濯機を回す。この日もバスケで狛江に行く。2日連続ということで練習回に参加することに。

20260126

日記710

いろんな回収

2026/01/24 一昨日 20683
朝早く起きてバスケにいく。あたらしいバスケサークルへのひさしぶりの参加になった。今行っているところはどこも和やかな雰囲気で不満らしい不満はまったくないので、あたらしいサークルの探索がついおろそかになった。今はPMの時間帯が演劇稽古で潰れるので、AMを活用したいというニーズがある。というわけで高田馬場まで行った。まずシステムがきちんとしていて、”お上手”なバスケプレーヤーもいるにはいるがそこまで多くもなく、強度もちょうどいいぐらいだったので今後の選択肢に上がってきそうだ。行きの道すがら、寒すぎてなのか朝早すぎてなのかわからないが、一瞬背中がピキッとなりすごく焦った。すぐにコンビニに入って水・朝食を買い、水を中心に補給する。体育館に入ってもまだ余韻があったので嫌な気分のまま準備運動を始めたが、徐々に痛みが引いていって事なきを得た。緊張していたのかなんなのかわからないが、筋をいわせる系の故障はこれ以上は避けたい。肝心のバスケの内容だが、小学校のコートでかなり狭かったからかそこまでガチガチの空気ではなく、自分としては呼吸がしやすい環境だったのでOFリバウンドを中心にけっこう暴れた。ただし、ビッグマンの見本みたいな高身長でなおかつがっしりした筋肉質のプレーヤーがいて、彼とのマッチアップでは手も足も出ず、何もできない情けなさを味わった。多分年上か、低く見積もっても同い年ぐらいなので、年齢を言い訳にできず(年齢を言い訳にはしないぞと殊勝な態度をとれず)苦しかった。バスケはチームスポーツなのでね、とこういうときには諦めも肝心で、チームを勝たせるための動きに切り替えなければならない。一応それはできたと思う。
バスケが終わってすぐ高田馬場まで歩く。渋谷経由で新代田まで移動する。渋谷駅から発車する前の電車内に、相手役の俳優のすがたを認める。驚き、目礼をして、足を止めずにべつの車両まで歩き抜ける。人見知りとかそういうのではなく、ただこの日のAMに追加された脚本に目を通すための時間を作るためであって、向こうにはわからないかもしれないが、ちゃんと合理的な理由があったのである。
しかし、演技経験もなく、人前でなにかやるのが好きそうな感じでもなく、人が好きというわけでもなさそうな男が、何を目的に演劇WSに参加しているのかという疑問はあるだろうと思う。それに関しては自分でもよくわからない。目的と言われて、とくに思いつくことはない。昔は俳優の友達が欲しいという思惑があったはずだが、今はそういうことも思わなくなった。何も考えずに適当なことを言えば、もっと自分のことを知りたいということだろうか。嬉しくない内容を知っていっているような、知っていたことを確認しているような感じで、未知だったり望外の何かを手に入れたという感じは今のところまだ得られていない。ただ演劇の稽古自体はいろんな活動のなかでも相当上位に位置するぐらいかなり刺激的で楽しく、俳優という生態の光る瞬間を毎稽古間近で見れている感覚がある。これは本当に見もので、観客の気分に浸りすぎて自分の出役としての立場を忘れてしまうほどだ。何かを凝視しているとそれにとらわれ、自分の身体を動かすときに適した体勢にはならない。それで心の準備がないまま自分の出番がきて痛い目を見たことも何度かある。その痛みと引き換えにしてでも見たいものがあるとすれば、それは稽古場での俳優たちが発する光だ。話の内容はあまり関係なく、ひとつの場面に感動させられることが何度となくある。
18時半過ぎに稽古が終わり、家に帰ると家人のデザイン学校時代の友人たちの訪問があったので、小一時間ほどボードゲームでいっしょに遊ぶ。デザイン畑の人たちと話すのは新鮮で面白い、と思ったのだが、よく考えると家人が以前勤務していたデザイン企画の会社の人たちとも遊ぶ機会がそれなりにあるので取り立てて新鮮というわけでもなかった。自分が一番年上で気を遣わせる立場なのだが、年上と接するのに比べると得意なほうなのでとくに問題はなかった。問題ないコミュニケーションというのはそれだけで意味あるコミュニケーションとは言えないのでもうすこし爪を立てていかないとなという思いはいつものとおりある。わりと酒を飲んだが翌日にも稽古があるのですぐに寝る。


2026/01/25 昨日 7688
前日の酒のせいなのか軽い頭痛があるなか目が覚める。Lシステインを飲んだのに足りなかったのか、酒のせいではないのかはっきりしないが、とにかくバファリンを飲んで対処する。背中を痛めないようにちゃんと運動前のストレッチをしてから、バーピージャンプを含めたフットワークのトレーニングをする。シャワーを浴びて昼ご飯を食べてから新代田の稽古場に向かう。一張羅を着ていった。稽古場での演出担当の人の演出のやり方は本当に勉強になる。自分のイメージを相手に伝える方法としてこれほど洗練された能力はほかにないのではないか。棋士の将棋の駒を持つ手つきが優美なのと似ている。それは本質ではないのかもしれない。しかし将棋の駒とちがって演劇の駒はパフォーマンスを変化させる生身なので、その変化をコントロール下において最大のパフォーマンスを引き出すことが重要になってくる。すぐれた演出家はおそらくその手並みが人並み優れて秀でているのだと思う。
この日は稽古後にまいばすけっと併設のオリジン弁当で晩御飯を買って帰る。友人から借りた『切り裂かないけど攫いはするジャック』を見る。舞台俳優のテンポは早く、とても早口に感じられる。観客に情報を伝達する素子としての能力が高い。本で言うと読みやすくてきれいな文字というところだ。おそらくそれも本質ではないのかもしれないが、それでも重要な部分なのだろう。
もっといろいろやってみる、のいろいろについて、自分の考えつくことの範囲を超えようとするいろいろを、こういう何もしていないときに考えつけるように、ぼーっと考える時間は重要なのだと思う。そうやって自分に与えられた役について考えているとき、俳優として演劇に向き合っているという感じがある。


2026/01/26 今日 5720
朝から出社。行きの電車内で初場所優勝の行方をハイライト動画で見届ける。熱海富士が心底から悔しそうな顔をしていて、この人は嬉しそうなときには本当に嬉しそうだし、役者だなと思った。それにしても安青錦(まだGoogle変換では変換できない)は、横綱ばりの力強さで、絶対に頭を上げないブルドーザーのようだ。ごく近い距離で既視感があると思ったら切り裂かないジャックで角田さんが演じた老人の姿勢そのままだ。ひとつの舞台上で事がふたつ起こることの面白さというのはじつは映像作品にはできない表現で、うまく内容にもハマっていて”見つけた”感がある良い場面だった。
出社して端末を立ち上げたところ、昔のやらかしという名の面倒事が持ち上がって、前週からのタスクの積み残し対応を今週の自分が引き受ける月曜のダルさが霞む。それでもバスケしたさに昼には在宅に切り替える。キャンセル待ちになっていた新サークルの定員が割れたのでバスケに参加できることになる。意気揚々として面倒事の対処・対応文を考える。パートナーとなる担当者が両サイドともに良い人なので、いざとなれば自分がスケープゴートになりますよという前向きさで事に当たれる。こういう気持ちで働くのはとても気がラクだ。最悪自分が泥を被ればいいだけと思っていたら粛々と進めていくことに何の気兼ねもない。定時すこし過ぎに退勤。バスケに出かける。


日記715

リメンバー・ミー 2026/02/04 昨日 7558 20時前にスタバを出てすこし外で飲み、ダイエーでサバ味噌缶(はごろもフーズ)と納豆、家人が食べる用の納豆巻きを買って帰る。M1関連の動画がリリースされたので目ぼしいものをいくつか見る。翌日は朝早いので...