20260820

『罪と罰』を読んだ

「世界を測るためにはデータをとれ、自分を測るためには文学を読め」という格言がある。その伝でいけば、私は世にいう傑作小説を読むたびに得意になって「特別面白い」という判定をくだしている。ただ面白いのではなく特別面白いというところに、あえて長い時間を使って小説を読んだだけの甲斐がある。そういった満足を読むたびごとに感じている。そしてそのことで自分自身の感受性について内心の満足を得ている。自分で自分に満足することができるためにはデータより文学が役に立つというのは自分の経験上もあきらかだ。

『罪と罰』は長らくその例外として自分の文学行路に暗い影を落としていた。実際、19歳の夏に初めて読んだときにはその面白さがさっぱりわからず、そのことによって自分に文学は無縁だという臆断をくだすところだった。その後、冬になって首尾よくサンテグジュペリからヘッセへ至る道を発見し、事なきを得たわけだが、あわや文学に閉ざされた人生になる可能性があったと、そう考えていたのだ。しかし最近になって、『罪と罰』を読み直している途中で、その可能性はありそうに見えるだけで実際にはなかったのではないかと考えるようになった。

たしかに、人が文学に出会えるかどうかというところには運の問題がある。ようするに、その人に暇な時間がなければ文学の門は開かないだろうからだ。だから、暇な時間を得られるだけの幸運に恵まれるかどうかという面で、運の問題が頭をもたげることになる。しかし、逆に言えば、暇な時間さえあれば人は文学に出会うことができる。それどころか、世界に対して”自分自身に応じただけの正当な期待”をかけていて、できるかぎり自分を楽しませたいという真っ当な思いがあれば、その人はいずれ文学に出会わずには済まない。

問題は、期待も楽しもうという意欲もその正当さに反して、ひとりの個人のなかで十分持続しないというところにある。原理的にはいずれ出会うことが可能であるとはいいながら、一般的に青年期と言われる短い一時期を過ぎれば、実際のエンカウント率は相当程度下がっていく。もちろん中年から文学に出会うことは可能には違いない。しかしその準備を文学抜きでできる人は決して多くない。そうすると、高齢化で中年以上の人の数は世に多いから、あたりを見渡したとき私から見て”もったいない人生”は無数にあるということになる。

たとえば『罪と罰』を読んで、終始ラスコーリニコフに冷淡・無関心でいられる人間というのは、価値のある人生をおくっているとはいえない。世界に対して与える影響の度合いをもって彼の人生の価値を測るのであればそうも言い切れない、といいたいところではあるが、スケールは際限なく広げていけるものだから、理詰めでいけば最終的にはナンセンスに行き着く。結局、価値ある人生というのはその人生をおくる人自身のなかにしか存在し得ない。どこまで理詰めしてどこから理抜けするかという趣味の問題には立ち入らない。最後まで理詰めにしないのであれば任意の場所を都合の良いように設定するだけ、つまり自己の満足を追求するために便利な位置にハサミを入れるだけの話だ。

19歳の夏、私はラスコーリニコフに冷淡だった。彼の懊悩に共感することは一切できなかった。リザヴェータに対して斧を振るった若者(当時の自分より年上)に、覆ることのない有罪のジャッジを下し、それ以上”犯人”の何かを知ろうという気が起こらなかった。20歳をとっくに越えていてなぜそんな愚かなことをするのかわからないという19歳の夏に特有の態度もあった。

そして、マルメラードフの愚かさについても同じように冷淡だった。不合理な行動をするおじさんについてはただただ不思議でしかなく、あまりにも理解に苦しむ行動をとるために、文章を読み進めるノイズになったほどだ。その結果、マルメラードフの表面上の行動をなぞるだけで精一杯で、彼の悲しみまで視線が届かなかった。今回の再読で自分のなかでもっとも大きく違ったのがマルメラードフの肖像で、彼の愚かさに含まれる悲しみ、あるいは悲しみに含まれる愚かさについて、自分の過去を思い返して思い当たるところが多くなったことだった。いや、多くなったというのは表現が違う。19歳の夏にはゼロだったものが、いまや両手両足で数えても足りないほどに増えた。それは文学作品のなかにもあるし、生活のなかにもある。もとはひとつだったものが分裂し幾重にも折り重なっていくような経験もしてきた。

ラスコーリニコフには、マルメラードフの情けない絶望のどこかしらに、自分自身を重ねることのできる資質があった。今回の再読でそれが読み取れたとき、ラスコーリニコフは私のなかでただの犯人ではなくなった。そこから物語の持つゆたかさが私のなかに流れ込んでくるようになった。一方、19歳の私はリザヴェータを殺害した犯人に対してただただ怒っていた。その先にゆたかさというものがあるとしても許容するまいとシャットアウトした。それから20年経った39歳のいまの私は、19歳のときほどは怒っていないというだけの話かもしれない。そんなことはあり得ないとは言えない。リザヴェータのことを考えようとしても靄がかかったようになって、彼女に降りかかった暴力が後景にしりぞいていくのを感じている。

それは『罪と罰』が悪どい老婆”だけ”を殺す物語であったならラスコーリニコフの葛藤を十分に表現できないと判断し、無垢な妹を犠牲に供するという判断と表裏をなしている。「主人公(と読者)はリザヴェータの血なしには苦悩を開始できない」という冷徹な判断がこの物語に埋め込まれていて、それによって物語は魅力を発揮する。

稜線は遠くからそう見えるまま細く、ひとりの足幅ほどもない。われわれはいつの間にかぎりぎりの綱渡りを余儀なくされている。半歩踏み間違えただけで、たちまち「害虫は殺してもよいが益虫を殺してはいけない」というだけの話に堕ちるからだ。いや、考えようによってはすでに堕ちている。しかし、そこまで厳しくラスコーリニコフにあたることはできない今となっては、まんまと物語のゆたかさの側に立ってしまうことになる。そうするとリザヴェータは、リザヴェータではなく”リザヴェータの血”としての立ち位置に押し込まれてしまうことになる。これが罪といえるかどうかは不明だが、暴力ではある。当然、それ単体ではまったく許容しがたいものだ。しかし……。

「価値のある人生とは何か」という問題は、価値は最終的にその人生をおくる人自身のなかにしかないからといってすこしもやさしくはない。むしろ逆で、その人自身のなかにしかないことで何よりも困難なのだということを私は知った。何によって知ったかといえばそう、『罪と罰』によって、私が思う文学によってだ。


思想を盛る器としての文学の力が露骨に表れているのも『罪と罰』の特徴だ。思想には、問題を提出しながら答えを提示しないことがその要件になるものがある。その場合、もっとも的確に問題を”置いてくる”ことのできる、バスケットボールでいうレイアップのような手段がまさに文学だ。『罪と罰』におけるラスコーリニコフの物語の結び方と、エピローグの結び方は、読んでいるだけでもまるで自分自身が何かを成し遂げたかのように晴れ晴れするほどうまくできていて、それぞれに見事なまでに思想を置いてきている。

日記791

真正の緑

2026/08/18 一昨日 17464
喜多見までバスケに行った。調子良かった次の回は、心が調子に乗っているのにもかかわらず身体はついてこないし、調子乗っていたぶんの落差を味わうからどうしても低調になる。何度も同じことを繰り返して成長がない。しかし終了間際の3P成功でまあ帳尻を合わせられた。
演劇祭に応募する。小説の完成による達成報酬に設定していたのだが当の小説は影も形もない……。


2026/08/19 昨日 8182
午前在宅。『罪と罰』エピローグまで読み終える。午後出社。定時すこし前に退勤して『オークストリートの異変』を新宿まで見に行く。IMAXレーザーで見たがさすがに迫力があった。何を見せたいかがはっきりしていて良い意味でアメリカ映画だと思った。犬はトラブルの種になり、その解決に一役買うという、まさに犬のような活躍をしていて笑った。登場人物についても基本的にことごとく犬のように扱っていて、まあ基本的に優しくしているし結末でめでたし感を付与しているからそれでいいだろと、画面越しにも犬扱いしてきていて、そこまで行くとまあかえって平等ということでいいのかなと大人の感想も出そうになる。まあ気の良い犬監督なのだろう。
帰宅してごちそう(うまトマ牛肉とサラダ)を家人からいただく。さよならララを2話分見る。


2026/08/20 今日 5820
午前在宅。たっぷり8時間半寝たのになぜかやけに眠かった。粗末な透明のバックラーシールドを与えられ、椅子に座らされたうえでボコボコに殴られる謎の”試練”を受ける夢を見た。横一列になって椅子に座って試練を受けるのだが、自分の相手が誰になるのかが死活問題になるところ、自分の相手はパンサーの尾形だと知らされる。強そうだし絶妙に嫌だった。
午後から出社。打ち合わせをしていたらうっかり定時を一時間も過ぎる。20時前には下北に戻ってスタバに入る。書き物に時間がかかり、久しぶりに閉店時間の22時半までいた。

20260818

日記790

下北沢を行く


2026/08/17 昨日 8208
『さようならコロンバス』を読み終える。昔小説家が少なかった時代に若者が書いたという一事のみで有名になった小説だと思う。訳も含めて習作を読まさせられているという感じが薄まらないまま終わった。いくらでも道があるのに他に道がないと思い込んで離ればなれの道を選んでしまう若者特有の間違いが書かれており、それには心当たりがあった。スタバを出たあと吉野家で塩カルビ定食を食べる。ローソンでベースを買って帰る。この日は酒を飲まなかった。


2026/08/18 今日 2943
涙を流して起きるほど悲しい夢を見たはずなのにどんな夢を見たのかおぼえていられなかった。自分がかわいそうというのはあったが、それだけではあれほど悲しくならないというほど劇的に悲しく思った記憶だけ残った。自分と誰かをかわいそうに思ったのにちがいない。そういうときにはたいてい別離が絡んでくるのが定番だ。とそこまで推理できても肝心の中身は思い出せない。全然別の話だったかもしれない。
朝から在宅勤務。『罪と罰』を読む。アルカージイの夢にはアルカージイの願いがこもっていて切なくなった。
午後から仕事の用事で霞が関に行って会議に出てまっすぐ帰ってくる。バスケに行くので遅めの昼ご飯にはスパゲティを茹でて食べるつもり。

20260817

日記789

木漏れ日を受けて



2026/08/06 十一日前 14741
ここまで日記を溜めたのはたぶん初めてだろう。何もなしで思い出そうとしても記憶はほとんどないに等しいが、セットログのおかげで比較的簡単に思い出すことができる。午前在宅。午後から出社し、対面でのミーティングに参加。そのままバスケのため喜多見に移動する。中一日の疲労が残っていたがレベルが高くない回だったのでなんとかなった。家人が両親にプレゼントする用の人形のついでに木粉粘土で作っていたミニVを完成させる。


2026/08/07 十日前 10616
一日在宅。お昼にクリニックに行って検査と処方箋をもらう。定時すぎに退勤して渋谷に出かける。PARCO屋上で音楽イベントが開催されていたので友人Nと音楽客に紛れて酒を飲んだ。翌日からの佐世保長崎旅行の準備をして寝る。


2026/08/08 九日前 9897
旅行一日目。10時頃に出発し新幹線で博多まで。到着が16時頃になってさすがに移動疲れした。アパホテル博多東リゾートに荷物を置いて家人の大学時の友人とご飯を食べる。博多の焼き鳥は東京と比べて手頃でかなり美味しい。豚バラも焼き鳥だということを教えてもらう。朝からちいかわの映画を見てきたという話が出て、さすがに顰め面をしているわけにもいかず、ちいかわを嫌っているという話をした。無関心のスタンスよりは話が盛り上がる感じがしてよかった。わらびもちの美味しい北九州発祥の菊太郎でお茶をして解散する。行橋市から車で2時間かけて来てくれたという話で家人が嬉しそうにしていてよかった。東京に来ることがあればぜひお立ち寄りくださいという定型句を伝える。本当に来てくれたらいいんだがあまりにも定型句すぎると遠慮してしまうかもしれない。もうすこし押して伝えるべきかもしれない。ホテルにチェックインして風呂に入って寝る。空いている時間を見計らって風呂に行こうとしているうちに無為に夜が更けていってしまった。吹き抜けになっている館内廊下には空調が効いていない、部屋はうっすら汚れているなど、あまり良いアパホテルとは言えなかった。長崎のアパホテルも狭くて匂いが気になってうすら汚かったのでアパホテル自体こんなものなのかもしれない。アホな本が置いてあるのを差し引いてもまだひどいという印象になった。最低の最低は避けられるぐらいの見立てにしておくべきだという学びになった。


2026/08/09 八日前 5094
前日の就寝時間が遅くなりすぎたので11時のチェックアウトぎりぎりまで寝ることになった。となりのFUGLENでVといっしょにモーニングを楽しむ。昼食で”とりかわ”が売りの長政に入った。外パリ中ふわで、これならいくらでも食べられる。高速バスに2時間ほど揺られて佐世保へ。佐世保駅周辺から家人の実家へ移動する西肥バスで途中ひとりで歩くのは平地がぎりぎりで階段は一人で昇り降りがむずかしいおじいさんが乗り合わせてきた。降りる停留所はどこかと訊いてみたがへらへらしながら「わからない」という答えが返ってきてこっちが不安になった。それでも運転手のアナウンスによってそれを思い出したらしく、降りる素振りをしたので家人とバス運転手の三人で降りる手助けをした。彼が目的地にたどりつけるのか甚だ疑わしかったがバスは次の停留所に向けて走り出した。われわれも目的地の停留所で降りて実家に向けて歩いた。晩ごはんに家人の姉が作ってくれたカレーをいただく。Vを家人の家族たちに紹介した。それぞれ驚いたりしながらも笑顔で受け容れてくれて人から優しい気持ちを引き出すのがうまいVの面目を見た。


2026/08/10 七日前 9202
家人の実家で家族顔合わせ食事会の最終準備をして過ごす。お昼には鰻をごちそうになる。食後にちょっとした遊びとしてITOをプレーする。最初は姉と家人と三人だったが途中から母が入ってきて四人でかなり盛り上がった。上手い回答が見られたのもよかった。「母親になって考えよう。子供が寝言で言っていたら嬉しいこと」の93が「おかあさん」でばっちり決まったのが母つよしという感じでとくによかった。夜は近所のジョイフルに行って家人とその両親、姉の五人でご飯を食べた。ツインバーガーを注文して家人の家族に大食漢の一面を見せつけたりした。夜は気温が下がり風も吹いてとても気持ちの良い散歩になった。これ以上の夏の夜はそうそうない。


2026/08/11 六日前 3773
佐賀の龍水亭という料亭で家族顔合わせの食事会をする。乾杯の挨拶でいっぱいいっぱいになっていて、せっかく紋付袴を着させられたのに写真撮影を心から楽しむ余裕がなかったのが悔やまれる。しかし、大過なくなごやかなまま食事会を終えられてほっとした。もっとこうすればよかったというのも当然出てくるが、そんなのは家族の皆の笑顔によってあがなわれる。沈黙になったらどうしようかという不安もあったが、しっかりした大人の皆が、そして元気な甥っ子が、話題提供に、記念撮影にと協力してくれた。自分の両親も喜んでくれたようでよかった。


2026/08/12 五日前 9760
アリタハウスに宿泊し、アリタセラを見てから家人の運転で波佐見町を案内してくれる。ろくろ体験やおしゃれなビュッフェ、波佐見焼の白山陶器訪問などひと通り回って有田駅で解散となる。佐世保に戻る。姉がアジフライなど晩ごはんを用意してくれていた。衣が揚げたてさくさくで、お世辞ではなくこれまで食べたアジフライのなかで一番美味しかった。


2026/08/13 四日前 15358
朝8時頃に佐世保の実家を出発。今回もたくさんの気遣いをしてもらい、おかげさまでとても楽しかった。佐世保駅まではバスに乗る。そこから海沿いを走る電車に乗って長崎駅まで。タイムズカーシェアに乗り込んで、家人が教員として過ごした地・時津(とぎつ)をめぐる。よく行ったという店でトルコライスを食べる。想像した通りそのままの味でおいしかった。ひとしきりドライブしたあと長崎平和公園に行く。チリンチリンアイスを食べてから原爆資料館へ。そこから車でおこのみむらというお好み焼き屋に行く。キャベツたっぷりでおいしかった。
さらに車で稲佐山の夜景を見に行く。途中の駐車場から頑張って歩いてみる夜景はなかなかの見ものだった。ハートのギミックがよくできているなと感心した。一方で手前側にある公園の青青としたイルミネーションは下品でいただけないと思った。まあ1万ドルの夜景とは言えるかなとか言っていたが、調べたら世界新三大夜景とも1000万ドルの夜景とも言われているらしい。それはあきらかに言い過ぎだが、夜景を見るのもなかなかいいものだとは思った。アパホテルにチェックイン。わりとすぐ寝る。


2026/08/14 一昨昨日 28898
朝10時からピックルボールのコートを予約してスタジアムシティに行く。アイスアクエリアスや途中休憩などで熱中症をなんとか回避しながらピックルボールを楽しんだ。ピックルボールコートがある建物の下のカフェで長崎ヴェルカの練習を見学できた。コーヒーを飲みながら紅白戦を観戦できるようになっていてさすがスタジアムシティというだけあると感心させられた。
路面電車でめがね橋エリアへ移動。バラモン食堂というところで昼ご飯を食べる。家人が教員をしながら通っていたという絵画教室を見る。さらに大浦天主堂のほうへ移動。軍艦島デジタルミュージアムを見学する。大浦天主堂を近くから見たりおみやげのカステラを買ったりする。一旦ホテルに戻りシャワーを浴びて大量にかいた汗を流す。家人が元同僚に晩ごはんのおすすめを聞いてくれて「老李 駅前店」に行くことにした。ちゃんぽんが絶品だった。チャーハンも濃い味付けに逃げていない本格派という感じで、総じて満足感が高かった。やっぱりローカルの意見は頼りになる。
21時からのコートも空いているということなのでまさかのピックルボールおかわり。昼間より動けるのでお互いのパフォーマンスがあがりミニゲームも楽しめた。


2026/08/15 一昨日 9652
6時半のリムジンバスで長崎空港まで。そこからANAで羽田まで。スムーズに移動できたのもあり午前中には帰宅していて飛行機のスピードを享受するかたちになった。14時すぎにTCBが家に遊びにきた。おみやげを渡す。ひらがなじゃんで遊ぶ。友人Nの子がとにかくかわいい。Bと私は近づくと泣かれるのがデフォルトになっているのだが、Vのことも恐がっていて近づけると泣く体制をとる。彼女がVを恐れる初めての人間になった。
19時には解散になりバスケ日本代表の試合を見る。八村は別格だというわかりきったことを確認するような試合になった。


2026/08/16 昨日 22280
9時から落合南長崎でバスケ。3時間の回なので終わった頃にはへろへろになったが3ポイントを3本打って2本決め、うち1本が終了間際のウィナーになるなどノリノリで楽しめる展開も多く、単純に久しぶりなのも、ヴェルカの練習を間近で見て刺激を受けたのもあって、とくに楽しい回になった。
大江戸線に小一時間乗って上野まで移動。友人NRとサイゼでご飯を食べる。翌年3月から最大3年のエジプト行きが決まったというのがメイントピックでその他もろもろの話をする。感性の変化によって古い友人と話が合わなくなっていくという30代特有の悩みについても話した。30代を過ごすとそれが悩みではなくなっていくのだがそれは悩みが解消されるというのではなく、距離のひらきが固定され悩みだと感じなくなるだけの話だ。それを話したところでどうにかなるわけでもないから、シンプルにそういうのあるよなと受けた。いろいろ気にするのはいいと思うがそのトリガーが「インターネットに書かれてあるいろいろを見て」というのは、一般的ではあっても健全ではないから止めておくのがいいと言った。一般的ではあるが健康ではないということはじつはたくさんある。それを認識して避けるのも知性の大事な役目だ。いろいろを見ないようにするというのは実践的なアドバイスたりえないという感覚はある。だから、そういうインターネットのいろいろを相対化できるようにそれよりも長いスパンで醸成されている価値・価値感をインストールするべしというのが本来のアドバイスだ。だから結局、文学作品を読めということになる。暇がない人間(ビジネスパーソン)にはそもそもアドバイスとして無効だという感覚もあって何も言わないに等しいことを言ってしまう。止めておくことができるなら止めておくで言いわけだし。
帰宅して、強い眠気に襲われる。短い時間昼寝をする。そばを食べながらバスケ日本代表の試合を見る。翌日連休明けの出社になるので早めに寝る。


2026/08/17 今日 6194
午前出社。午後在宅。昼ごはんにそばを食べる。昼寝をする。洗濯物を干す。『罪と罰』を読む。定時退勤してLUUPでクラシックのスタバに行く。『さようならコロンバス』を読む。日記を書く。

20260805

日記788

注意するに越したことなし


2026/08/04 昨日 15208
朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに退勤。喜多見までバスケに出かける。4日あけてのバスケなので疲労の影響がなく身体が動いた。狛江の風神とエースが両方参加していた。競技志向はそこまで強くなかったので和やかで楽しい雰囲気だった。楽しかったのは満足いくプレーができたのが一番大きい。セブンの野菜炒め丼を食べる。この日も酒を飲まなかった。


2026/08/05 今日 6720
演劇WSの夢を見る。主役と会話でやり合う役だったので気が引き締まった。その場で渡された台本をその場で読み込んで、これから始まるというときに場面転換が起きた。場展先は夜中、土砂降り、町中のコンクリート川岸だった。空から大蛇が降ってきて氾濫しそうな川にドボンと落ちた。なんのせいかわからないが傷ついていて液体のようになっていて生死不明なほどだったが、川に落ちた途端に息を吹き返して巨大なワニに変わった。クロコダイルというよりアリゲーターのイメージ。豪雨の中なぜか川沿いを歩く群衆に襲いかかって襲われた人たちはひとたまりもなく濁流に飲み込まれていった。自分もなぜか川沿いを歩いており、なんとかワニに鉢合わせをしない道を選ぼうと、分かれ道にさしかかるたびに二択を迫られて消耗した。何か適当な根拠を見つけ出して一方を選んでいってワニに鉢合わせはしなかったものの、その影を振り切ることはできないという塩梅で、じりじりと削られていった。
午前在宅。洗濯物を干して『罪と罰』を読む。昼ごはんにそばを食べて出社。打ち合わせを2件消化し、問い合わせへの回答をして早めに退勤。白髪ぼかしという名のマイルドな白髪染めをしてスタバにいく。『罪と罰』をすこし読んでから食事会の挨拶を考える。いざ考えてみると原稿がダラダラ長くなってしまう。あらかたボツにしないと話にならないが、染髪中に思い浮かんだキーワードだけは残そうかどうしようか思案中。日記を書く。
この日はひさしぶりにクラシックのスタバにした。地階の席にはひとり客が自分入れて3、二人客が2組。片方は大学生ぐらいのカップルで肩を組んでにこやかにいちゃついている。もう片方は20歳をすこし出たぐらいの若い女ふたり組。元気いっぱい話していてその内容は人間関係の話(男いくいかない談義/彼女いるかどうか)がほとんどで、たまに演技がどう、見た目がどう、次いつ出るのとかいう話をしているので、どうやら業界の人間のようだ。袖の縫い目に黄色いラインが入っているTシャツにうすい青のダメージジーンズ、レモン色のスニーカーという出立ち。話が盛り上がるたびに椅子を大胆に使ってのけぞったり、屈託のない様子が前面に出ている。客が少ないから彼女らの会話だけがフロアに響き渡り、独壇場となっている。リズム系のよく知らないEDMが流れていて浅い時間のクラブの雰囲気を思い出させる。会話の中身からダンスサークル所属の学生だということがわかった。出る出ないなどの話とも符合する。演技うんぬんについてはダンスにそういうパートがあるのだろう。ダンスサークルにおける男女の人間関係というのはBPMが相当高そうだ。と思ったら契約期間がどう、会社でやれるって言ったら、稼げますかという話が始まったので個人事業主(インフルエンサー)か何かの線が浮上してきた。「即完はしなくて、私もやる気無くなっちゃって、コラボした分もないってことになってやめちゃった。ケチケチケチケチ。ケチしかいない。私も何かで稼がなきゃ。そっち系でもいけるんだけど会社に駄目って言われそう。でも結局業務委託だから、自分でブランド作ってやってもいいと思ってます」とかいう話が始まった。仕事やお金の話をしていても、よく言えば屈託の無さ、わるく言えば空疎な感じが出ていて、きっちりと、判で押したような現代的が表現できていた。

20260803

日記787

プラットフォームへ

2026/08/02 昨日 12303
21時すぎに家人と夜の散歩がてらコンビニまで弁当とノンアルビールを買いに出かける。天幕のジャードゥーガルとさよならララを見る。ハンターハンターを楽しみにしつつ23時すぎに寝る。


2026/08/03 今日 6819
友人の家に遊びに行き、犬の墓に手を合わせる。自分とは相容れないところのある犬だったので個人的な気持ちがあったというわけではないが、それでも友人の飼っていた犬ということで赤の他犬ではないので、これでも彼の心の安寧を願う気持ちはあるんだと友人にむかっていらぬ説明を試みた。という夢を見て7時半に起床。そのほか、やぶれかぶれになった半グレ友人のシンプルで粗暴な暴力行為に対して、相手の気持ちを尊重する風を装いつつ(心のなかでは軽蔑しきり)、苦言を呈するという場面なんかもあった。
午前出社の通勤中にジャンプでハンターハンターを見る。バトル場面が中心で普通の漫画のようだった。時系列的に”あいだ”の回にあたり、答え合わせのようにしてすんなり読み終えてしまい、すこし物足りなさが残った。1004号室の兵のなかにルズールスに似た髪型の人物がいたのが気になるといえば気になるが、そんなあからさまな変装はないだろう。ただなにかを仕掛けるとするなら意外とこういう回になるという気がするので一応帰りの電車でも、帰宅後にも都合3回読み直した。
部会という四半期定例で、これからのスキルセットの棚卸の取り組み紹介と課内でのAIを用いたエンジニア仕事の紹介があった。前年までの気持ちを表明する場をつくる月一定例とは質が違っている。新部長による部会のファシリテート自体がエンジニアの仕事だ。前年までのままごとぶりが引き立て役になっていてコントラストがきつい。
帰宅後、作成していたメールを出す。研修を受ける。『罪と罰』を読むの三本立て。あとはそばを食べた。腕立ても一応やった。
定時に退勤しスタバへ。『罪と罰』の中巻を読み終える。日記を書く。
演劇祭募集の時期になった。参加をどうしようか迷っている。これを達成したら参加しようと自分に課していた宿題はまだできておらず、この夏の宿題としてのしかかってくる。ようするに今回も参加したいという思いがあるということだ。
スタバに自分より長身で髪の長い青年がいて、すごいスピードでタイピングをしている。画面表示の色使いのビビットさからおそらくはコーディングなのだと思われるが、一度も止まることなく、淀みなく連続で文字を打ち続けるという芸当を2分から3分のあいだやっていた。グレーのタンクトップに白の短パン、プラダのサンダルという出立ちで、耳にはAirPodsを挿し、ベンティサイズのアイスコーヒーを飲んでいる。細身だし、ムキムキの見せる筋肉というわけではないが、肩周りから筋組織は発達しての自然な逆三角形を成しており、インナーマッスルなどの運動をするための筋肉はしっかりしているよう見受けられる。MacBookでの作業中も姿勢は崩れずずっと良い姿勢を保っており、何かのスポーツをしていることはまず間違いない。総じて只者ではない雰囲気を醸し出している。たぶん最低の人間で、途轍もなく悪い男なのだろう。しかし型の古いiPhoneを両手で扱い、なぜかそれで文字を打っていたりもするので、一部の隙のようなものも兼ね備えており、いわゆる人たらし的な面をも発達させているようだ。彼の辞書には「困惑」の二文字が載っていなさそうである。他にも載っていない熟語は多そうで、辞書としては役立たずだといえる。

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20260802

日記786

野生のラメロ

2026/08/01 昨日 9569
9時頃に起きる。アイスコーヒーを淹れて『罪と罰』を読む。大きいディスプレイに大きい文字で表示するという新しいKindleの活用法を見出した。そのおかげもあって読書が捗る。訳文がいいのか内容がすらすら入ってきてぐいぐい引き込まれる。20年前に初めて読んだときにさしたる印象を享けなかったことが信じられない。この日記にも以前書いたとおり、まだ読書習慣を確立できていなかった大学一回生の夏だったのもわざわいした。それにしても、それにしてもという感じだ。圧倒的に面白い。これがわからないということもあり得るのだからこわい。罪と罰は他のドストエフスキー作品に比べて明らかに凹んでいる印象でいつか再読しようと思っていたからこうやってサルベージできたわけで、そうならない作品もある程度の数あるのは確実だ。
もし大学生のときから自分の中身が変わっていないとすればかなり狭く限定された人間ということになる。今の時点から見てもあのとき以来たえず変わってこれている。そのことだけでも選んだ道がある程度成功だったといえると思う。頑固一徹というような良さ、漱石枕流という良さは自分にはないが、鋭い感性一本でやっていた高校生時代、新しい発見が立て続けに続いた大学生時代など、これまでに通り過ぎてきた時代の自分から”変わらない”という良さを持たない代わりに得られたものは多いはずだ。自分の感じとしてはアップデートというよりは、その都度その都度、羽化を繰り返している感じだ。
昼ごはんにそばを食べたあと、大久保まで家人が参加する室内楽を聴きに行く。ドヴォルザークの『新世界より』を通しで聴いた。漫画『ブルージャイアント』で演奏者が前に出るときに”ずいっ”と出る描写がある。あれはジャズでしかも漫画だからああいう描写であり表現になっているわけだし、ステージ立てなんかもクラシックとは違う。実際今回見ていても身体的な動きとして実際にずいっと出ていたわけではないのだが、演奏者自身にとって「ここは私のパートだ」というところに差し掛かったとき、ずいっと前に出る感じが見ていて/聴いていてわかりやすくあった。そしてその”ずいっ”という感じが、曲の持つ迫力と融合して、場の琴線を鳴らすことに成功していたように思う。張り詰めた弦が震えるみたいに、じーんとくるものがあった。
演奏会が終わったあと大久保から新大久保までを横断。歩きながら氷結無糖の期間限定「日向夏」飲む。モバイルバッテリーをコンビニで借りる一コマを挟み、旅行気分を味わえる趣向の韓国料理屋「まもなく仁川」に行って、食べ放題焼肉を食べる。焼肉はそれなりに満足感があったし、いくらでもサンチェという名のレタスを食べられたのは嬉しかった。そのほかハットグだとか流行りの食べ物をいくつか消化できてよかった。ただし、ロングポテトのコンソメ味が金魚の餌のような匂いをさせていて酸化した油で揚げているのかどうしても喉を通っていかなかった。その”とんでもなくマズい”にその他の印象を上書きされて終わってしまった。
帰宅後、バレーボールネイションズカップを見る。準決勝でアメリカにフルセットの末敗れてしまった。フルセットまでもつれることが決まったタイミングでアナウンサーがうるさいぐらい「ここまで日本はフルセットまでもつれ込んだ試合は全勝です」を繰り返していたので嫌な予感がしていたのだが、こうやって書かれることになる大体の予感がそうであるように、今回もきっちり的中して、日本の決勝進出を妨げた。マッチポイントを取られたあとに無理筋のチャレンジをしていてちょっと残念な負け方だった。やらないで済まないことをただやっただけの話かもしれないが、ちょうど画面に映されたアメリカの選手が「ああ、チャレンジしたのね。ご苦労さん」とばかりニヤニヤしていて、それはそうなるよなと思いつつ、それに対してちょっと腹立たしい気持ちにさせられたので見ている方としては溜飲が下がるどころか、という話になった。


2026/08/02 今日 11108
8時半に起きて、家人とピックルボールの会に出かける。サーブやミニラリーの練習をしたり、3点マッチをしたり、楽しく汗を流した。体育館の設備の問題でフル冷房をつけても暑いぐらいだったので楽しくというにはすこしく多量の汗が噴き出していた。いわゆる”高齢者”にさしかかるのではという人の参加も多かったので熱中症の心配をしたが、何せ参加者が多いのでそこまで気が回っていなさそうな雰囲気だった。大人だから自己管理しようということかもしれない。しかしこういうときには部外者然としていないで水分補給しようと声がけするぐらいの行動はとらなければならない。これは積極性・自発性うんぬんの話ではなく、私ぐらいの年齢の人間が率先して行うべき役割の話だ。20代のときにはそんな声がけをするのは土台無理な相談で、実際そんなことはしてこなかったが、今の鈍麻した感覚をもってすれば無理ではないどころかそこまで難しいとも感じないので、ただできることをやればいいというだけの話だ。協力して楽しめることは協力して楽しもう。
南中のおそろしく暑い道を途中休憩を挟みながら歩く。いちどは図書館で、にどめはカレー屋に入って昼食を兼用するかたちで、さんどめはコンビニでチョコモナカジャンボを買って、休憩しないと15分の道のりを一気に歩き詰めることはとてもじゃないができなかった。チキンサグカレーとナンが美味しかった。
帰ってきてシャワーを浴び、『罪と罰』を読む。ラズミーヒンにふたりを捨てるなと言い残すくだりがまずよかった。アルカージイのラスコーリニコフの夢の場面からシームレスにあらわれる登場の仕方も、物の言い方からわかるキャラクターも魅力的だった。殺人成功者として何かを共有しようとこちらをうかがってくる感じというのが他に見たことのない人物造形になっている。それにくらべての、ルージンの小物だが自分の世界に閉じこもって他人に害をなす悪人ぶりが過不足なく描かれ、彼の思惑を挫くというかたちでの小カタルシスが小説全体の真ん中あたりに配置されているのも、ドラクエ6のムドーやドラクエ3のバラモスという往年の中ボスを想起させて好ましい。しかもそれでめでたしめでたしとはならずに、ラズミーヒンにふたりを捨てるなと言い残して去ることになるラスコーリニコフの明るい局面によって引き立てられる絶望、その絶望を起点としてソーニャに会う必要が生じる心の動き方、そしてその会見で得られたもの(期待していたものも期待していなかったものも)、これらが無駄なく順を追って提示されていき、流れるように運ばれていく。とくに第四部の一連はすばらしい演劇を見ているようだ。四部の四で、アルカージイが椅子を運んできて結ぶところはあまりにも見事で、舞台を見ているように錯覚し、その錯覚の内部で実際に暗転になったように思われた。
日記を書く。夜ご飯は21時すぎになる。スーパーかコンビニで買ってきたご飯を食べ、お酒を飲みながら天幕のジャードゥーガルを見るつもり。


『罪と罰』を読んだ

「世界を測るためにはデータをとれ、自分を測るためには文学を読め」という格言がある。その伝でいけば、私は世にいう傑作小説を読むたびに得意になって「特別面白い」という判定をくだしている。ただ面白いのではなく特別面白いというところに、あえて長い時間を使って小説を読んだだけの甲斐がある。...