20261102

日記816

安全地帯

2026/10/29 五日前 7294
午前在宅。午後から出社。品川で職場の飲み会があった。面白くないほうのテーブルに座ってしまったばっかりに面白くない会になってしまった。仕事の話などいくらしても雑談の域を出ない。だからといってこちらから話題提供するでもなくなんとも物悲しい時間ばかりたっぷりある3時間の飲み会になった。帰りがけの道すがら向こうのテーブルに座っていた若い男と最近見た映画の話をしたり彼が初めての一人暮らしをもうすぐ始めるという話のほうが10分弱の時間ながら中身のある話だった。ただし飲み会の方もいっときとは言えスラムダンクの話で盛り上がったことは記憶しておきたい。牧ひとりに4人マークを付ける作戦と、そうすると神と宮益を出したらぼこすかやられるよなという返し。ある程度飲んだのに精神的には飲み足りない気持ちになったので帰りにコンビニでチキンラーメンとJJを買って帰る。


2026/10/30 四日前 11311
飲み会の翌日には出社するほうがいいという法則に反して在宅勤務にする。起きれなかったというのもあるがNBAを見たいというのもある。そもそもそこまで気を使って自分の自由にできる範疇を制限する必要は立場上ないわけで、OK合わせますと口では言いながら実際には好き勝手するようなやり方で残り5ヶ月を過ごそうと思っている。しかしそれに呼応するように、反作用的な管理体制が敷かれつつある。それは始業時にチャットでの勤務地報告を要請されるというものだ。角が立つほどには在宅勤務をできなくなりそうで、それだけで十分牽制の効果を発している。金夜に集まれるということでTCBの飲み。初手トリキ。今はもうトリキも全品税込み410円。それは仕方ないしいいのだが、うるさすぎて相手の話が聞き取りにくいのに閉口した。ある程度あたたまったところで外に出て歩き飲みに切り替える。シェルターらへんで出番前か後のCOWCOWを見た。伊勢丹紙袋柄スーツの多田は顔をはっきり見ないでもわかるから見つけやすい。多田はすぐそばにいたのでふたりに話すときにも「いま多田さんいたよ」と”さん”をあげた。まあそもそも他人だし年上だし、当たり前といえば当たり前。Bが将来の展望について話すターンになった。Nは以前からの意見とは180度ちがう意見を展開していた。それで自分の意見とも合流することになったのだが、そうなると不安になるもので、バランスをとる意味ではないが自分の意見はもうすこし慎重な方向に軌道修正されることになった。「人間は変わることができる」という自分のなかの原理原則のようなものを今回のケースで取り下げるわけにいかないというのも、自分の意見が割り切らない(急角度にならない)理由のひとつになるだろう。感情の波が高まっているタイミングで論理展開するというのはまずい航海術というだけでなく間違った航海術だ。そのことでやっぱり論理は役立たないと決めつけてしまうというのがこの間違いの一番罪深いところだといえる。嵐のなかで役に立たなかったからといって船に櫂を載せる意味がないというのは当たり前に間違っているが、判断のタイミングをすこしズラすとそうしかねないところがある。問題は、感情が波立たないときには論理を持ち出す必要そのものがないからそうしない、それで状態を放置し、また波立つタイミングで論理を持ち出してそれでは焼け石に水というのを繰り返すうちに、相手の不信感とこちらの徒労感が積み重なっていくことだ。そもそも涙があったら感情があり、感情があったら人情があり、人情があったら同情があり、同情があったら共感にもつながる。あるサインはただのサイン以上に大事な部分だと思うから、それには一定以上の評価をつねに与えているようにする必要があると思っている。ひとつの兆候を過大評価しないことはもちろん重要だが、それはまったく評価しないというかたちで現れるべきではない。
ところでNは「やって後悔するより、やらずに後悔するほうがいつまでも後悔が残る」という意味のことをそのまま「やって後悔するよりやらずに後悔することのほうがよくない」と言っていて、その率直な物言いで自分をだいぶ面食らわせた。そういうことが言えるようになったと思うべきなのかもしれないが、そういうことが言えるようになってしまったとしか自分には思えず、自分の了見の狭さを感じた。これからも自分だけはこの狭さをたのみにしていきたい。23時近くまで飲んだのもあり、この日はさすがに飲み足りない気持ちにはならず、帰ってすぐ寝る。


2026/10/31 一昨昨日 6628
朝起きてNBAを見ながら昼からの稽古の準備をする。準備と言ってもとくに持っていくものなどもないのでおもに心の準備。もらっていた稽古用の台本をもう一度だけさらう。
この日の稽古ではエチュードで雑談をするという自分の不得意を煎じ詰めたようなことをした。目の前の相手ではなく向こう側で聞いている人に向けて大きい声を出す、ということのハードルが消えてくれない。今回の初稽古にいたるまでそのハードルを越えようとする試みをしてこなかったので都合よく越えられるはずもなく、消えてくれないものかと願っているというのが実態を表してしまっている。そのほかディベート形式のエチュードもやった。自分が考えていることをそのまま出せばいいというか、そこにしか何か言うための材料がないのだが、そういう自分の意見の表明・発信には自信がないのでつい仕組みを壊したり飛び越えるほうに思考が伸びる。今回よかったところがあるとすればその思いつきを考えなしにすぐ実行に移すことができたことだ。それだけでよしとしなければならない。それぐらい惨憺たる出来だった。動いたはいいがそのあとが続かず押し黙ってしまった。もっとふんだんに時間があって誰もが手詰まりという感じになればそのタイミングでおずおずと発言するという内容ばかりが思いついたので、振り返ってよく考えるとまあ仕方ないかとも思う。もっと積極姿勢の発信内容を自分の引き出しに充実させたい。
出来ないことの多い恥と苦しみのなかで心に擦過傷を負い、血が出るというのは生きていることだと自分を励まし、なおかつ赤いものを直接には見ないようにして予定されていた飲み会に出た。都の夏と書いて都夏。2階の椅子のある座敷席で一杯目のビールで赤を洗い流す。あとはいつものように人の話を聞いているだけ。役者・・・飲み会で背もたれを使わない人たち。彼らのなかにあって自分が目立つのも無理はない。目立つと言うよりは浮くという感じだが。しかし存在感という一点で見れば同じことになるのだろう。出来ないことに目をつぶってでもやっていかないとどうにもならない位置に自分を置くことは、”背伸びの必要”が合理的、合目的的になるということでもあって、”のぞむところ”なはずだ。
「できないことができるようになる」というのを自分は自分にとっての楽しいことだと考えてきたが、それにすこしの修正が入った。「できないことに挑戦する」というのがそれだ。つまり、できるようになる時点で楽しみの対象から外れるということもあるし、できるようになるというのは、それを目指す段階で間違ったアプローチの路線に入り込み、過ってできるようになったと思い込むリスクから逃れられないということがある。さらに”できる”というところにゴールを設定すると、短絡したり、できるところで行き止まったりする。結果を見ないで過程に焦点をあてるということを意識するなら、できるようになるというのはべつの言い方で表現されなければならない。


2026/11/01 一昨日 17266
稽古2日目。午前中はNBAを見ていたはずだがあまり覚えていない。初日には台本の読み合わせがなかったので今回が初のセリフ読みになった。最初の読み合わせでは紙を持つ手が小刻みを通り越すレベルでぶるぶる震えるほど緊張した。はじめのほうは演出が緊張をほぐすように場を暖めたり高まっていく緊張感を笑いを用いてうまく抜いてくれたおかげで比較的平常心で入れたのだが、途中で相手役の向こうに参加者の人がいるのがなぜか目に入ってしまい、そこで一気に緊張が爆発した。そうなると手元にある読むべきものが”お守り”になり、それに縋ろうとしてしまう。その場で言うべきこと・たしかな正解・書かれたテキストに助けられようとしてしまう。そうなったら相手のほうを見るみないという話ではない。そうなったとき本当は読むべきテキストではなく(自分が演じる人物にはそんなものは本来存在しない)、目の前の相手に助けられようとするべきだ。役者が稽古までにしっかりセリフを入れていくのは、セリフを入れる努力のほうがセリフが抜けて味わう苦しみよりはるかに小さい苦痛だからだ。ということが今回の読み合わせで嫌というほどはっきりわかった。喉元過ぎれば熱さを忘れるということはあるが、このことをしっかり覚えておいて次の稽古に活かすようにしたい。「セリフの%を下げてそのときに受け取ったことをもとに発信するように」というコメントについても、セリフの%を下げるために、きちんとセリフが口をついて出るように事前準備しておくということとなんら矛盾しない。どうあっても話の流れに沿うことができるように、役をする人物の目的を明確にしておく必要がある。そのヒントが台本のセリフにあるからやはり目的が明確になるまでに読み込み、それがそれらのセリフを言うときの自分自身の目的になるように覚え込まないといけない。自分がなんとなくで考えているよりもずっと難易度が高いことだ。自分は目的をもって人と会話するということをこのところ一切していない。このところというか覚えているかぎりではそういうコミュニケーションをとったことがない。半ば無意識的に誘導しようとしたり、印象づけようとしたことがあるが、それが目的として前面に出るような状態で人に何かを言ったり働きかけたりすることをかなりの間怠ってきている。とはいえ、そういうことをしていこうとも思わない。そうやって気を揉むのは面倒だし、そもそも思惑と発言を切り分けるようなやり口を下品だとする傾向がある。これは権力に対する働きかけが弱いということで、三国志などのシミュレーションゲームにおける「政治」のパラメータが低いということだろう。自分のような価値感が大勢をしめる環境下ではスイスイ泳げるはずだからそうまで単純に低いとはできないのではないかと思わないでもないが、まあそういう環境が実際あるわけでもなし、現実いろんな場所で自分をそこに適用できていないということをもって「低い」で間違いない。残念だけれども。
稽古を飛び出してバスケに出かける。駅まで今回参加者のなかで最年少の役者と同道することになる。つい最近高校を卒業したような若さでありながら、高校の部活をはじめ社会に身を置いているもの特有の社交性が身についていて、あくまでも自然にこちらに気を使いながらにこやかに「お疲れ様でした」というゴールまで辿り着いていた。それを受ける自分は、若いのにしっかりしていてすごいねというごく当たり前の挨拶も言えず、ただただ立派だと目を瞠ってぎこちなく反対方向の電車に乗り込んだ。このようにあまりに出来た人だと褒め方を間違えると失礼になると思ってつい口を噤んでしまう。そこにまで気が回らないあたりまだまだですね。という軽口なども直接言えず、しかもこうやって日記に書くということができるようになってしまった。なんたる鉄面皮、なんたる厚顔。彼らと自分とを比較するのも本当はおこがましいが、それでも相手を”敬して遠ざける”ことでダメージを減らそうとするのは止める。自分には自分のやり方があるし、どれだけ相手が優れていると感じられようがあくまで対等の立場で、尊敬はするが敬遠はしないという意識を持って、場に踏み込んでいく。
バスケはチーム対抗試合。落合第二中。遅れていってチーム分けが済んだあと、追加メンバーとして参加する。若くてうまいプレーヤーが「高さが足りなかったのでありがたいです」と言ってくれる。この人はチームの雰囲気を良くするタイプの実力者でこのチームの柱だった。高さを評価されると謙遜でもなんでもなくすこし申し訳ないような気持ちになる。ゴール下の存在感はそれなりに発揮できるつもりだが力押しに押されると押されたままのかたちにへこんでいく段ボール守備しかできないので試合形式になるとチームメイトにとってはなはだ心もとない存在になるという自覚があるからだ。チームのために押し返すという気持ちもないし。怪我するのも痛いのも嫌だし。せめてもと一生懸命に走り回っていたら、終わったときに久しぶりに体力ゼロ状態になった。しかもアドレナリンが出ているのでゼロ状態に気づかずに最後までシューティングをしたりカットインのステップを踏んでレイアップをしたりしてしまった。帰り道で急に疲れがどっと押し寄せる。電車の中でぐったり。這々の体で帰宅。


2026/11/02 昨日 5758
一日在宅。休息日に当てる。NBAを見る。クリッパーズvウォリアーズ、流し見だったが八村がなかなかの活躍をしているように見えた。昼ごはんにお米を炊く。家人の作ってくれたニラレバと味噌汁。昼寝をしたあとプッシュアップ1分10回繰り返しチャレンジほか、Google Healthのワークアウトなど。定時退勤してから雨が止むのと家人を待ってユニクロに出かける。NEATやcomoli、AURALEEのパンツを見てどれにするか考えてから一度どういうのがいいかユニクロで試着してみるという趣向。黒のパンツはこれでいいだろというのが見つかり一気に3本買ったものの、もともと見ていたブランドのパンツのことを考えるとかなりの節約になった。Cのバレルパンツ、バレルジーンズを2本、Uのイージーワイドパンツを1本で合計13000円。帰りにビレバンに寄ってブルージャイアントモメンタム9巻を買う。ダイエーに寄るながれになって危うかったがすんでのところで酒を飲まずに済んだ。ダイエーに行けば氷結を買うことは避けられなかった。だいたいその程度にはアル中だ。チャンスの時間の桃色落語での国崎のパフォーマンスを見る。オダジョーに指摘されていた”吐息演技”に拍車がかかっていたが、あの迫力を出せる人間が他にいるかと思われるほどの圧巻の演技で、笑うには笑ったが笑いの種類がいつもとはちょっとちがう感じがあった。はっきり言って怖ろしかった。わたしを構成する漫画とゲーム9本を考える。早く寝るつもりがくだらない短動画を見て夜更かししてしまった。


2026/11/03 今日 1676
9時前に起きだしてスタバに出かける。行きの道すがらバランスサポートブレッドを食べる。『暗夜行路』を読む。日記を書く。出来事がたくさんあってもっと詳細に書ければいいのだが日数が溜まっていたせいでだいぶ端折らざるを得なくなった。夢にしても面白い夢をたくさん見たのに、その全部を忘れてしまった。お笑いの現場に立って考えがまとまらないうちに振られて無理くり何かを言ってはシラケさせるというような内容の夢を複数回見たような感覚がある。一度の夢で何回もそういうことがあったのか、複数回そういう夢を見たのかも思い出せない。とにかく千鳥の大吾は全然優しくなかった。文化の日だがバスケに出かけようか考え中。一旦昼食のために帰宅した際の家人の提案次第だが、たぶん行くことになると思う。13時すぎにスタバを出る。

20261028

日記815

観測士と観測助手

2026/10/27 昨日 6850
スタバを出てからファミマで氷結を買ってミカン入口で飲む。YoutubeMusicでひとまとめにして聞きたい曲でプレイリストを作成する。氷結は期間限定のキウイ味を買うつもりが見間違いでGFを買っていた。4口ぐらい飲んでようやく違和感にぶちあたる。帰りにいきものがかりのさよならララを聞いていたらふいにと胸をつかれる。わりと早めに寝る。


2026/10/28 今日 3332(3542)
午前在宅。朝起きて調子がよかったので急遽午後休をとることに決める。天気も良くて秋の気候で体調も良いのに働いているのは勿体ないということでそう判断した。NBAを見る。セルティックスvネッツの試合がOTにもつれ込む面白い展開だった。ミッチロビンソンが最終盤でFTを2本とも外してOTにもつれ込んだのだが、OTの残り2.3秒でエースのテイタムが逆転のブザービートを決めて勝負あり。本人以上に嬉しそうなミッチロビンソンの様子が面白かった。いかにもアメリカで人気の出そうなロールプレイヤーだ。かわいげがあってつい目で追ってしまう。
今週末に初稽古を控えているのでもらった台本の自主練習をする。昼ごはんを食べて出かける準備をしてからカフェに出かける。カルチャルなコーヒーショップで『存在と時間』を読んでから考え事をして何も思いつかないまま日記を書く。17時半ですっかり暗くなってしまった。区民センターに行って用事を済ませてからバスケにいくつもり。
Mibandでの計測結果とFitbit Edgeでの計測結果が異なっている。()がMibandの歩数。

20261027

日記814

漢と犬

2026/10/25 一昨日 17084
スタバを出て帰宅。スパゲティ300gを茹でて食べる。ダイエーで初めて見たたらこソースを買って使ったがやはりあまり美味しくなかった。味はしっかりあるので食べられるのは食べられた。雨のなかバスケに出かける。高円寺体育館。この日はいつにもまして盛況で人数が多く、休みとプレーが交互だったのでそこまで消耗しなかったが、それでもかなり疲れた。どこも痛くないのにここという場面で走り負けたり、ここぞという場面でボールを要求できないなど、6分間を走りきる体力がそなわっていないのが浮き彫りになった。うまくなりたいという意欲はあるつもりだがそもそも走れないのでは何にもならない。前より走れるようになっていないというのが残念ながらすべてだと思う。パフォーマンスや出来というのは”走力”という土台の上に築くものだ。狛江でもよく会うおじさんに車で送ってもらう。典型的な講釈垂れたい型のバスケプレーヤーだが、さすが垂れ慣れているだけあって言っていることには一定の理がある。ずけずけと物を言っているようでいてじつは言ってもしょうがないことは言わないようにしているというのは年の功によるものか本人の資質によるものか。自分にもいろいろと注文がつくので、話半分で面白く聞いている。言ってきたことに疑問を返しても嫌な顔をしないどころか「それはね」と嬉しそうに返答してくれるので一見いやなやつのようでじつは良いやつなのかもしれない。それでこちらの聞く姿勢が話半分以上になるわけではないが。コンビニで酒を買って駅前広場で飲んでから帰る。ローソンに売っているチーズ2倍トルティーヤを買って食べる。やはり美味しくない。セブンの類似商品のほうが全然普通にうまい。それにしてもローソンに美味いものなしだ。バランスサポートブレッドは優秀だと思っているし、家人はスイーツコーナーを評価していたが、弁当類のセブンとの差はどんどん開いていく一方だ。こんなことは5年以上前から考えられていて理論上これ以上は開けないはずなのに、それでもどんどん差は開いていく。不可思議千万だ。


2026/10/26 昨日 7260
午前在宅。NBAを見る。スマホのマルチ画面で見るのが一番効率的に試合を消化できるということに気づいた。OKCのジェイダブという選手が試合中に深刻な怪我を負った。フルパワーのパフォーマンスを見ていると怪我をするのも当然だと思える。むしろけが人の数がそこまで多くならないのが不思議なほどだ。スポーツ選手は華やかだが儚い。
午後から出社。正直出社すると仕事が進んでしょうがない。進むからといってどんどん仕事を進めてもそれこそしょうがないので出社しようとはならないが、一定以上溜まってきたら出社すればいいと思っているところがある。まあまあの緊急事態(客からの大激怒の電話)が発生してその対応や状況説明に追われたが、上長に顔を合わせで説明したら納得を得られた。ただしその対応のために普通に1時間半の残業になったので八方よしとはならなかった。下北で下車し酒や惣菜を買って帰宅。ご飯を食べながら家人と『たちあがる女』を見る。個人が個人の責任においてインフラを破壊することで社会抗議活動をするというのは、個人という立場から否定できることではある。一方、社会人という観点や社会人という立場からそれを否定するのは当然可能ではあるものの、かならずしも有効ではない。当局の治安機能によって罰則を与えることやそれを肯んじることで抗議活動を否定するということがせいぜい社会にできることだ。『なめらかな社会とその敵』という本があったがそのタイトルを見て思ったことを思った。テロリズムとされる事象について個別に判断したり、その是非を評価することは今あまりにもできないという感覚はある。「ストップをかける」。人的被害を出さない方法でという条件を満たせばそれ以外に方法がない場合、そのこと自体は肯定されてしかるべき面を持つのではないか。正常に回る物事はそうでもしないかぎり正常に回り続ける。その正常のなかにそれこそ不当としか言いようのない人的被害が多く組み込まれている場合、それを止めるために必要なことは何だ。それを止める側として真剣にその方法を考えるとすると、まず驚くのはその方法の少なさと、行動によって見込める効果のうすさなのだろう。お邪魔者というボードゲームをお邪魔者としてプレーするとき、彼らが環境活動家として行き過ぎた資本主義を是正するためにサボタージュを試みているのだと想像してロールプレイすると、より真剣にゲームを楽しむよすがになると思った。今度そのつもりで遊んでみよう。『たちあがる女』はむやみに声高にならないで静謐のうちに主張する強度があった。犠牲者や身代わりがその都度発生するという機序はあるものの、それを肯定しないまでも即座に否定し去ることもできないのは、協力者を持ちながら女がひとりで抗議活動をしているという一点にあるだろう。その意味で、この映画を見るときに「たちあがる女たち」と間違って記憶していたのは大きな間違いだった。オルグせよ、団結せよ、というのはTRUEではない。この映画における音楽演奏者のように、あくまで個人としてべつの個人の側にいられたらと思うが、それは消極的で卑怯な態度だろうか。行き止まりを象徴する”水たまり”のラストシーンにも忘れがたく強い印象を受けた。


2026/10/27 今日 4160
一日在宅。昨日のインシデントの後処理をしながらNBAを見る。予約注文していたFitbit Edgeが届いた。さっそく設定をして左手に装着する。これまで運動関連のデータを取ってくれていたmibandはとうとうお役御免となるが、2,3日間だけ並行稼働させようと思う。移行前に各機の正確性を計測しておきたい意図からだ。mibandでたくさんのデータを取れた。歩数だけを見ても次の通りだ。そのほか心拍数や睡眠時間のデータもある。
2022年:8974歩/日
2023年:8247歩/日
2024年:10429歩/日
2025年:12590歩/日 
2026年:12652歩/日(10月27日現在)
データ取得はAI時代において明確になった”人間の職掌”だ。素材集めさえ欠かさなければ、つまり生活に組み込みさえすれば、その素材を使ってできることの幅は勝手に増えていく。写真も日記も広義のデータ取得にほかならない。
文学をこころざすというのは、個人という観点に依って社会に働きかけることだと思っている。個人という観点から、べつの個人へという方向でアプローチして、そこから社会に影響を与えることを目指す運動が文学の眼目にある。そう今の自分は考えている。いやしくも文学という以上、ただの体制批判に甘んじることがあってはならないが、それは体制批判を含まないということではまったくない。むしろ体制批判は前提のようなものであって、そこからそれ以上の何かを引き出すことを目指して文学は活動しなければならない。
定時退勤し理容室にいって白髪ぼかしの処置をしてもらう。スタバで日記を書く。気炎を吐いたあとなのでこの日は酒を飲まないでもいいと思われるかもしれないが、当然そういうわけにはいかない。そして、文学について付け加えると、上のような理路から「文学は教えられるものではない」と考えるようになった。ただし教えることはできなくても教わることはできる。個人が文学作品から教わるという仕方で。他人に向けて「それをしろよー」というのは教化ではなく扇動だ。自分が『たちあがる女』を見て今思っているのはたちあがる男でありたいということだ。それにつけて思い出されるのはトマスピンチョンの『逆光』(原題:Against the Day)。とくにすきな小説題のひとつだ。

20261025

日記813

そして誰が裏切るのか

2026/10/22 一昨昨日 9894
新宿で家人と合流し、ねぎしで晩飯を食べる。映画『DIGGER』はその仕掛けも含めてたいそう面白く、感心させられた。演説の迫力で内容に問題があっても説得力を持たせることができ、それによって社会が過った方向に進むことがあるというのを映画のなかで説得的に演出していて、監督の力と俳優の力が渾然一体になった素晴らしさがあった。トム・クルーズの演技力というものを超え出た”説得力”のようなものは、単に彼の人格という観点だけからは説明のつかない社会的な肖像の域に達していて、「いったい誰がトム・クルーズなのか」という疑問をトム・クルーズ自身を巨大なスクリーンで目の当たりに見ながら抱かせる。しかもその疑問を不自然なものに感じさせずにまっとうな疑問だとさえ思わせるような不思議な肖像が出来上がっている。そしてその疑問の起点になっているのは入れ子状の演劇構造なので、演出上そう見せたいという明確な意図があり、その設計通りに人物像が的確に構築され、要所に置かれた彼らが演出意図の通り(またはそれを一切阻害しないかたちで)精確なパーツとして振る舞っていることにいつしか感動させられることにもなった。とくにジョン・グッドマンは怒れるイカれアメリカ人を演じさせると右に出るものはいない。個人的にはこの映画のひとつめの大きな仕掛けが明らかになって以降に「あれ、これジョン・グッドマン?」と気づくことになり、ひとつめのものと遜色のないほどの大きな衝撃を受けた。『DIGGER』は、プロパガンダという言葉が生まれるよりはるか以前に”物語の力”というものはこの世界に存在しており、それが多くの人間を動かしてきた結果としてこの現在があるということを認識させることの非常に上手な映画で、映画が映画としてこの社会の中にあることの意義をものすごく雄弁に語りかけてきたという点でもアメリカ的な映画だった。ジョン・グッドマン扮する時の大統領がその世界観の代表者として「中国こそがもうひとつの癌だ」と叫ぶシーンはドのつくほどの直球でかつアホらしく、しかも日和るということをしていないので、言っている内容の正不正に関係なく痛快でならなかった。なお、独我論をとなえる大統領ほど恐ろしい存在はないと思っているが、それのシリアスなバージョンが実際現在ロシアにいるのではないかと考えると、そんなことはちょっとも考えたくないほど恐ろしいことだ。健康であることは重大事だ。ただの痔でさえ彼を回避してほしい。
家人と帰りがけにこの映画について感想を話し合うなかで彼女の意図を受け損ないまんまと機嫌を損ねてしまった。最後のシーンで演劇の外の世界が明示されるのがよかったという彼の意見に対して、我の意見は暗示にとどめても十分なのではないかというものだったので、そこの差をただの差として提出すればいいものをお互いに自分の感じ方を曲げたくないので生硬なやりとりになってしまったのが小競り合いの主原因だったと思っている。マスクの代わりに我々は板状の端末を各々取り出しつつ、映画館から外に吐き出されていった。新宿TOHOで映画を見たので外は23時すぎの歌舞伎町。見慣れてはいるもののこれもなかなかにSF的な光景で映画の余韻として申し分なかった。
向こうの不機嫌もありこの日は酒を飲まずにいられた。火に油を注ぐことになってもつまらないと思い、早めに就寝。


2026/10/23 一昨日 3169
一日在宅。NBAを見る。午後から出社しようかとも思ったが気乗りしなかったので止めにした。終わりがけになって至急対応とかでコールがかかる。電話口で「事の重大性がわかっていますか」と言っていた。わかっていない体で受け答えし即時対応については要求を呑んで対応したが、しっかり考えれば考えるほど大した問題では全然なかった。1時間半ほど残業をしたあとで稽古用のセリフを覚えるための練習。ガレージバンドで録音しつつ自分の声と掛け合い。そのほか『暗夜行路』を読み進める。一時間とすこしぐらいやってから酒を飲むためにコンビニに出かける。


2026/10/24 昨日 2358
朝からNBAを見る。『暗夜行路』を読む。ぎりぎり読書会開始前に前篇を読み終えられえそうだったのだが昼飯後の昼寝が想定の3倍延びてしまい、第二の11までしか読み終わらなかった。ぎりぎり10分前に最後の場面を中心に流す。ややもったいない読み方だと思ったが、志賀直哉の暗夜行路にそこまで気兼ねしていたら気ばかり遣って大変だと思い直す。
読書会はやはり面白い。人との読み方のちがい、共通点が浮き彫りになるというのは自分の読み方に座標を得ることでもある。芥川の短編集のほうはたったの3作しか読んでいかなかったのでこちらは惜しいことをした。未読のなかでは『竜』が面白そうでとくに興味を持った。竜之介という名前の男が書く『竜』という小説には興味があるというのがひとつ、奈良の猿沢池が舞台になっているというのがひとつ。
酒を飲み飲み読書会の第2部に21時まで参加。その後、仕事帰りで喉をいわせた家人と映画を見る。『立ち上がる女』が面白くなりそうなところで眠いから今度にしたいという申し出。軽いものをさがすうちに『アリス』というチェコのアニメ映画を見つけたのでそれを再生する。チェコの1980年代の映画で、面白いところもあったが眠かった。そうこうしているうちに布団乾燥機の稼働が終わったので寝にかかる。


2026/10/25 今日 1998
朝からNBAを見る。週末の試合はクラッチゲームが多い印象。クラッチゲームというのは5点差以内で終盤を迎える試合のことらしい。ここという場面で決める能力やここという場面で止める能力というのはいかにも最大フルパワー中のフルパワーという感じで見ているだけなのに力が入る。そう考えるとクラッチゲームかそうでないかによって観戦の質は大きく左右されるわけで、週末にクラッチゲームが多いのは何らかの調整がなされていると考えるのが自然だ。そもそも”プロバスケ”なのでその部分についてとやかく言うつもりはないが、「裏切られた」というような初心なリアクションをすることのないよう心得ておこう。
休みの日に家でNBAを見ていても仕方ないので家を飛び出てスタバに行く。『暗夜行路』の読み残しを消化し、芥川の短編集のうち『邪宗門』を読んでから日記を書く。

20261022

日記812

すすめグリーン

2026/10/21 昨日 7760
20時過ぎにスタバを出る。通例になっている駅前での飲酒。氷結レモンの一口目が気管に入りそうになって噎せる。ミカンの入口でモーツァルトを聴きながらしばらく往来を眺めて過ごす。IQテストについて次のようなことを考えた。自分はやはり高IQという特性に惹かれる。だからIQテストを受けて自分が高IQであることを知るべきだ。しかしひょっとすると自分は高IQではないかもしれない。というか自分流の自己採点で計測するとした場合、おそらく高IQではないと思う。高IQであるにしては頭がぼーっと霞がかった状態になることがあまりに多すぎるからだ。そもそもこれだけ生きていれば自分が高IQに属するかそうではないかというのはわかってきそうなものだ。高IQであればなおさら分かるはずで、たぶんIQテストを受けることに決めた人はほとんど他薦のようにしてそういう機会を得ているか、あるいは明らかに自分の置かれている状況が変だという自覚症状のようなものがあって自分で受けることに決めたというような経緯があるはずで、そのどちらもない時点で、そして高IQに漠然と憧れのようなものがある時点で、自分は明らかに高IQではないと判断できる。そもそも自分は知性あるいは賢さに憧れがあるだけであって脳機能の優越に対して憧れがあるわけでは必ずしもないというところまで考えて高IQへの憧れを封印するようにしてこのことを考え終えた。
ご飯を食べようと思ってどこの店に入ろうかと考えたがとくに妙案も浮かばず、ダイエーで焼きそばと焼きそばの具を買って帰ることにした。そして家で焼きそばを作って食べた。すくなくとも自分はこの夜の自分に必要なだけ十分に賢かった。


2026/10/22 今日 4483
最近途中で目が覚めてしまう。なんとか寝付いて夢を見る。午前在宅。NBAのウルブズvヒートを見る。ウルブズの快勝だった。ふたりのエースはもちろんのことゴベアの巨人感がたのもしい。スパイダーバースのプラウラーおじさんに似ている気がする。病院に検査結果をききに行くため午後休に。クリッパーズの八村も苦労してそうだったが出かけるために途中で見るのを止めた。診察後にもうやんカレーでおそめのランチ。1杯おかわりの料金を払ったがお腹いっぱいでおかわりできなかった。コーヒーとルイボスティーを2杯ずつ飲むことでその代償を支払うことにした。新宿中央公園の芝生エリアで『暗夜行路』を読む。途中寝っ転がってそのまま30分弱昼寝した。雲間から日差しがさすと明確にぽかぽかを感じられて、太陽の火の玉としての大きさを思うなど、”海辺の一日”的な意義深い時間になった。そこからもうちょっと読み進めるも、すこし肌寒くなってきたので道向こうのスタバに入って続きを読む。ぼーっとしてとりとめもない考えに耽ったり、ひさしぶりにWEBアクロスの消費生活をのぞいてみたりして時間を過ごす。日記を書く。今は19時ちょうど。20時50分から新宿TOHOで『ディガー』のIMAXレーザー上映を家人と見に行く予定なのでそれまでもう少しだけ時間を潰す必要がある。バスケ関連のショップに行ってみようかと考え中。

20261021

日記811

白胡麻か黒胡麻か


2026/10/20 昨日 17280
午前在宅。午後遅くから出社。通勤時間に『暗夜行路』を読む。あらすじだけ見るといかにもつまらなさそうな話なのだが、実際読んでみるととにかく読みやすすぎる。さすが志賀直哉だ。主人公の時任謙作が〈一般>内輪>自分〉という構成で理路をすすんでいくのが面白く、いつのまにか好感を持つようにできている。「しかし、しかし」と言いながら自分自身の考えを掘り進めようとしていくやり方には特有の良さがある。そういうのを指してつい若者的だと言いたくなるが、それはたまたま昔の自分がきちんとそういうことをしていて今の自分があまりそういうことをしなくなってきたというだけの話だ。何かの言説に対して「しかし」で挑みかかりながら、それを考えて言説にしようとしている途中でさらに「しかし」がやってくる。くるくると独楽のように回ってどこにもいけない感覚を持ちながら、それでも螺旋階段を降りていくように深化しているはずだと楽観していられた。
Tverで見たジェラードンの二本目のコントで、アタック西本が叫んだ「いま君は何を思ぅう!?」が頭に定着して離れていかない。このセリフは簡単でありながらもその射程は相当長く、広く、深い。人が人に言えるセリフのなかでもかなり強い質問なのではないか。
日記を書くときも暗黙裡に意識していることでもある。いま君は何を思ぅう!?
KBCのバスケに参加する。佃島小。ゲームは6号球でやる集まりなのでシュートタッチがずれるのを気にしてあまりシュートを打とうとしなかった。家人が得点王になる回もあって楽しかった。バスケ後の飲みも楽しかった。調飲酒組合というなかなか洒落た店だった。日本酒の南(高知)はアルコール臭がつよくあまり美味しく感じられなかった。若人の合コン参加話に耳を傾けたり、全くしないでいいようなアドバイスを押し付けたり、まさに押しも押されもしないおじさんムーブを見せつけた。アドバイスというのは「定時退勤NGという価値感を止めろ」というもので、助言のテイにもならない自己擁護だ。それでも冗談を冗談として受け取ってくれる明敏な人たちに囲まれて楽しい会だった。時間を忘れてあやうく終電車を逃しそうになる。


2026/10/21 今日 5376
一日在宅。NBAのシーズン開幕戦を見る。76ers対ニックス。OKC対スパーズ。どちらも応援している方が負けた。日が出ているので洗濯物を干す。途中Webでのミーティングに参加。夕方近くになって最低限の仕事をやる。家人にも呆れられたように、意固地になってできるだけ仕事をやらないように努力しているのは意味がわからない。我ながら笑いそうになった。定時すこしすぎに退勤。風がつよいなかスタバに行って『暗夜行路』を読み進める。日記を書く。
『存在と時間』のなかで直近とくに首肯した言い分があった。それは次の言い分だ。
現存在がそのうちで言表されている最も基本的な言葉の力を、それらの言葉が常識によって了解不可能なものと水平化されないように擁護するのが、結局は哲学の仕事(『存在と時間(合本版)』571p)

20261019

『海辺の一日』を見た

エドワード・ヤンの長編デビューの映画 『海辺の一日』を見た。

映画を見ていると気づかないうちにドラマを探す。ドラマが物語の中心になり、そこを起点にして回っていくという視聴経験がそれなりにあるから、心が安定することを求めてドラマを探すのだと思う。映画『海辺の一日』は、まずそういった起点を構築しておいてから、徐々にそこから離れていくという方法をとって、いわば遠回りのようにして話を進める。それを指さして物語の脱構築を目論んでいるという見方がありえるかもしれない。しかし、それは論じる用の物の見方にすぎない。ようするにそういうのが好きな人にとっての中心がドラマではなく評論であるというだけの話で、『海辺の一日』の意図するところからすると、同じように離れるべき対象だとされるのではないかと考えられる。
そもそももし論じるとすれば、それにあたりまず言えるのは、「海辺の一日」という題が示唆的であるということだ。それはたとえば「女の一生」という言い回しとの鮮やかな対照をなす。つまり、部分と全体との項対立をイメージさせる。はるかな水平線という広がりでありながら、しかし、截然と分かたれた一線でもある海辺のイメージが焦点化するのは、それなりに長い期間ある人生におけるある特定の一日だ。見るものがこのイメージに入っていくためには、一旦、見るもののほうで自動的に作成される中心点から、見るものを引き離すことが必要になる。
そのようにして場を整えられた海辺の一日だが、それが指し示すものは直接的にはその一日の出来事でありながら、それだけではない。つまり、海辺の一日は一日にして成らずとでも言うべきところで、海辺の一日に焦点しようとする試みのなかに不可避的に入り混じる、それ以外の一日、その連なりが、あたかも図に対する地のように、その模様をあきらかにしはじめる。海辺の一日以外の毎日、それを間接的に指し示すことが、しかるべく場を整えられた海辺の一日にとっての可能事になっているのだ。たとえばこの私の人生にとっても海辺の一日と呼べる一日はあり、実際、この映画を見ながら私が考えていたのは、海辺の一日をできるだけたくさん作るように努めなければならないという被啓蒙的な感想だった。海辺の一日とそれ以外の一日があるとした場合、実際にこの私が過ごすことになる一日はできるだけ海辺の一日にするべきだというような、ある意味でまっとうかつ素朴な論理だ。
私はいま、平日の多くの時間を特別やりたくもない仕事をして生活維持の資を稼ぐことに費やしている。こんな時間を持つぐらいなら、たとえお金を一円も得られなくても海辺に佇んで水平線に目を凝らすようなことをして日を過ごすほうがよっぽど自分にとって有意義だと半ば以上本気で考えている。そしてそう考えながらも実際にはそうできずにいる。つまり文字通り”『海辺の一日』ではない一日”を、これではないよなと思いながら一日一日と過ごしているのだ。だから先の被啓蒙的な感想はわりとはっきり冗談などではなく、言葉にすれば明確に非合理で、しかもごくありふれた世間並みの滑稽味を帯びつつ、そのうえ今の自分自身にとってだけ切実な感慨だといえる。
登場人物のひとりが言う「ビジネスに家庭を持ち込むな」という論理は、優先順位を定めてビジネスを家庭の上位に置くことでその価値を高く設定するための手段にもなる。しかしビジネスには登場人物たちのあいだで協同的にそう考えられているほどには価値のあることではないということが徐々に明らかになる。登場人物たちが自分たちのやっていることについて”大したこと”だと評価するために、彼らは彼ら自身を不機嫌にすることを強いられている。実際、忙しく立ち働いていないと立ち行かないということこそが、彼らの仕事が大変であり、簡単ではないことの証明になるというような、学生が想像するには無理のある、はるかにすくない多段階(二段階)の論理にしかなっていない。さらに、忙しくしていることの利点として論理の検証をせずに済むということがあるため、論理が論理として論理的な整合性さえとれていれば、彼らはその論理は機能していると判断できるという二重の安全弁としても機能している。学生には想像するのも難しいことだろうと思うが、社会人というのは実際のところ、論理のお粗末さというのは論理的ではないことのうちにしかないと考えていられるのだ。今、その単純さというのはあらゆる物事に忍び寄っていて、その結果として起こっているのは単純さという概念が消えかけているということだ。単純さは単純さを認識できない。
何かをつまらないものだと判断してそれとの比較においてそれとは異なるものを面白いと見なすことほどつまらないことはない。海辺の一日以外の一日を何か有意義な一日にするという発想は、まさにそういう項対立の考え方でしかなく、そうやって作り出された有意義な一日ほど名実ともに無駄な日はない。結局のところ、面白い一日というのはただただ湧いて出てくるものなのだ。不機嫌に日を過ごすことでその湧出を妨げてはならない。だから私は私自身の生活における非合理、有意義さの欠如に対して憤るのではなく、次のように単純に考えるよう自分自身を仕向けるべきだ。つまり、「生活するのにお金が必要なのであれば稼ぐだけだ」。それをする日は”海辺の一日ではない日”かもしれないが、海辺の一日は何も本当の海辺にだけあるものではない。目を凝らしさえすれば、たとえ水平線ではなくとも、そのときどきに見るべき線は見つかる。
自分にとって『海辺の一日』は、そういうことがじっくりと明らかになる映画体験としてスクリーンから表れてきた。今年は海辺から海を見ていないので例年に比べると目が水平線に引き寄せられる度合いが大きかったような気がする。それも今のこの自分にとっては心地よかった。

日記816

安全地帯 2026/10/29 五日前 7294 午前在宅。午後から出社。品川で職場の飲み会があった。面白くないほうのテーブルに座ってしまったばっかりに面白くない会になってしまった。仕事の話などいくらしても雑談の域を出ない。だからといってこちらから話題提供...