20260901

日記795

邂逅


2026/08/29 一昨昨日 18958
13時からバスケに出かける。『存在と時間』を読み進めたり『罪と罰』の音読をしたりとゆっくり過ごしていたら昼ごはんを食べる時間をなくしてしまった。とりあえずコンビニでおにぎり二個を買って食べる。体育館でもゼリー飲料補給しながらアクエリアスを飲みつつガス欠を防ぐ。3時間半の長丁場だったが最後のほうまで張り切ってプレーできた。途中右手親指の爪を負傷してテンションが下がる。負傷直後からしばらく痛みがあったのだが、プレーに集中してアドレナリンが出るときれいに気にならなくなった。そうなると疲れも感じにくくなるのでいかに素早くその状態に持っていけるかが大事だという結論になった。心肺機能・筋力・シュートの安定・判断力のすべてにバフがかかる。
バスケが終わったのが16時半で腹ペコ状態になったので久しぶりにぶっ豚の小ラーメンを食べる。あぶらマシにしてしまった。


2026/08/30 一昨日 11899
修学旅行で九州のどこかの街を自由に回る時間があったので、ひとりで美術館を回った。ずっと膀胱がフルだったのでトイレに行ったが小便器がひとつしかなく、しかも小さすぎるうえに汚かったので、個室を使おうと思ったもののすべてオキュパイされていた。舌打ちひとつ。ところへ展示室内にトイレになる展示があったので、誰かが誰かに向けて送ったメッセージの記念レリーフにむけて用を足す。用を足し終わったあとでどうして確信をもってこれがトイレだと思えたのかがわからなくなり、すこしのあいだゾッとした。展示室には自分以外いなかったのでそれもわざわいしたのだが、誰もいなかったので見咎められることもないのでさいわいしたとも言えた。美術館をぐるぐる何周かして(開き直って監視カメラを睨みつけたりして)、さらに二、三度トイレをしたりするうちにホテルからバスが出る時間になったので、慌てて来た道をホテルまで戻ろうとする。歩いて戻る途中、入口がすこしトリッキーで歩道を歩く分には店内に入らないと向こう側に抜けられなくなっている作りのレトロなレコードショップがある。店内に入るのは癪だったので無理にも横手の車道をいく。なぜか大勢の人足で仮設の足場を使い、大量の資材が運び込まれているようだった。乗り合いタクシー(タクシーといいながら実体はリムジンバス)に乗りこみホテルに戻ろうとする。ホテルの近くまで来たので降りる合図を送るがとんちんかんな運転手が合図を出したのにもうすこし先の歓楽街で降りるのだと勘違いしてホテルから離れた場所まで運ばれる。時間もないのに最悪だと思ってホテルの方向の検討をつけて交差点を見渡していると、奈良天平会館という食事処の看板とともに人ならざる生き物(牛頭?)とひょうきんな修行僧らしき人物のかわいらしい立像があったので写真を撮ろうとスマホを構える。像の奥には立派な門があり、それを含めた構図で綺麗に撮ろうとしていると空の白飛びがカメラのオートフォーカス(自動露光機能)によって収まってくるとともに、空に如来臥像が浮かんでいる衝撃的な映像が現れた。ここは”薬師天来臥像”のある場所だったんだと気づき興奮とともにシャッターを切りまくった。しばらくしていつの間にか目が覚めたが、あれが薬師天来臥像という名の大仏像だったというのは起きてから思いついた。どうやって空に浮かんでいる(ように見える)のかはもちろんわからない。
起きてからとりとめない活動をする。つまり漫画を読んだりスマホを見たりということだ。15時からのロン・ミュエク展にそなえて昼ごはんを食べる。家人の作ってくれたタコライスとお好み焼き。それなりの気温に落ち着いていたので乃木坂から六本木トンネルを抜けてヒルズまで歩くコースをとり森美術館には15時半着。1時間半ほどロン・ミュエク作品を見る。チキン/マンがとりわけ目を引いた。「関係」を描けるぶん他の作品とは際立った強さを持てるのだと思う。ミュエク自身の属性からなのだろうが白人男女だけが制作対象になっている。だから白人男女がミュエク作品を見るときに発生するような鏡像関係はなかった。それを味わってみたくもある。『マス』については数とスケールのものであるため、よりいっそう空虚であることが強調されていて、空虚だという感じがカンストしていた。漂白された頭蓋骨というのは切れば血の出るような他の作品とくらべて圧倒的につまらない。しかし小枝を抱える女、船に乗る男、スクール水着の女学生、ベッドで考え込む女などにはとくにゴーストを感じた。止まり続けていることの強烈な違和感があり、作品が時間を味方につけているとさえ感じる。普通あんなふうにじっとしていられないはずなのにという谷。認知不協和、不気味の谷というやつのさらに行った先の谷だ。
映画まで小一時間あったので梅蘭で焼きそばを食べる。お腹いっぱいになった。
『時には懺悔を』という映画を見る。見るつもりはなかったが予告の宮藤官九郎を見てこれは見ないといけないやつだと確信して見に行くことにした。結果、予感は的中したといっていい。宮藤官九郎の演技は、演技として最高峰の域にあることは間違いないが、テクニックではなく”人”なんだろうと思う。その良さを説明するのはむずかしい。この映画のテーマに「障害児を育てる」ということがある。見慣れないものを見ると恐怖の反応は強くなる。そこから脱却するためにはまず見慣れることだ。われわれは科学の進歩によって生かされているのだということをはっきり認識しなければならない。だからどんどん先に進むべきだ。この映画は映画を見せることによって社会を先に進めようとしている。価値のある仕事だ。根底には「普通に対する不信と人間存在に対する信」があるのを感じる。おそらく原作にも映画にも、つまり原作者にも監督にもそれがあるのだと思う。そしてそれは宮藤官九郎にも共通しているものだろう。ひょっとすると彼が一番多く持っているかもしれないという見た感じがある。恐れ入った。「どうしようもねえやつだな」とすっと言える感性というか、物事を断じることのない強い姿勢が際立っている。自分に必要なのはそれだ。それだけだと言ってもいい。自分にとって重要だと感じられる作品から学ぼうとしているのは煎じ詰めればその姿勢ひとつだ。
名優とされる役者が集まっているのでよりいっそう宮藤官九郎の異質な出来が際立つ作りになっているというのも加点したいポイントだ。あれだけの俳優がいてなお中心点が明確になっている。
帰りはすっかり涼しくなっていたので六本木の街を歩きながら氷結を飲む。下北沢からも氷結を追加して家まで歩く。


2026/08/31 昨日 8029
午前在宅。ハンターハンターを見る。午後から出社する。ご飯を食べそこねてコンビニで買ってオフィスに行くが打ち合わせのせいもあり食べる時間を失ってしまう。お腹が空いている状態だったので退勤後にミカンの前で氷結後、ぶっ豚の小ラーメン。19時前に帰ってバスケの日本‐カタールを見る。力の差が歴然だった。5人に収まりきらない注目選手がいて見ていて楽しかった。八村、河村、渡邉、ホーキンソン、馬場、富永。どのシュートを打ってもこれも入るんだろうなという予感がしてNBAレベルだった。
カルビーのポテトチップスのりしおを食べたり家人の作ったご飯をちょっともらうなど、破滅的な食事になった。せめてもの罪滅ぼしのつもりで腕立てやプランクをする。天幕のジャードゥーガルを見て寝る。


2026/09/01 今日 5798
朝から出社。千代田線と山手線が遅れていて、混雑を避けるために山手線を2本見送ったら遅刻になった。09:05からの朝礼には間に合う。午後在宅。家人が作ってくれたご飯を食べる。作ってもらっておきながら出来に文句を言ってしまい、作者の機嫌を損ねる。分量の問題か、加熱時間の問題か、料理酒のアルコールが飛んでいない疑惑があった。前日の就寝時間の遅れのせいで寝不足だったのでしっかりめの昼寝をする。
定時で退勤し、ATM関連のおつかいをこなしスタバに行く。溜まっていた上から目線ストリートの投稿を4つ。同じく溜まっていた日記を書く。

20260828

日記794

言葉の示すもの

2026/08/27 昨日 9019
スタバを出てダイエーに酒を買いに行く途中で家人から連絡がある。予定したラーメンを中止して、涼しかったので駅近くのロータリーで氷結を飲みながら話をする。絵の大会で表彰されることになった学生の話をきいた。彼らには可能性がある。そしてもちろん俺らにも可能性がある。山内の列に並ぶほうが国崎や川原の列に並ぼうとするよりよっぽどマシという話もした。俺にはその危険がある。そしてたぶんそういう人は多いだろう。
帰ってからいなり寿司とそばを食べてワンショットを見る。又吉の2本目の作品も期待したほどは面白くなかった。ビジョンが明確なので見せ方の問題なのだろう。彼特有の美意識がよくないかたちで、つまり半端に反映されて着地する余地を自ら奪っているかのような出来だった。審査員を困らせたいという目的があったとすればそれには一定の成果が見られたとは思う。とくにMCが困っていた。


2026/08/28 今日 4763
コンタクトを外し忘れて寝たせいで2時頃に目が覚めた。明晰夢を見て輪郭もはっきりしていたからさすがにこれは覚えていられるだろうと高を括っていたらもう忘れている。朝には覚えていたのでそのときに内容をメモしなかったことは油断にほかならない。整然としたなかで暴力が生活の一部に組み込まれているような、それなりにリアリティのある質感の夢だった。
午前在宅にして洗濯機を回し、『存在と時間』を読む。午後から出社。1週間分の積み残しタスクを消化する。鬱陶しいやつが出しゃばってつまらない仕事を増やしてきた挙句、尻ぬぐいをこちらに任せるのにもかかわらず偉そうな態度を一貫してとっているというストレスフルな打ち合わせに参加。定時を過ぎてなお厚かましくも打ち合わせを続けるので、舌打ちしかねない勢いで雑に受け答えしていたらなにか予定あるんですか?と聞かれる。べつに何もなかったがはいと答え、翌週にやりましょうということで散会になった。ばかばかしいにもほどがある。
下北スタバで『存在と時間』を読む。ギャルの2人連れが二組近くに座ってきて、それぞれ免許に落ちた話とブスが汚い金髪にするのは度し難いという話をしていた。前者はまだ可愛げがあったが後者はどこのものかわからないが汚い方言を使っていて内容も内容なので終始心の眉をひそめていた。ギャルが消えてからスマホで日記を書く。

20260827

日記793

ウマレカワルイマ

2026/08/25 一昨日 14653
バスケは尻すぼみに終わったので低調の日という感じがした。しかし録画したプレーを見返すとそこまでわるくなかった。ゲームの開始時間が遅くなったのでプレータイムが少なかった。それもあって不完全燃焼感。


2026/08/26 昨日 20465
一日在宅。午前中は『存在と時間』を読むが午後は昼寝などをしてだらだら過ごす。止せばいいのに中野のバスケに参加することにした。中野東中。案の定、疲れからパッとしないプレーに留まり、疲れだけが溜まった。さすがにしばらくはボールも見たくないという感じになった。
帰宅してからワンショットを見ながらご飯を食べる。親子丼。面白くないだろうなと思った回は思った以上に面白くない。正直見ているのが苦痛だった。


2026/08/27 今日 6412
午前在宅。昨日の夜更かしで寝不足状態になったのでなんとか二度寝しようとしたのだが焦るあたりうまく寝付けず。結局午前いっぱいを何もせずに過ごす。身体が疲れすぎていると気分も落ちてくるということを感じた。疲労物資や炎症が脳内でわるさをするんだろう。トレーニングは腕立て伏せだけは続けている。この2日でプランクも始めてみている。
午後から出社。打ち合わせをこなす。我がオフィス生活の唯一の汚点となる人物がいるのだがそいつとの対面打ち合わせだけがストレスだ。可及的速やかにいなくなってほしい。
ほんのすこし残業になって下北沢のスタバに行く。バスケの動画を見返してから日記を書く。
このあとご飯を食べて帰るつもり。久しぶりに酒を飲むかもしれない。

20260825

日記792

ハッピーイエロートレイン


2026/08/21 四日前 19093
たしか午前出社、午後から在宅だったと思うがはっきりおぼえていない。退勤してから狛江までバスケに出かける。第二中。練習回で3Pのシュート練習をしようと思っていた。明確に目標を立てるほうが捗が行くと思ったので適当に100本成功という目標を立てた。トップと45度×2、コーナー×2でそれぞれ20本ずつ決めれば100本の計算になる。結果50本にも及ばなかった。トップ10本、45度左右で15本、コーナー左右で20本の内訳。ミニゲームに参加してシュート練習の時間が1時間ぐらいしか取れなかったとはいえ残念だった。
狛江湯に行って温冷交代浴をする。神経に太い信号が通っていくあの感覚は久しぶりでやはりよかった。出てから汗をかきたくなかったので長めに外気浴の時間をとった。


2026/08/22 一昨昨日 19380
9時から12時まで中井でバスケ。落合第五小。テンション高くクタクタになるまで出し切って楽しかった。参加者の人から動画をわけてほしいと話しかけられる。いいですよとその場で安請け合いしてしまい、あとから動画投稿のやり方などを学習する必要に迫られた。今後の動画保管や整理について方針を決められたのでまあよしとする。
帰宅してシャワーを浴びたあと昼寝をしてから、『さようならコロンバス』の読書会に参加する。主人公がクソ野郎だとなんとなく思っていたものの自分はまだまだ同情的に読んでいたのだという気づきがあってよかった。自分の視野の外側を知れるという読書会の効用がはっきり表れた回になった。次回は『存在と時間』の振り返り回に決まった。同時に漫画回で『漂流教室』を読むことにもなった。他の候補で挙げられた『プリンタニア・ニッポン』も面白そうだ。
それにしても『罪と罰』を読んだあと『存在と時間』を読むことになったのはなんとなく面白い。『と』という概念には心惹かれる機能性がある。それは最小の物語と言ってもよいのではないか。『罪存在と罰時間』『罪(存在)と罰(時間)』『存在罪と時間罰』『存在(罪)と時間(罰)』どれもしっくりくるし、何のことかなんとなくわかる。


2026/08/23 一昨日 4318
一日家にいて『存在と時間』を読んだり『路傍のフジイ』を読んだり、届いたマイクとマイクスタンドを使い『罪と罰』を音読したりして過ごす。
自分の表現活動について三点持つことが大事だと考えたりした。三点とは小説・演劇・バスケだ。それぞれを支点・力点・作用点にして”てこの原理”を使えるようになると一気に出力が増すのではないかという仮定があり、その仮定は正しいとふんでいる。賃労働をそこに組み込めると効率の面でかなりの加点になるのだが、そう何もかもがうまくいくわけではないので、できる範囲での最大をねらうだけだ。それぞれの点をきちんと定位したり、あいだの点を拾ったり、いろいろとやりようがある。音読するというのもフィジカル的な訓練のひとつで始めたことだが、発声練習でもありながらリズム感の醸成にも役立ちそうだと思っている。ディズニープラスでワンショットを見る。又吉と国崎回。とくに国崎回がよかった。まじめに演技をするというボケをかましているのだが、そのやり方だと1ボケとカウントされないので上手いと思った。あとは太巻が太すぎるのも笑った。国崎の演技を見て元気が出た。本人がやりたいと思った挑戦をしているのを見せられるとやる気が出てくる。いろいろやっているうちに0時を回ったのでハンターハンターを読んでから寝る。


2026/08/24 昨日 5633
一日在宅。『存在と時間』を読む。『罪と罰』を音読する。弥生人のヘアースタイルで一日過ごした。定時退勤。家人と王将で晩御飯を食べる。久しぶりにお酒を飲んだ。帰ってからもう一度国崎のワンショット作品『空音』を見る。この作品についての川原のコメント「最後涙が引っ込むかと思ったらむしろ逆で出た」というのは芯を突いていると思う。23時には寝る。


2026/08/25 今日 4310
午前出社。午後から在宅。スパゲティを食べてから昼寝。『存在と時間』を読む。バッハを聴きながら日記を書く。定時で退勤。狛江までバスケに出かける。第四中での経験者回。

20260820

『罪と罰』を読んだ

「世界を測るためにはデータをとれ、自分を測るためには文学を読め」という格言がある。その伝でいけば、私は世にいう傑作小説を読むたびに得意になって「特別面白い」という判定をくだしている。ただ面白いのではなく特別面白いというところに、あえて長い時間を使って小説を読んだだけの甲斐がある。そういった満足を読むたびごとに感じている。そしてそのことで自分自身の感受性について内心の満足を得ている。自分で自分に満足することができるためにはデータより文学が役に立つというのは自分の経験上もあきらかだ。

『罪と罰』は長らくその例外として自分の文学行路に暗い影を落としていた。実際、19歳の夏に初めて読んだときにはその面白さがさっぱりわからず、そのことによって自分に文学は無縁だという臆断をくだすところだった。その後、冬になって首尾よくサンテグジュペリからヘッセへ至る道を発見し、事なきを得たわけだが、あわや文学に閉ざされた人生になる可能性があったと、そう考えていたのだ。しかし最近になって、『罪と罰』を読み直している途中で、その可能性はありそうに見えるだけで実際にはなかったのではないかと考えるようになった。

たしかに、人が文学に出会えるかどうかというところには運の問題がある。ようするに、その人に暇な時間がなければ文学の門は開かないだろうからだ。だから、暇な時間を得られるだけの幸運に恵まれるかどうかという面で、運の問題が頭をもたげることになる。しかし、逆に言えば、暇な時間さえあれば人は文学に出会うことができる。それどころか、世界に対して”自分自身に応じただけの正当な期待”をかけていて、できるかぎり自分を楽しませたいという真っ当な思いがあれば、その人はいずれ文学に出会わずには済まない。

問題は、期待も楽しもうという意欲もその正当さに反して、ひとりの個人のなかで十分持続しないというところにある。原理的にはいずれ出会うことが可能であるとはいいながら、一般的に青年期と言われる短い一時期を過ぎれば、実際のエンカウント率は相当程度下がっていく。もちろん中年から文学に出会うことは可能には違いない。しかしその準備を文学抜きでできる人は決して多くない。そうすると、高齢化で中年以上の人の数は世に多いから、あたりを見渡したとき私から見て”もったいない人生”は無数にあるということになる。

たとえば『罪と罰』を読んで、終始ラスコーリニコフに冷淡・無関心でいられる人間というのは、価値のある人生をおくっているとはいえない。世界に対して与える影響の度合いをもって彼の人生の価値を測るのであればそうも言い切れない、といいたいところではあるが、スケールは際限なく広げていけるものだから、理詰めでいけば最終的にはナンセンスに行き着く。結局、価値ある人生というのはその人生をおくる人自身のなかにしか存在し得ない。どこまで理詰めしてどこから理抜けするかという趣味の問題には立ち入らない。最後まで理詰めにしないのであれば任意の場所を都合の良いように設定するだけ、つまり自己の満足を追求するために便利な位置にハサミを入れるだけの話だ。

19歳の夏、私はラスコーリニコフに冷淡だった。彼の懊悩に共感することは一切できなかった。リザヴェータに対して斧を振るった若者(当時の自分より年上)に、覆ることのない有罪のジャッジを下し、それ以上”犯人”の何かを知ろうという気が起こらなかった。20歳をとっくに越えていてなぜそんな愚かなことをするのかわからないという19歳の夏に特有の態度もあった。

そして、マルメラードフの愚かさについても同じように冷淡だった。不合理な行動をするおじさんについてはただただ不思議でしかなく、あまりにも理解に苦しむ行動をとるために、文章を読み進めるノイズになったほどだ。その結果、マルメラードフの表面上の行動をなぞるだけで精一杯で、彼の悲しみまで視線が届かなかった。今回の再読で自分のなかでもっとも大きく違ったのがマルメラードフの肖像で、彼の愚かさに含まれる悲しみ、あるいは悲しみに含まれる愚かさについて、自分の過去を思い返して思い当たるところが多くなったことだった。いや、多くなったというのは表現が違う。19歳の夏にはゼロだったものが、いまや両手両足で数えても足りないほどに増えた。それは文学作品のなかにもあるし、生活のなかにもある。もとはひとつだったものが分裂し幾重にも折り重なっていくような経験もしてきた。

ラスコーリニコフには、マルメラードフの情けない絶望のどこかしらに、自分自身を重ねることのできる資質があった。今回の再読でそれが読み取れたとき、ラスコーリニコフは私のなかでただの犯人ではなくなった。そこから物語の持つゆたかさが私のなかに流れ込んでくるようになった。一方、19歳の私はリザヴェータを殺害した犯人に対してただただ怒っていた。その先にゆたかさというものがあるとしても許容するまいとシャットアウトした。それから20年経った39歳のいまの私は、19歳のときほどは怒っていないというだけの話かもしれない。そんなことはあり得ないとは言えない。リザヴェータのことを考えようとしても靄がかかったようになって、彼女に降りかかった暴力が後景にしりぞいていくのを感じている。

それは『罪と罰』が悪どい老婆”だけ”を殺す物語であったならラスコーリニコフの葛藤を十分に表現できないと判断し、無垢な妹を犠牲に供するという判断と表裏をなしている。「主人公(と読者)はリザヴェータの血なしには苦悩を開始できない」という冷徹な判断がこの物語に埋め込まれていて、それによって物語は魅力を発揮する。

稜線は遠くからそう見えるまま細く、ひとりの足幅ほどもない。われわれはいつの間にかぎりぎりの綱渡りを余儀なくされている。半歩踏み間違えただけで、たちまち「害虫は殺してもよいが益虫を殺してはいけない」というだけの話に堕ちるからだ。いや、考えようによってはすでに堕ちている。しかし、そこまで厳しくラスコーリニコフにあたることはできない今となっては、まんまと物語のゆたかさの側に立ってしまうことになる。そうするとリザヴェータは、リザヴェータではなく”リザヴェータの血”としての立ち位置に押し込まれてしまうことになる。これが罪といえるかどうかは不明だが、暴力ではある。当然、それ単体ではまったく許容しがたいものだ。しかし……。

「価値のある人生とは何か」という問題は、価値は最終的にその人生をおくる人自身のなかにしかないからといってすこしもやさしくはない。むしろ逆で、その人自身のなかにしかないことで何よりも困難なのだということを私は知った。何によって知ったかといえばそう、『罪と罰』によって、私が思う文学によってだ。


思想を盛る器としての文学の力が露骨に表れているのも『罪と罰』の特徴だ。思想には、問題を提出しながら答えを提示しないことがその要件になるものがある。その場合、もっとも的確に問題を”置いてくる”ことのできる、バスケットボールでいうレイアップのような手段がまさに文学だ。『罪と罰』におけるラスコーリニコフの物語の結び方と、エピローグの結び方は、読んでいるだけでもまるで自分自身が何かを成し遂げたかのように晴れ晴れするほどうまくできていて、それぞれに見事なまでに思想を置いてきている。

日記791

真正の緑

2026/08/18 一昨日 17464
喜多見までバスケに行った。調子良かった次の回は、心が調子に乗っているのにもかかわらず身体はついてこないし、調子乗っていたぶんの落差を味わうからどうしても低調になる。何度も同じことを繰り返して成長がない。しかし終了間際の3P成功でまあ帳尻を合わせられた。
演劇祭に応募する。小説の完成による達成報酬に設定していたのだが当の小説は影も形もない……。


2026/08/19 昨日 8182
午前在宅。『罪と罰』エピローグまで読み終える。午後出社。定時すこし前に退勤して『オークストリートの異変』を新宿まで見に行く。IMAXレーザーで見たがさすがに迫力があった。何を見せたいかがはっきりしていて良い意味でアメリカ映画だと思った。犬はトラブルの種になり、その解決に一役買うという、まさに犬のような活躍をしていて笑った。登場人物についても基本的にことごとく犬のように扱っていて、まあ基本的に優しくしているし結末でめでたし感を付与しているからそれでいいだろと、画面越しにも犬扱いしてきていて、そこまで行くとまあかえって平等ということでいいのかなと大人の感想も出そうになる。まあ気の良い犬監督なのだろう。
帰宅してごちそう(うまトマ牛肉とサラダ)を家人からいただく。さよならララを2話分見る。


2026/08/20 今日 5820
午前在宅。たっぷり8時間半寝たのになぜかやけに眠かった。粗末な透明のバックラーシールドを与えられ、椅子に座らされたうえでボコボコに殴られる謎の”試練”を受ける夢を見た。横一列になって椅子に座って試練を受けるのだが、自分の相手が誰になるのかが死活問題になるところ、自分の相手はパンサーの尾形だと知らされる。強そうだし絶妙に嫌だった。
午後から出社。打ち合わせをしていたらうっかり定時を一時間も過ぎる。20時前には下北に戻ってスタバに入る。書き物に時間がかかり、久しぶりに閉店時間の22時半までいた。

20260818

日記790

下北沢を行く


2026/08/17 昨日 8208
『さようならコロンバス』を読み終える。昔小説家が少なかった時代に若者が書いたという一事のみで有名になった小説だと思う。訳も含めて習作を読まさせられているという感じが薄まらないまま終わった。いくらでも道があるのに他に道がないと思い込んで離ればなれの道を選んでしまう若者特有の間違いが書かれており、それには心当たりがあった。スタバを出たあと吉野家で塩カルビ定食を食べる。ローソンでベースを買って帰る。この日は酒を飲まなかった。


2026/08/18 今日 2943
涙を流して起きるほど悲しい夢を見たはずなのにどんな夢を見たのかおぼえていられなかった。自分がかわいそうというのはあったが、それだけではあれほど悲しくならないというほど劇的に悲しく思った記憶だけ残った。自分と誰かをかわいそうに思ったのにちがいない。そういうときにはたいてい別離が絡んでくるのが定番だ。とそこまで推理できても肝心の中身は思い出せない。全然別の話だったかもしれない。
朝から在宅勤務。『罪と罰』を読む。アルカージイの夢にはアルカージイの願いがこもっていて切なくなった。
午後から仕事の用事で霞が関に行って会議に出てまっすぐ帰ってくる。バスケに行くので遅めの昼ご飯にはスパゲティを茹でて食べるつもり。

日記795

邂逅 2026/08/29 一昨昨日 18958 13時からバスケに出かける。『存在と時間』を読み進めたり『罪と罰』の音読をしたりとゆっくり過ごしていたら昼ごはんを食べる時間をなくしてしまった。とりあえずコンビニでおにぎり二個を買って食べる。体育館でもゼリ...