20251007

映画『ワンバトルアフターアナザー』を見た

映画は気晴らしでしかない。などと言うと、その否定派はたくさんいることだろう(たくさんいてほしいものだ)。
まずもって映画視聴に求めるものをただの気晴らしとするかどうかによっても意見がちがってくるところだろうと思うが、ことアクション映画(以下A映画)については答えが出ている。A映画ははっきりと明確に気晴らしにしかならない。平板な生活から抜け出せるような擬似体験をさせてくれるという意味で、A映画の有用さは決して小さくないとはいえ、そこから教訓を得たり、生き方・考え方の指標にするということはどうしても荷が勝ちすぎている。おそらく子供の純真さをもってしか達成できない。それ以外に教科書がないという状況下でのみ、教訓めいたものを得られるということもあるだろうが、(まじめなA映画ほど)そういった教化を与えようと考えて作られていないことから、突き詰めていった先にはひずみが生じることになる。端的に、そこには無理がある。どんな物事であってもまともに判断しようとする者にとり、主人公の善性については無謬のものとして「目を瞑る」という技能が必要になってくるからだ。
映画、とりわけ巨大な予算が組まれて製作されるハリウッド映画の限界を示す作品として『ワンバトルアフターアナザー』の名が挙がることになるにちがいない。2025年時点でしかとその限界に突き当たったのが記録されたという意味でも、この映画が作られた価値はある。A映画としてよい気晴らしになるという以外の価値として。
映画にはある種の小説を超えることはできないということだ。それは同名小説を原作に『ヴァインランド』という映画を作ろうとしてそれに失敗し、『ワンバトルアフターアナザー』というやや奇矯で未完成品に近いA映画が製作されたことで明らかになった。
たとえば、ディカプリオの娘が忍者スクールの教えの”型”を披露するところから映画が始まればいいのにと思うのだが、映画視聴の制約上それは現実的ではない。(本当にそうか? 映画視聴者のことを不当に軽く扱っていないか? しかし予算規模がある程度以上で、多くの人の目に触れる”必要”が生じる場合には制限の枷はその実在感と重量を増すだろうことは想像にかたくない…)
映画化不可能といわれるたぐいの小説はいくつもある。ピンチョンの小説作品もほとんどすべてそうだ。『インヒアレント・ヴァイス』はその不可能を可能にした作品だったといえるが、『ヴァインランド』で元の評価に戻った。LAの風に当てられて夢に見た映画『ヴァインランド』と比べてしまい、『ワンバトルアフターアナザー』についての正当な評価がむずかしくなっているのかもしれない。この映画は佳作だとは思うが傑作だとは思わない(からい評価だろうか)。
それでもこの一連(ヴァインランド再読、映画への期待と失望、部分再読)によって自分の考えがよくわかった。映画の評価とは直接関係ないがそのことはよかったといえる。
映画の”観客”としての自己より、小説の”読者”としての自己のほうが優れていると感じる。ひとつには読者としての自己のほうが作品への向き合い方がより真率で、作品の粗に見えるところや至らぬところに目を瞑る必要を感じることが少ないからだ。読解力や理解力の不足を補うために、追加の労力を払わなければならず、そのことによって瑕疵が見えづらくなる構造にある、という仮説に対して反論するだけの余力も残されていないが、それを差し引いても、おそらく……。
小説のほうが映画よりもコミュニケーションの量が多く、その質も高いと感じる。小説のほうがその著者との密な絡まりが自然発生する、というよりは、そういった密な絡まり合いが発生しないことには読めているということは言えないような、関係性の構築があらかじめ約束されているようなところが小説の特徴としてある。自分以外の他人の考えていることを知りたいという変な欲求に対して、より多く応えてくれるのが散文による物語作品で、すくなくとも物語部門ではそれ以上の濃密さは求めるべくもないということだ。
他には、記号扱いにされるモブキャラについて、小説では文字通りの記号扱いになるためそうすることに対する抵抗が発生しないのに比べて、映像では記号扱いしつつ画面に登場させなければならないので、どれだけそれをスムースにして感じない程度の微量に減らそうとしても、それが成功しなかったら普通に嫌な気分になるし、成功したら成功したでその分だけ今度はそれに対する抵抗が生じてしまうというジレンマにおちいるということもある。
小説を読むというのは決して気晴らしではなく、それ以上の何かを得るためだというのは、以前から自分がそう考えてきたことだが、こういう考え方というのは良く言っても”シンプル”だというのは、他ならぬピンチョンの小説作品の内側から響く通奏低音のようにして何度となく聞きとってきた声でもある。そういった”シンプルさ”というのは、作品の中でも決して嘲られたり軽んじられていたわけではない。むしろ強大なものとして描かれ、なんとか逆らおうとして失敗したり、部分的に成功したと思ったらやっぱり失敗だったり、逆らわずに済ませて失敗を回避したりする、情けなくも完全に見捨ててはいられないたくさんの登場人物の対向にある。決して打破できないが、そうは言っても「これはなんとかしないとね」という力だ。
だから本当にやるべきこと、やる価値のあることは、『ヴァインランド』を読みつつもそれはそれとして、『ワンバトルアフターアナザー』を一本の映画として独立に評価するということではないか。
時代の流れに逆らおうとしながら失敗したものの、アクション映画としては見るべきところのある高予算映画で、決して傑作とは言えないが映画館で見る分には間違いなく佳作といえる、ポール・トーマス・アンダーソン作品のなかではもっともつまらない映画というのがまともな評価だ。
弩級に面白い小説と、佳作の映画を並べて考えると、混乱してどっちがどっちなのかわからなくなるし、それで必要以上にイライラして余計にフラストレーションも高まっていくというようなことが起こっている気がする。普通そういうことは起きないはずなのだが、既存の価値判断に謎の液体をぶっかけて磁場を狂わせるというのが、天と地をひっくり返そうとする勢いで反体制的な、つよい魅力を持った何かの力だということは言えるかもしれない。
関係ないが、ある人物の持つ性質や属性、それにまつわる歴史を、記号化したひとりの登場人物で表そうとするな馬鹿、ということは思った。批評家的な視点を映画内部にメタ構造のように備えているからOKということにはならない。
そして、武装革命家の闘いより生活保護受給者の闘いのほうにより多くの見るべきものがあり、それは映画によっては表現され難く、小説という表現形式の台頭を待たねばならないというのが『ワンバトルアフターアナザー』と『ヴァインランド』とを比較してまず最初に感じられることだ。だから結局、何事にも適切な表現形式があるというだけの話だ。
買ってでもする苦労はできるうちにしたほうがいい。それはトマス・ピンチョンの小説『ヴァインランド』を読むことだ。


「買え、いくら出してもだ」奈南川零司

日記652

非点灯

2025/10/06 昨日
スタバを出てからダイエーで氷結GFを買って飲む。家人に歩かないかと打診したらしばらくしてから歩こうという返事がきたので最寄り駅からまいばすけっとまで歩くことにした。オリジン弁当で豚バラ辛子味噌弁当とライス中を注文して帰宅。アンシャーリーを見ながら食べる。19話はアンがグリーンゲーブルズに帰省する場面から始まり、ルビーが病気になって死期が近いという。全然そんな話は聞いていなかったのであまりの急展開についていけないのだが、やつれながらも空元気を出すルビーと、その痛々しい様子を見ていられないからルビーとふたりでは会わないようにするダイアナの気の弱い優しさ由来の冷淡さが堪えた。とくに詳しく描かれていなかったがダイアナの気持ちは理解できる。もしかすると大学で外の世界に出ているアンよりも顔を合わせる機会も多かっただろうし、そのときに何らかの衝突ないし決定的なボタンの掛け違いがあったのかもしれない。しかしいずれにしても早すぎる死を描くことでメメントモリや天国への道という信仰をモチーフにしようとするなんて作者は見下げ果てた下司だと思ってしまう。悔しいのはそれがフィクションの専売特許ではないところだ。アンシャーリーの時代にはとくにめずらしくない事態で、友人のうち何人かは若死にをしなければならなかったのだろう。だから許しがたいのは作者ではなくそうなるシチュエーションのほうだ。
アンはみるみる弱っていくルビーと会うのがつらくなって、途中で会うのを止めてしまう。ダイアナもだが、そうなるのは避けるのが難しいことだと思う。しかし、アンは一番つらいのはルビーだということに気がつく。生きているといろんな嫌なことつらいこと許せないことがあるが、それにしても若くして死んでしまうことでそれらのいろいろな嫌なことをつらいこと許せないことを含むよしなしごとから離れなければならないつらさほどではないだろうということだ。アンは心を消耗させながら昼間にルビーと会い、夜は疲れた心を解放するように机にむかって小説を書くという生活をしばらく続ける。メメントモリも天国ありきの信仰も、自分には理解の及ばないところにある思考だが、小説を書くことがアンの消耗した心を回復させるというのは理解できる気がする。ルビーもアンも心に思ったことを言葉にするのがそれぞれに難しい、しかしそこには何かがあるというふたりだけの邂逅を経て、その一部を天国への道と呼んでいた。言葉や概念がそれで正しいかどうか、それが自分の思考に沿うかどうかというのを超えて、そこには何かがあるはずだ。その邂逅を経てルビーの苦しさやつらさがすっかり無くなり、心安らかに死を迎えられたとは思わないが、「ああ、これですっかり可能になる」と心から感じられる瞬間があったのは確からしく思われる。どのようなかたちであれ、それは無いよりもあったほうが良いものだ。自分が信じないからといって宗教を信じる人をないがしろにはできない。それは自分の観点では、準備できないものに対して準備しようとする試みで、その役に立つと想定できるものは何でも使ってそう試みようとすることではないかと思う。感じ方によっては、本当に全然なりふりかまっていられないはずだから、藁をも掴もうとするのをとやかく言うことはできない。ただ自分にはそれが果敢ない藁に見えてしまうというだけの話だ。そこに目を釘付けにしたり、しかと掴んで安心しようとすれば、いずれ流れてくるはずの丸太の出現を見逃してしまうのではないかという合理的な恐れがある。


2025/10/07 今日
朝から出社する。図書館ポストで本を返却してから出社。午前中に事務仕事を終わらせ、なくても良い会議に参加し、昼過ぎから在宅勤務に切り替える。久しぶりによく行っていたバルボアに行って焼きカルボを食べる。最近大食しているのでいけるはずだと特盛700gを注文してみた。満腹が近づいてきても減らない皿に一瞬怯みそうになったが、四の五の言わずに口を動かし続けて完食した。俺の胃袋は宇宙だ。
鬼滅の刃のアニメを見る。「無一郎の無」の回で、よくある兄弟ものの結末を見せられたのだがやっぱり泣いてしまう。死や危険に備えて、脅威から守るために厳しい目線を切らないというのは、状況からすれば間違いではないどころか生存率をあげるための実効的な営みなのだろうが、結果としてそれで死期を早めてしまったとしても、相手に優しくあろうとするのはやっぱりそれはそれで合理的なのではないだろうか。生活が楽しいことは大事なことだし、生活を続けていこうとする以上、その試みが奏功すれば生活は続くのだから、その生活を楽しいものにするための努力は欠かせないし、何より重要なもののはずだ。無一郎の変な髪型にはとくに言及されないままで回想の両親・兄ともに死んでしまった。あの髪型の謎は霞の中に消えることだろう。
Youtubeで保護犬と受刑者のニュースが流れてきたので再生してしまう。シンプルだが力強い物語と映像があった。パクスという黒犬(1歳数カ月オス)が、元野犬ということであからさまに人見知りをしていて、彼が緊張と戦っている様子は他人事とは思えなかった。それでというわけではないが、人一般に対する警戒心を馴らそうとする試行には、完全に人馴れした犬には見られない知性のきらめきがあったように思う。こいつは安全なやつか?大丈夫なのか?と伺う上目遣いの瞳の揺れに、彼の不安な思考の動きが読み取れた。
定時退勤し、バスケをキャンセルし、スタバに行く。腰が痛いというのがバスケをキャンセルした理由だが、もっとテーブルに座る時間を増やしていくほうがいいのではないかと思うところもあり、しばらく考え事をしようと思ったのでスタバに行くことにした。
『理由と人格』を読み進める。今回はクレアが登場した。彼女は自分の子供を他の人に優先して助けようとする考えの持ち主で、それが不正だとしても自分はそうすることを選ぶという考えの持ち主でもあった。ここでのポイントは、自分の選んだ行動が不正であると知りつつそう行動し、それを改めようともしないが、そうすることが不正であるという考えを同時に持っているということだ。倫理がクレアの考えをどう扱うかに関心がある。だから続きが楽しみだ。ケイトといいクレアといい、彼女たちの存在が問題の所在や問題のかたちをわかりやすくしてくれる。自分は倫理や道徳によって自分の考えを補強してほしいという願望は持っていないと思う。だから自分のやることが不正であり、しかも自分がそう行動することは批判できないという捻れた考え方には馴染みがある。自分のやることが正しいという主張をしようとは思わないということだが、そんな主張が必要にならないというのは置かれた境遇によるものでしかなく、自分は運が良いということになると思う。そして自分は、運が良くない人にも当てはまるような普遍的法則を見つけたいとも見つけようとも思わない。自分や自分と似た境遇にある人のためだけに自分の持っているリソースを使おうとしていると言え、それは不正だろうと思う。しかし自分の持ち分をどう使おうと自分の勝手だと考えている。本当に自分勝手なことだ。
20時半すぎまでスタバにいて、酒を飲んで帰ることにする。明日も出社しようかどうか、ややハードなバスケに行こうかどうか迷っている。やる気次第、腰の回復具合次第だといえる。今判断できないことは判断できるときに判断するしかないということだ。

20251006

日記651

〇〇と豆の△△

2025/10/04 一昨日
映画『ワンバトルアフターアナザー』の朝の回を丸の内ピカデリーまで見に行く。Pixel6aのFelicaトラブルで改札を通れず電車を一本逃し、ドルビーシネマの紹介映像に間に合わないかと思われたが、日比谷から走ったおかげでぎりぎり間に合い、紹介映像を見られた。肝心のワンバトルアフターアナザーは娯楽作品として見る分には楽しんで見られた。
帰宅して冷食チャーハンを食べてから本を読んだり昼寝をしたりダラケて過ごす。このまま一日が終わりかねないところだったが、サイゼリヤに行きたいという家人の鶴の一声で笹塚のサイゼリヤまで散歩がてら歩いて向かう。しこたま飲み食いして二人合わせて3000円という破格に、まあまあ久しぶりのサイゼだったこともあり新鮮に感動した。小雨のぱらつくなか歩いて帰宅した。最高のシーズンを生きているという実感があり充実したような足取りになっていた記憶がある。


2025/10/05 昨日
12時から港区の小学校でバスケの大会があったので参加する。3チームでの争いだったのだが、2勝して優勝になった。今回の参加チームの中でズバ抜けて上手いガードとズバ抜けて得点力のあるフォワード、一番と二番目に背の高いビッグマンがいるチームだったので、正直負けるのもむずかしかった。勝ち負けと関係ないところで背中を負傷してしまった。ぶつけたとかではなく疲労系の故障なので、前後にきちんとケアをしたり、トレーニングをしっかりやらなければ。
田町から高輪ゲートウェイに移動し、Newomanのなかのカレー・ラーメン・ビールのフードコートでラーメンを食べる。祝杯代わりのサッポロ黒ラベルも美味しかった。あとは翌週に迫った家人の誕プレ候補を探したりなど、買い物に付き合う。といいながら半分以上は自分の買い物をしていた。駅の芝生で氷結を飲んでから帰りの電車に乗る。買い物中から背中がどんどん痛くなってきていた。最寄りのまいばすけっとで弁当を買ってきてもらい、家で食べる。『海に眠るダイヤモンド』を見る。そのなかのひとつだけでも一本のドラマとして成立する要素を盛り盛りにして全部しっかり描こうとしている意欲作で、テレビドラマにしてはかなり相当頑張っている。映画、アニメなどフォーマットにかかわらず頑張っている人はいるんだと思って、特定のフォーマットだから駄目だと判断するのではなく、きちんと良いものは良いと見極めていかなければ嘘だという、言葉にしてみれば当然のことを再確認した。テレビドラマだからといって舐めている場合では全然ない。ひとつのセリフ、ひとつの言葉によって人物に血を通わせようとする気迫のようなものが感じられる。ドラマっぽいものにしないという気概がありつつ、ドラマチックなことを言おうとする場面は人間誰しもにあるというという信頼をもって針穴を通そうとしている。ほかの作品について知っているわけではないが野木亜紀子は脚本家としてちゃんとした仕事をしていると思う。
背中・腰の痛みが早く引けばいいと願いつつ、出社に備えて早めに寝る。


2025/10/06 今日
腰が痛いのもあるし、眠かったので午前在宅にして8時半まで寝る。腰の痛みは起きてしばらくしても引いていかなかったので、結局、昼から出社にもせず一日在宅にする。仕事をサボるだけの時間を過ごす。TVerでオールスター後夜祭を見る。すこし昼寝。これでは駄目すぎると、言い訳のように『美の進化』をほんの数ページだけ読む。さすがにこれでは人の形を保てないと思ったので定時退勤してスタバに行く。やる気の出ないもとが『ワンバトルアフターアナザー』の感想を書きたいけど感想を書きたくなるほど面白くなかったと感じていたことだというのが、感想を書くことではっきりした。ちょっと元気が出たのでそのまま日記を書いて21時すぎにスタバを出る。外は涼しく最高の気候なので酒を飲んでから晩御飯を食べて帰ることにする。さすがに明日は出社しないといけない。

20251003

日記650

クラブ活動

2025/10/02 昨日
この日も一日在宅勤務。友人が家に来るのでいろいろと準備をする。仕事は暇でどうにでもなるという感じだったのに友人が下北沢駅に到着する時間になって急遽のタスクが降りてくる。仕方なく対応するが、無理して働いているフリしないでもいいよと言われてしまう。まあたしかにパフォーマンスの一環だと思えば今回ばかりはちょうどよかったといえるかもしれない。
荷物だけ置いてもらって下北の街に繰り出す。散歩中の犬がべつの散歩中の犬と遭遇し、大きい方が小さい方の鼻面に噛み付く場面にでくわす。驚きのあまり「コラ!」と言って周りを驚かせてしまった。
季節も季節だしこれはやりたいと思っていた路上飲みをいきなり実行に移すことができた。友人は何かとふざけたがるわりにスクエアなところもあるのですこしハードルがあるかとも思ったが、ヘラヘラしながらなんとなく提案して了承を取り付け、即ドンキで缶ビールを購入。ウェンディーズ近くの踏切の十字路で乾杯を済ませる。
そこからずっと路上飲み、路上飲みのみでもよかったのだが、まあさすがに勘弁してやるかということで店に入る。二、三回行って気に入っていた都夏(つげ)に連れていく。夏の終わりに行くのにもっとも適した店だと思うし、店選択は言うことなしだったはず。昔の話ばかりしていてはいけないという枷を自分に嵌めつつ、だからといって先の話にも具体的な展望があるわけでもなし、中途半端な発話に終始してしまった。お互い現状に不満があるというのではまったくないが、満足しているわけではないという中途感を確認したということはいえるかもしれない。友人は資格の勉強をして雇われではなく個人事業主で働きたいという展望があるということだった。自分は仕事に関しての希望はどれだけ短い時間で済ませられるかという税金感覚しかないので、そういう部分では話が展開していかない。昔目指していた職業について、今の感覚でやってみるのもいいかもしれないよという提案を受ける。たしかにそうかもしれないと思う部分がないではないが、自分の最強の欲求と付き合わせて考えるとそうでもないなという結論に今のところはなる。人と関係していく仕事に昔ほどの感覚がない。これはよくもわるくもということだが、自分の傾向からするとよくの部分が多い気がする。
一旦帰宅し、最寄り駅の気になっていた飲み屋に出かけようとする。しかし繁盛が閾値を超えて超満員だったので店には入れず。家に帰って宅飲みをすることにした。今回、Lシステインのことを教えられたのがもっとも大きい。二日酔いの頭痛が無くなることには大きな意味がある。飲酒に付き物の、なくてもいい苦痛が無くなることで大幅なQOLの向上を望めるからだ。
飲み終えて寝る準備をする。電気を消して寝る前の時間、昔タリーズでバイトしてその日のバイト代を全部使って飲んでいたとき、上七軒の下宿に泊めてもらったことを懐かしく思い出した。今とは比べ物にならないほどもっと不安定だったが、ある面での満足の度合いは今と変わらないと思った。慌ててもしょうがないが、もっと急ごうとしてみてもわるいことは何もない。


2025/10/03 今日
AM休を取って友人を見送りがてら下北沢まで出る。スタンダードベイカーズで朝食を摂ってから、朝の下北沢をスズナリ、リロードのあたりまで散歩して紹介した。成田空港からのフライトということで11時には解散。スタバに行き、図書館カウンターで受け取ったパーフィットの『理由と人格』を読む。分厚い上に大きい大著で読むのには苦労しそうだが、パーフィットのことを知るためには伝記のような半端なかたちでその生涯を追いかけるより、その著書を読むほうがむしろ効率的にちがいない。それはなぜか前後半2冊に分かれている伝記の前半を途中まで読んで感じたことだから伝記にも意味がないとは言えないが。
まだ1章の最初までだが印象的なのは「自分の本をよくする」という最強の欲求を持つケイトだ。書きたいという欲求と自分の人生を持っているすべての人にとって考えるに値する内容が考えられていると思う。避けては通れない、もし避けて通るためにはケイトと同種の最強の欲求を持ち、その欲求の成就に向け邁進するしかない考えだ。しかし、それについて「どうする、どうしよう」と考えるのは合理的ではないかもしれない。それは欲求の成就という観点からは立ち止まっているカウントになるだろうからだ。自分を納得させないと進めないというのはたぶん偽りなのだろうし。
しかし、それとは直接関係ないのでしかしというのもちがうかもしれないが、今時点でパーフィットについて思うのは、彼は人間が100人いるということを受け容れて、その利益が最大化するために思考しているということだ。人間が自分1人しかいないとすれば、「理由」を考えることは意味を持たない。しかし自分以外の99人の存在を認めるとすれば、「理由」について考えることは意味がある。その思考があるおかげで正しいと思う方に人を方向づけられたりするからだ。パーフィットは自分1人の人生を犠牲にしているという考え方ではないのだろうが、それを犠牲とは言わないまでも、ある時点から始まってある時点で終わる人格にとって、その接続(他に人が99人いる・人格が99あるという考え)は信じるに足るものなのだろうかという疑問が自分にはある。それはこだわるよりも通り過ぎるほうが理に適っているというのは感覚的に同意できる。ナンセンスを回避するという意味で受け取りやすい。しかしそうするとパーフィットの提出するような問題も同じように扱ってかまわないのではないか。どこに考える/無視するを画する一線があるのか。
ぜひケイトの意見を聞きたいと思っている。

20251001

日記649

青い月


2025/09/30 昨日
午前中在宅。昼からの出社をとりやめて一日在宅勤務にする。『海に眠るダイヤモンド』というテレビドラマを見る。
定時退勤しバスケのため狛江に行く。この日は参加人数が落ち着いていてプレー頻度も多く、参加者の塩梅がのびのびプレーできる感じでただただ楽しかった。
最寄駅で家人と合流し、まいばすのオリジン弁当で晩ご飯を買う。塩野菜炒め弁当のご飯特盛。帰ってご飯を食べながらアンシャーリーのたぶん20話を見る。アンが生まれて間もなく病気で亡くなった実の両親の暮らした家に行く話。最近三鷹の友人宅で幸福な劇を見たあとだからそこにある悲劇をイメージしやすくて苦しい思いをした。アンの出生の秘密を知ったからにはということで第1話を再視聴する。過激な感動家時代のアンもそうだが、何よりマシューが懐かしくて涙が出た。


2025/10/01 今日
朝から出社。溜めておいた仕事を片付けにかかる。午前中で完了できそうだったがすこし積み残ったので午後もオフィスで働くことにする。虎ノ門ヒルズで働くのも残りわずかだと思うと、まあ働いておいてやるかという感じだ。とはいえ16時にはタスク全消化しており、残りの時間をじりじりして過ごした。定時退勤して帰宅。2日連続のバスケになるが狛江に向かう。明日は関東に遊びに来ているタリーズ時代の友人と飲みに行くことになっている。三茶か下北か、いずれにせよ楽しみだ。

20250929

日記648

抜け感(引っこ抜かれたビル)

2025/09/28 昨日
昼ご飯に梅窓でとり天生醤油うどん大盛を食べたあと一旦帰宅。家人と公園まで出かけてバスケの特訓に付き合う。ドリブルとシュートの基礎練習をしてからドリブルシュートの応用に至る40分程度の練習で良い汗を流した。不慣れから実行中の動作から次の動作にスムーズに移行するのが難しそうだったが、慌てて動作が雑になることでのミスはほとんどなく、リズム感の良さが感じられた。ただしシュート場面では他の練習している人のボールが飛んでくる恐怖から目に見えて雑になっていた。恐怖心からシュートを雑に打つというのが癖づいてしまうともっとも基本のシュートが入らなくなってしまうので、ある程度の負荷のなかでも平静を保ってシュートを打てるマインドを身に着けるとあとは流れで上達していけそうだと思う。バスケプレーヤーの資質としては自分のリズムがあるというのが大きい。
帰宅してシャワーを浴びてから大相撲の千秋楽を見る。豊昇龍が気を吐いて本割ではオオノサトを破った。オオノサトも優勝決定戦で同じ相手に連敗するということはなく、もっとも丸く収まるかたちで場所を終えたと思う。昨日の立会変化の悲壮感からの軟着陸としてはこれ以上ない筋書きになってホッとした。
東京に遊びにくる友人と集合時間帯のことなどを電話で話した。鴨川シーワールド目的で家族で千葉に来るらしく、控えめに言ってめずらしい、有り体に言って素っ頓狂なプランだと思ったが、家族は1泊2日で帰り、友人だけ家で2泊していくことになっている。当日は下北三茶エリアで飲む予定でいる。
高円寺までバスケをしに出かける。腿の前側上部に張りがあって若干プレーに差し支えたが、できる範囲で一生懸命走って楽しくプレーできた。行きはレンタルサイクルで体育館に行き、帰りは参加者の人の車で世田谷代田まで送ってもらった。プレー中はタフだがコートの外では穏やか、話しぶりのトーンが完全におしゃれな人のそれということもあり、ぜひ仲良くなりたいと思わさせられた。また機会があれば車で送ってもらい、話をして距離を詰めたい。今回は出身の話、バスケを始めたきっかけ、バスケを見るかどうかなど、お決まりのパターンの会話だった。おしゃれな感じの人と仲良くなるための話題について考えておくことにしよう。リラックスして適度に砕けた調子というのは学ぶべき対人スキルだ。落ち着いているが硬くないトーン。話していて自然に嬉しくなる感じ。帰ってシャワーを浴びながら感心しきりだった。
氷結無糖GFを飲んでオリジン弁当の半額惣菜とライス大を食べる。録画されていたNHKスペシャル「未完のバトン・最終回 “最期”の希望 長寿社会の果てに」を見た。今読んでいる哲学の本『理性の権利』にしても、バスケなどで考えていることにしても、健康で充実した体力と思考力という基盤があってはじめて適用されるものであって、土台が崩れたときには全然関係なくなってしまうのではないかと思わさせられた。だから先手を打ち、高齢になって死期が近づいたときにも適用されうる思考をしておくべきだとは思わない。しかし性急に考えを前に進めようとして、そういった自分自身の高齢化にともなった変節後にありうるかもしれない思考を排除するのは気が引ける。できればそういった内容も包摂したい。ただ、進めるときに進んでおくこと、いらざる遠慮をしてどこにも到達しないままでいいやと諦めることはしたくない。自分自身の言い方でいうと、死なないというつもりで生きる、ということになるが、その姿勢では自分とは違う立ち位置にいる人と何かを交換することはむずかしいかもしれない。最期が接近しすぎてこれはもう無理だと思うときはくるのだろうが、そのときのことはそのとき考えればいいやと思う。そうなったときにもし何かを交換したいという思いが自分の中に現れたとして、それはそのとき同じ考え方・感じ方をしている仲間と、ということになるか、それとも全然違う考え方をしている人と、ということになるかわからない。訳知り顔で本当には思っていないことを言って合わせてくれるような、自分よりも最期が遠い若い優しい人には一番用がないのではないかという気はする。しかしそれもわからない。程度というものもあるのだろうし。
理性の力が弱くなる、光が弱くなるということを経験した個人として書き物を続けた人が日本の思索家には多いと思う。それは啓蒙主義的には弱い光なのかもしれないが、ひとつの人生を生きるひとりの個人として、必ずしもグローリアスでもない、むしろどこかトボトボ歩くような経路を見せてくれた人には、敬意欠くことはできない。トボトボと見えるというのはそういった意図でそうしたわけではないというところに悲哀がある。しかし同時に、本人は本人にできること、やれることを全部やっていたという点で見るものはつねに励まされる。
NHKスペシャルの話に戻ると、好きな帽子を被って看護師を伴いスーパーに買い物に行くという経験が本人にとって「たまにはいいな」というものであったということには意味がある。そういうお出かけのなかにある価値というのは理解できる。いまの自分に引きつけてみても共感がある。


2025/09/29 今日
朝から出社。正午すぎまで仕事をこなしてから帰宅し、在宅勤務にする。行き帰りの電車では『理性の権利』を読んだ。昼飯に納豆チャーハンを食べてながらABEMAで「ドーピングトーキング」「チャンスの時間」を見る。面白いが時間を無駄にしている。乃至、時間を無駄にしているが面白い。小一時間昼寝をする。認知機能に悪いであろう、たくさん夢を見る浅い昼寝になる。良し悪しは本当のところよくわからないが、感覚としては幾度となく見当識を手放しているような感じで、頭に悪そうな気はする。その後、運動前のストレッチをやってからバーピージャンプをする。イヤイヤやるのは構わないが、全力でやれてないのは駄目駄目だ。ダメダメバーピーだった。仕事の用をこなして退勤。シャワーを浴びてからスタバに行く。『理性の権利』を読み終わる。読了の達成感が全然ないのは、半分も理解できていないまま読み終えているからだ。半分も、というのはかなり大目に見たような言い方で、実際の理解度のパーセンテージについては考えたいとも思わない。手に負えない現代思想というのではなく、丁寧に著者に付いていって読書するということができていないので、知的能力のなかでは知的体力の欠如あるいは怠惰からくるものだというのも居心地がわるい。ダメダメ読書だ。
21時にはスタバを出て外で飲むことにする。しかしこれはダメダメ飲酒ということにはならない。なぜならば自分は知力体力という軸だけでやっていないからだ。酒を飲んでぼーっとする時間には価値がある。だれに説明しようとも思わないが、自分の中には確かにある価値だ。

20250928

日記647

人の月見というより月の人見

2025/09/26 一昨日
19時過ぎにスタバを出て、永原真夏の無料音楽ライブを聞きに行った。『Super good』という曲が超良い。秋の夜風とあいまって特別な感慨をもたらしてくれたことに感謝の念をおぼえた。その後吉野家に移動して唐揚げ定食大を頬張る。ご飯大盛×2でぎりぎりまで満腹になった。友人と合流して下北での歩き飲み。途中、ライブ衣装のまま歩く永原真夏を見つけたりなど、ひとしきり歩いたあとで工事終わりたての階段に座って飲む。話し出しのトピックをいくつか持っていたほうがいいという提言があって、それにはたしかにと思わさせられたので考えてみる。「一万円札ってやっぱ福沢諭吉がよくないですか?」「このまえウィキペディアを見ててびっくりしたんですが、」でもやはり提言元の友人とちがって自分はお喋りな方ではないし、静かになったとき再起動する役割をこなそうという気にならない。だまってにこにこしているだけで十分ではないだろうか。人が何か喋ってそれが興味惹く内容であるということに期待したいし、そのスペースを自分の喋りで埋めたいとは思わない。埋めない程度に最初だけ担当するというのは礼儀上、また社交上のテクニックとして身につけておくべきだとは思うが、自分の負担を考えると面倒だしやりたくない。そこまでサービスしてやるいわれはないぞと思ってしまっている。あとはどういう動機で小説を書きたいのかということについて訊かれたので考えて適当に答えたが、自分でもこれという回答は出なかった。動機のことは精緻に考えない。なぜそうしたいのかを掘っていって何か良いものが埋まっているとも思えないし、人に言おうとする過程で変な方向にブレることが多い気がする。これは正確に言おうとすることで生じるミスで、たぶん言葉遣いの不足、会話のテンポを維持するための制限時間の短さ、アルコールによる勢いから出てくることになる。その自分自身の間違った言による方向づけはそのときに正しいと思えても結局はそうではなかったなどの理由から高い確率でロスになる。そもそもリーズナブルな動機やモチベーションがないと何かを始められないというのは勘違いのもとだと思う。その方向に行くと楽しいから、で十分だ。それだと会話上何も言ってないようなものだが実際そんなものだ。


2025/09/27 昨日
朝から『理性の権利』(原題『The Last Word』)を読む。4章「論理学」5章「科学」を読んだが内容がほとんど頭に入ってこない。頭に入るまで何度も戻りつつ読むか、とりあえず読んだ扱いにして続きを読んでいくうちに自然に軌道に入るのを期待するかという二択になるのだが、最近は後者ばかりを選んでいる。大学生近辺の頃にはそんな二択すらなく、頭に入るまで繰り返していたことを考えると、明確に知的に怠惰になっている。衰えているのであればまだしも怠けているのでは、そもそも何のためにその時間を費やしているのかということになるのだが、そういうことを考えることも少なくなった。入ってくるときには入ってくるからそれが起こることを漫然と期待してコーヒーなど飲みながら読書している。
体力の回復をはかるという名目で筋トレなども一切せず、家でごろごろして過ごした。大相撲を見ようと起き出したが、琴桜休場ということで豊昇龍には厳しい結びの一番になった。立ち合い変化で若隆景をしりぞけていたが、そうするのを強いられたのも、そうすることを選んだのも自分自身とはいえ、かなり苦しそうで見るのもつらかった。
夕方散歩がてらまいばすけっとに晩ごはんを買いに行く。氷結ゆずスパークリングでご機嫌になって帰宅。オンラインでのAmong Us会に参加する。友人が地元の新潟のフレンズたちと読書会をしていてそこのAmong Usパートに入れてもらったかたち。ナイスアンドフレンドリーアンドキルアンドデストロイで、たのしい会になった。せっかくインポスターになっても緊張して言い逃れができず。クルーのときに自分が何を言って身の潔白を示そうとしているのかという情報を自分自身で収集して次のインポスター役にそなえようとしていたが、その後インポスターになることはなかった。都合3回ほどインポスターをつとめてすべて殲滅させられた。やっぱり楽しいからまたやりたい。


2025/09/28 今日
午前中からスタバに行って『理性の権利』を読む。第6章「倫理学」は読むのに苦労したが、理性についてとても格好いいことを言っていた。
理性とはつまり、その場所での真理の代理人へと、また行為の場合には正しさの代理人へと私自身を化そうとする企てなのだ。172p

日記を書いているうちにお昼の時間になったので下北のうどん屋「梅窓」で昼ご飯を食べるため家人と合流することにする。

映画『ワンバトルアフターアナザー』を見た

映画は気晴らしでしかない。などと言うと、その否定派はたくさんいることだろう(たくさんいてほしいものだ)。 まずもって映画視聴に求めるものをただの気晴らしとするかどうかによっても意見がちがってくるところだろうと思うが、ことアクション映画(以下A映画)については答えが出ている。A映画...