このひととき
2026/02/23 昨日 11598
この日はいわゆる千穐楽だった。結局、家人は4公演すべて観に来てくれて、この日は元職場の後輩たちを連れてきた。自分にはまだ出番があるのに、へなへなと力が抜け、局限性の花粉症にかかったりして大変だった。楽屋で鼻をかみかみ、次の衣装に着替えてから溜まりに降りていく。場所と仲良くなるということができたのかはわからないが、最初に見たのとちがう顔になったような気がする。牙も生えてなければツノも生えていない、ただし、いたって普通というにはやや眩しい、舞台の顔。恐ろしげではあるが必要以上に恐れる意味も必要もない。自分はとりあえずは自分の出来が気にならないというところまで来れたのではないか。これ以上の表現は何をどうやっても自分には(まだ)できない。楽しいとか、楽しかったとかいう必要がないだけのそれがあり、そのことに対する深い満足感があった。やったらやっただけ楽しい。自分は何かを犠牲にしてまでも演じたいという思いは持たないだろうから、これが天井なのではないかという予感がある。それで3年前にもそう思ったように、しばらくは演劇は良いかなと考えていた。ところへ、来年も、今回の作演出がプログラムの作演出を担当するという本当に想像していなかったことが発覚し、終わったと思っていたレールにその先があるということが急に明らかになった。演出と演助に言おうと思っていた感謝の弁を引っ込めることにした。俳優が演出を尊敬しすぎることになる(犬が腹を見せるように腹を見せる)のは、百害あって一利無しだと思うからだ。もろ手を上げて敬意を示すというのはプレーヤーたる者のやっていいことではない。これに続きがあるとわかったとき、即座にまたやりたいと思って、感謝の弁を控える方向に舵を切ったということが結果的に表わすことになるものはあるが、それはまあ仕方ない。自分は自分の感情をそこまで徹底的に管理できない。「またやりたいです」と思ったことを確答しないという中途半端な管理になった。でも今はそれでよかったと思っている。
次回については、自分への”ご褒美”として参加しよう。今回、自分の得た実感として、俳優というのは人の作ったレールに乗って走る貨車のようなもので、創造において”良いとこ取り”をする存在だという気づきがある。それはそれでたしかに楽しいのだが、自分が楽しめる範囲はその外にもあるはずだ。これからも演劇に関わりたいのであれば自分は演出をやるべきだ。すくなくともそれを見据えないまま役者や俳優として活動するのは、単なる気晴らしであれば可だが、そこに傾注してシリアスになるには全然足りない、まさに役不足だ。
というわけで、次回までに自分がやるべきことをやれたら参加するということに決めた。とにかく書かなければならない。何を書くのかといえば日記ではない、小説だ。
それはそうと、役者の人たちとの飲み会は本当に刺激的で楽しかった。とても上手な俳優が「役を自分に引きつけてラクな方へ逃げた。もっともっと役にアプローチできたらと思って挑戦しようとしたけど難しかった」という主旨の反省をしていて、だからこの人の演技は見る者の心に響きを与えるんだと、これが役者としてシリアスに楽しめる、演技を楽しむ範囲が深い人のやり方なのかと感服させられた。あとは、舞台を見ていて自分がそこに立っていないことが悔しくなって参加を決めたという出演者、舞台の上で人に見てもらっていると感じることが楽しいという出演者など、自分には考えられないような視座があり、こういう人たちが俳優なんだと思わさせられた。彼らの横に並ぶと自分は俳優でも役者でもないただの出演者だなと思う。謙遜でもなんでもなく、自分は”俳優でも役者でもないのに舞台に立って演技する人”だ。ある種の舞台にはそういう人にも居る位置があると思うが、その生息域は限られるだろう。
出演者の話で一番刺激的で悔しかったのは、漫画を描いているという人がいたことだ。仕事も恋愛も推し活もやりながら、漫画を描き、演劇にも参加するというバイタリティが何よりも格好良かった。来年も参加するかどうかという問いに対して、「今回の参加にあたっては漫画を描くのをお休みしてその時間を演劇に使ったのだが、来年は漫画を描きたい」という回答をしていて、これこそが自分の言いたかったことだと、言うべきことだったはずだとつい歯噛みをした。自分の描いている漫画についても「よく見せられるね」という同好の士に対して、「自分は見てもらって全然構わない、見てどう思うかはその人の領分であって自分の領分ではない」という主旨のことを言い放っていて、その格好良いセリフと、それを言うとき真っ直ぐどこかを見ているような説得力のある眼差しに嫉妬した。自分が良いと思うように生きている人間の目だ。それは演技が上手いとか表現がどうとかいうのを超えて、同じ志を持つ者にアプローチする。家人の友人が、彼女のどういう部分を良いと感じたのか、くわしく話していないから聞けていないが、たぶんそういう直線の部分を敏感に感じ取ったのだろう。役へのアプローチも、役の”推し”を想像することで、自分が自分の推しを推す感情でまずは繋がり、そこから役に迫ろうとするというもので、なるほどと膝を打つような説得力があった。小細工をせずにまっすぐ最短で迫ろうとする理詰めの部分。そういうところも敵わないと思わせてきた。悔しいというのにしても、せめて悔しいというスタンスをとらないと駄目だろうと思うからそう言ったまでで、本当のところは(現時点では)敵わないということになる。さすがに今回は完敗だ。
2026/02/24 今日 3524
一日在宅勤務。演劇出演者が出演する夢を見る。幼い娘を演じた共演者なのだが、この短さで登場するのはそれだけ自分の中に存在感があるということだろう。なぜかいっしょにバスケをしていて、そこはリングまで異常に遠い倉庫のような場所なのだが、ちょっと目を離した隙に骨折→治療をして再登場した。笑顔で明るく「骨折しちゃいました」と言うので、「どういうプレーで?」と聞くと、相手の悪質なファウルだということがわかって、そいつを見つけ出して復讐してやると思ったという内容の夢だった。あとは漢字の組み合わせで四人分の名前を作れるという、叙述トリックに使えそうだなと閃く夢を見たが、夢現の状況ながら、感じが違うんだったら叙述トリックにはならんやろうとツッコミを入れてから二度寝をした。
仕事は休んでいた分のフォローをしなければならないこともあって忙しかったのだが、とにかく元気が出ない。これが軽度の燃え尽き症候群かと心当たった。起き抜けにインターネット情報で「憲法改正案」というのを見て、その内容が意味する”進みたい方向性”に「え?本当に?」とびっくりしてげんなりしたこともある。
元気が出ないまま働いて、30分ほど残業してからスタバに行く。日記を書く。21時から家人とトリキに行く予定。今回の演劇体験についてはまとまった文章を書くべきだ、が、とりあえずは日記に書く分だけ。まとまった文章については「演劇演出論」的なものになる想定。ややサイズダウンして、「こうやって演出しろ」というTIPS集になるかもしれない。