「世界を測るためにはデータをとれ、自分を測るためには文学を読め」という格言がある。その伝でいけば、私は世にいう傑作小説を読むたびに得意になって「特別面白い」という判定をくだしている。ただ面白いのではなく特別面白いというところに、あえて長い時間を使って小説を読んだだけの甲斐がある。そういった満足を読むたびごとに感じている。そしてそのことで自分自身の感受性について内心の満足を得ている。自分で自分に満足することができるためにはデータより文学が役に立つというのは自分の経験上もあきらかだ。
『罪と罰』は長らくその例外として自分の文学行路に暗い影を落としていた。実際、19歳の夏に初めて読んだときにはその面白さがさっぱりわからず、そのことによって自分に文学は無縁だという臆断をくだすところだった。その後、冬になって首尾よくサンテグジュペリからヘッセへ至る道を発見し、事なきを得たわけだが、あわや文学に閉ざされた人生になる可能性があったと、そう考えていたのだ。しかし最近になって、『罪と罰』を読み直している途中で、その可能性はありそうに見えるだけで実際にはなかったのではないかと考えるようになった。
たしかに、人が文学に出会えるかどうかというところには運の問題がある。ようするに、その人に暇な時間がなければ文学の門は開かないだろうからだ。だから、暇な時間を得られるだけの幸運に恵まれるかどうかという面で、運の問題が頭をもたげることになる。しかし、逆に言えば、暇な時間さえあれば人は文学に出会うことができる。それどころか、世界に対して”自分自身に応じただけの正当な期待”をかけていて、できるかぎり自分を楽しませたいという真っ当な思いがあれば、その人はいずれ文学に出会わずには済まない。
問題は、期待も楽しもうという意欲もその正当さに反して、ひとりの個人のなかで十分持続しないというところにある。原理的にはいずれ出会うことが可能であるとはいいながら、一般的に青年期と言われる短い一時期を過ぎれば、実際のエンカウント率は相当程度下がっていく。もちろん中年から文学に出会うことは可能には違いない。しかしその準備を文学抜きでできる人は決して多くない。そうすると、高齢化で中年以上の人の数は世に多いから、あたりを見渡したとき私から見て”もったいない人生”は無数にあるということになる。
たとえば『罪と罰』を読んで、終始ラスコーリニコフに冷淡・無関心でいられる人間というのは、価値のある人生をおくっているとはいえない。世界に対して与える影響の度合いをもって彼の人生の価値を測るのであればそうも言い切れない、といいたいところではあるが、スケールは際限なく広げていけるものだから、理詰めでいけば最終的にはナンセンスに行き着く。結局、価値ある人生というのはその人生をおくる人自身のなかにしか存在し得ない。どこまで理詰めしてどこから理抜けするかという趣味の問題には立ち入らない。最後まで理詰めにしないのであれば任意の場所を都合の良いように設定するだけ、つまり自己の満足を追求するために便利な位置にハサミを入れるだけの話だ。
19歳の夏、私はラスコーリニコフに冷淡だった。彼の懊悩に共感することは一切できなかった。リザヴェータに対して斧を振るった若者(当時の自分より年上)に、覆ることのない有罪のジャッジを下し、それ以上”犯人”の何かを知ろうという気が起こらなかった。20歳をとっくに越えていてなぜそんな愚かなことをするのかわからないという19歳の夏に特有の態度もあった。
そして、マルメラードフの愚かさについても同じように冷淡だった。不合理な行動をするおじさんについてはただただ不思議でしかなく、あまりにも理解に苦しむ行動をとるために、文章を読み進めるノイズになったほどだ。その結果、マルメラードフの表面上の行動をなぞるだけで精一杯で、彼の悲しみまで視線が届かなかった。今回の再読で自分のなかでもっとも大きく違ったのがマルメラードフの肖像で、彼の愚かさに含まれる悲しみ、あるいは悲しみに含まれる愚かさについて、自分の過去を思い返して思い当たるところが多くなったことだった。いや、多くなったというのは表現が違う。19歳の夏にはゼロだったものが、いまや両手両足で数えても足りないほどに増えた。それは文学作品のなかにもあるし、生活のなかにもある。もとはひとつだったものが分裂し幾重にも折り重なっていくような経験もしてきた。
ラスコーリニコフには、マルメラードフの情けない絶望のどこかしらに、自分自身を重ねることのできる資質があった。今回の再読でそれが読み取れたとき、ラスコーリニコフは私のなかでただの犯人ではなくなった。そこから物語の持つゆたかさが私のなかに流れ込んでくるようになった。一方、19歳の私はリザヴェータを殺害した犯人に対してただただ怒っていた。その先にゆたかさというものがあるとしても許容するまいとシャットアウトした。それから20年経った39歳のいまの私は、19歳のときほどは怒っていないというだけの話かもしれない。そんなことはあり得ないとは言えない。リザヴェータのことを考えようとしても靄がかかったようになって、彼女に降りかかった暴力が後景にしりぞいていくのを感じている。
それは『罪と罰』が悪どい老婆”だけ”を殺す物語であったならラスコーリニコフの葛藤を十分に表現できないと判断し、無垢な妹を犠牲に供するという判断と表裏をなしている。「主人公(と読者)はリザヴェータの血なしには苦悩を開始できない」という冷徹な判断がこの物語に埋め込まれていて、それによって物語は魅力を発揮する。
稜線は遠くからそう見えるまま細く、ひとりの足幅ほどもない。われわれはいつの間にかぎりぎりの綱渡りを余儀なくされている。半歩踏み間違えただけで、たちまち「害虫は殺してもよいが益虫を殺してはいけない」というだけの話に堕ちるからだ。いや、考えようによってはすでに堕ちている。しかし、そこまで厳しくラスコーリニコフにあたることはできない今となっては、まんまと物語のゆたかさの側に立ってしまうことになる。そうするとリザヴェータは、リザヴェータではなく”リザヴェータの血”としての立ち位置に押し込まれてしまうことになる。これが罪といえるかどうかは不明だが、暴力ではある。当然、それ単体ではまったく許容しがたいものだ。しかし……。
「価値のある人生とは何か」という問題は、価値は最終的にその人生をおくる人自身のなかにしかないからといってすこしもやさしくはない。むしろ逆で、その人自身のなかにしかないことで何よりも困難なのだということを私は知った。何によって知ったかといえばそう、『罪と罰』によって、私が思う文学によってだ。
思想を盛る器としての文学の力が露骨に表れているのも『罪と罰』の特徴だ。思想には、問題を提出しながら答えを提示しないことがその要件になるものがある。その場合、もっとも的確に問題を”置いてくる”ことのできる、バスケットボールでいうレイアップのような手段がまさに文学だ。『罪と罰』におけるラスコーリニコフの物語の結び方と、エピローグの結び方は、読んでいるだけでもまるで自分自身が何かを成し遂げたかのように晴れ晴れするほどうまくできていて、それぞれに見事なまでに思想を置いてきている。
